第4話 時を遡る女神の誓い
──処刑場を離れて、どれほどの時間が経っただろう。
夜風が森の梢を揺らしていた。セラはその風に包まれながら、シードの身体を抱きしめるように宙を飛んでいた。黒衣の青年はぐったりと力を失い、彼女の腕の中で眠っている。
「もう少しだけ……持ちこたえて……」
セラの声は震えていた。
かつて彼は、奇跡の巻き物で呼び寄せられた魂としてしか触れられなかった父。
今、その「生きている彼」を腕に抱いている。
(もしお父様が生きていたら……私もこんなふうに……)
だが、その未来は訪れなかった。
彼はセラが生まれる前、双子の人間を瓦礫の崩落から身を挺して庇い、命を落とした。
その事実は変えられない。歴史の改変は、世界を歪める禁忌だ。
白銀の瞳が前を見据える。風の精霊たちがセラの周りを舞い、羽のような気流が二人を支えていた。
やがて、森の奥深く――木々が密に生い茂り、月明かりも届かぬ場所に降り立つ。
セラはシードを苔の上に横たえ、短く息を整えた。
「……ここなら、見つからない」
深く息を吸い、両手を胸元に当てて魔力を呼び起こす。
――創造よ、芽吹け。
祈りと共に大地が応えた。
根が伸び、蔦が絡まり、木々が軋む音とともに形を変える。天蓋のような枝葉が空を覆い、葉が折り重なって屋根を成した。
幹がくり抜かれ、隠れ家のような小さな庵が生まれた。
そこにセラはシードを運び入れた。
室内は淡い光に満ちていた。床には柔らかな緑の苔、壁際には小さな水脈が澄んだ音を立てて流れる。
セラは旅装のローブを裂き、冷たい水を染み込ませて彼の額に当てた。喉には赤く腫れた痕と、皮膚の裂けた傷が残っている。
「苦しかったよね……ごめんなさい……私、もっと早く……」
震える指で喉元の傷をなぞり、静かに魔力を込めた。
「お願い、治して……お父様を……生かして……」
セラの手のひらから、花のような光が咲く。
柔らかな癒しの魔術が彼の傷に伝わり、腫れた皮膚が和らぎ、呼吸が整っていく。
「ふう……」
ようやく安堵の息を漏らす。だが、彼の瞼はまだ閉じたまま。
セラはシードの傍に寄り添い、その手を握った。
温かくなり始めた手。遠い未来、父として触れるはずだった温もりがそこにある気がした。
「ねぇ……あなたは、まだ知らないかもしれないけど……」
彼女はそっと語りかけた。眠る父に、届かないかもしれない言葉を。
「私は、あなたの娘なんです。女神ラナスオルと……あなたの」
涙が頬を伝った。
「……会えて、良かった……本当に……」
風が葉を揺らし、彼女の声に応えるように森がざわめいた。
セラの囁きが闇に溶けかけたその時、青紫の蝶が宙に舞い、髪飾りから小さな光が漏れる。その光が空間に煌めくと、実体を持たぬ時の神――ゼオラシュトが現れた。
長い髪を揺らし、緩やかに腰を下ろすと、紺色の瞳でセラを射抜いた。
「セラちゃん、それは決して『パパ』には言っちゃダメよ」
ゼオラシュトの声は優しかったが、明確な警告を孕んでいた。
「え……?」
セラは小さく目を見開いた。だが、すぐに問い返すことはできなかった。ゼオラシュトの瞳が真剣そのもので、ふざけた調子を一切含まなかったからだ。
「もしね、今のアナタが『未来の娘』だと明かせば……歴史が、正史から大きく外れてしまう可能性があるの。小さな石でも、川の流れを変えることがあるでしょ? それと同じことよ」
蝶の羽音を響かせながら、彼は続けた。
「この時代のセラちゃんは、シードちゃんにとっては『ただの他人』。出会いの縁も、血の繋がりも、何もない。ただの旅人。そうでなければいけないのよ」
「うん……」
セラは俯き、唇を軽く噛んだ。
「辛いとは思うわ。でも……頑張ってね、セラちゃん」
ふっと表情が緩む。ゼオラシュトは眠るシードのそばに腰を下ろし、その頬に指先を伸ばした。白く滑らかな肌に、そっと触れる。
「十八歳のシードちゃんの寝顔……とっても、かわいいわねェ〜」
先程までの真剣さはどこへやら。
とろんとした目でシードを見つめ、指で頬をなでるゼオラシュト。
「……死に顔も素敵だったけど、ウッフフ、やっぱり生きてる時の血の温もりが、一番ゾクゾクするのよォ〜♡」
「……変なこと言わないでください」
セラが思わず真顔で制した。
だが、その表情はどこか柔らかくなっていた。
「……でも……あなたのおかげで、お父様を救うことができました。本当に……ありがとう」
その言葉に、ゼオラシュトは肩をすくめて扇子を開いた。
「おやすいご用よ。けどね、大変なのはこれからよ? セラちゃんがこの時代に来たことで、歴史が少しずつズレていくかもしれないの。それを最小限に抑えながら、慎重に行動しなきゃ」
声の響きは優しいが、確かな重さが滲む。
「今日はもう、少し休みなさい。セラちゃんが倒れたら、意味がないわ。彼のことはアタシが見ててあげるから、ネ?」
その提案に、セラは静かに頷いた。
身体は正直だった。魔力を使い果たし、不安と希望に揺さぶられた心は、すでに限界に近い。
「……じゃあ……少しだけ……」
木の葉のベッドに横たわり、父の隣にそっと身を沈める。
微かに香る草の匂い。夜風が木の間を通り抜け、精霊の囁きのように葉が優しく揺れていた。
ゼオラシュトは髪飾りに姿を戻しながら、満足げに呟く。
「夢の中でくらい、『パパ』に甘えてもいいわよ。ウッフフ……」
その言葉を聞くことなく、セラは深く眠りに落ちていった。
夜はまだ長い。だがその中に――確かに、光はあった。