第2話 屍の賢者
宿の一室は、しんと静まり返っていた。
古びた石壁は外の冷気を閉じ込め、ほのかな寒さが漂っている。窓の外から差し込む夕刻の光が茜色に染まり、部屋の奥まで伸びていた。光の帯の中を漂う埃の粒子が、金色に煌めく。
街の喧騒は遠ざかり、時折軋む床板の音と、セラの呼吸だけが響いていた。
その静寂の中心で、蒼く深い瞳がセラを見下ろしていた。湖底のような色は底知れぬ力を湛え、優しくも逃さぬ視線で彼女を捉える。
ベッドの上に横たわるセラ。純白の髪が枕元に絹のように広がり、月光のような淡い輝きを放つ。華奢な姿は人形のように静かだが、閉じた瞳の下には影が落ち、痛々しい疲労の痕が残っていた。
「……セラちゃん、セラちゃん。そろそろ起きてちょうだいな」
耳元に降りてきたのは、甘くふざけたような声。だが、そこには奇妙な確信が混じっていた。男とも女ともつかぬ声色が、意識の深みに軽く触れる。
セラの眉が僅かに動く。長いまつげが震え、重いまぶたがゆっくりと開いた。
視界に最初に飛び込んできたのは、光を帯びて舞う蝶の群れ。その中心で、脚を組み涼しげな笑みを浮かべる神――ゼオラシュトがいた。
濃い化粧は異様なまでに艶やかで、現実感を失わせるほど華やかだ。
「うぅん……ここは」
「アラ、やっと起きた? おはよう……って言うには、ちょっと遅すぎるかしら。丸一日、寝っぱなしだったのよ」
ゼオラシュト――普段はセラの頭の髪飾りに姿を変え、彼女にだけ姿と声を見せる「時の神」。
扇子をくるくると弄び、優雅に椅子へ腰かけるその姿は、人の世に溶け込まない。それでいてなぜか、妙に調和していた。
「……丸一日……?」
ぼんやりと呟いた瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走る。
「そうだ……お父様は……っ」
処刑台の光景が脳裏を裂くように蘇った。
踏み台が蹴り飛ばされる音。縄が首に食い込む感触。見開かれた瞳。必死のもがき。助けられなかった現実――抗えぬ終焉の記憶。
叫びは声にならず、熱い涙だけがこみ上げる。
「……セラちゃん、落ち着いて。話があるの」
ゼオラシュトの声音が低く重くなった。扇子をぴたりと閉じ、紺の瞳をまっすぐ向ける。
「あの街は滅んだわ。処刑広場ごと」
「……滅んだ……?」
意味を掴めず息を呑むセラに、ゼオラシュトは肩をすくめ、冗談めかして言った。
「ええ、跡形もなく。人も建物も、ぜーんぶ綺麗に灰になっちゃった」
「どう……して……?」
か細い問いに、彼は冷ややかな笑みを浮かべる。
「彼らはね、『間違った殺し方』をしたのよ」
「間違った……?」
「そう。シードちゃんは死霊術師。ただ殺せばいい相手じゃない。なのに人間たちは普通に処刑した。そんなやり方で、彼がそのまま死ぬはずがない」
淡々としながらも、言葉の芯は鋭い。
「しかも……苦痛を与えた分だけ、死の呪いは強まる。彼を『正しく殺せる』のは、女神ラナスオルちゃんだけ」
母の名が出た瞬間、セラの心臓がひやりと止まるようだった。
「つまり……お父様は……」
「ええ、『屍の賢者』になったの。腐敗と絶望を撒き散らす存在として、いずれこの大陸に戻ってくるわ。ま、それはそれで美しくて、アタシは好きだけどネ」
陽気な口調のまま、残酷な事実を突きつける。
血の気が引く。未来で「銀灰の守護者」と呼ばれた誇り高い父が、神へ至らず最悪の不死者として蘇る――自分の無力さが、歴史を狂わせた。
「でもね、セラちゃん」
ゼオラシュトの声が、唐突に柔らかくなる。
「アナタのパパは未来で『死と恐怖の神』と呼ばれる男。こんな終わり方、似合わないわ。彼はまだ、物語の途中にいるんだから」
その言葉が、心の奥を揺さぶった。
「だから……やり直すの。アナタの手で」
「……やり直す……?」
妖しい笑みが浮かぶ。
「そう。アタシは『時の神』。セラちゃんが本気で願えば……あの日に戻れちゃうんだから」
甘い毒のような囁きが耳に染み込む。
「パパを助けましょ、セラちゃん」
胸の奥に小さな灯がともる。絶望の闇に、細く確かな光が差し込んだ。
「……できるの……? 本当に……?」
「できるわ。今のアナタなら」
ゼオラシュトは真剣に頷き、扇子をひらりと翻す。
「時間は流れてる。急ぎましょ!」
セラは涙を拭い、強く手を差し出した。
「……お願い、ゼオラシュト。時を戻して!」
「任せて――伝説を、もう一度始めましょう」
光が歪み、空気が震える。時の神の圧倒的な力が、空間を満たしていく。
そして――世界は緩やかに反転を始めた。
(お父様……必ず……あなたを助けます!)