第1話 Channel the Void 〜虚空〜
禁葬国家ヴァルグレアにて。
処刑台の上で風が唸りをあげた。
張り詰めた空気と、雲ひとつない夕空のもと、無数の視線が広場に集まっている。民衆の眼差しには、怒りと、どこか虚ろな期待が滲んでいた。
台の中央に立つのは、一人の青年。
年齢は十八歳ぐらいだろう。首には荒縄が掛けられ、手足は魔力を封じる鉄環で固定されている。銀色の髪は乱れ、額にかかる陰が表情を隠していた。
瞳は閉じている。祖国さえも自らの手で滅ぼした狂気の男は、静かに踏み台の上に立ち尽くしたままだ。
「これより、教国の悪魔――死霊術師シード・セルアシア・クロウディートの刑を執行する!」
官吏の女の声が広場に響く。群衆のあちこちから罵声が飛び、唾を吐く者、石を握る者までいた。
「教皇を殺した化け物目め!」「血に飢えた悪魔!」「死霊術師なんざさっさと吊るしちまえー!」
だが、男――シードはその声に応じない。彼にはそれがすべて水の中から聞こえてくるような、遠くくぐもった音にしか感じられなかった。
罪を犯し、捕えられ、見せしめとして処刑される。それをなんの抵抗もなく受け入れた彼にとって、この時間はまるで現実から切り離されたような感覚だった。
その時、再び大きく風が吹いた。銀髪が揺れ、整った顔立ちが露わになった。そこにあるのは、感情が欠け落ちたかのような無表情。
やがて、処刑人が近づく。
「……最後に、言い残すことはあるか?」
処刑人の問いに、男はゆっくりと目を開けた。冷たい銀色の瞳が、一瞬だけ広場を見渡す。
その時、彼の視線は確かに捉えたのだ。
蝶の髪飾りを付けた長い白髪を振り乱しながら、群衆をかき分け必死に叫ぶ少女の姿を。
「待っ……! お願い……まだ……!!」
涙を流しながら彼を呼んでいた。声は届かないはずなのに、その唇の動きだけで分かった。群衆の中で唯一、誰よりも自分の死を悼み、拒絶してくれている者。
「君は……誰だ?」
シードはその顔に見覚えはない。十八年間のどの記憶を辿っても、彼女と出会いを交わしたことなどない。年齢から見て自分とさほど変わらず、どこか神聖な気配すら漂わせている。
(知っている気がする)
声を、どこかで聞いたことがある。手を伸ばされた記憶も。
呼ばれた感覚。温もりを覚えている。触れたことなどないはずの温もり。だが、それは記憶ではなかった。
――未来だ。まだ訪れていない、これからの時間のどこかで、交わされたはずの感情。
「君は……なぜ、僕のために……?」
答えを求める時間は与えられなかった。
「執行!」
処刑の命令が下された直後。
ドン、と乾いた衝撃音が響き、シードの足元の踏み台が蹴り飛ばされた。
その瞬間、シードの身体は宙に投げ出された。
軋む音と共に、縄が首を締め上げる。咄嗟に吸い込んだ空気が喉元で詰まり、苦鳴のような呻き声が漏れた。
足は空を掻き、指先は小刻みに震え、視界は焼け付くように歪んだ。
(ああ、ここで終わるのか……)
喉が潰れ、空気を求めて肺が喘ぐ。
死を受け入れたはずなのに、身体は意思に反して痙攣していた。
彼をそうさせるのはただの生存本能だけではない。あの白い髪の少女の涙が、心の奥を僅かに震わせたのだ。
(君と話を……したかった……)
肉体は既に限界を迎えている。血の通わぬ頭が熱を帯びて燃えるように重い。
意識が崩れ落ちていく。もがき苦しみながら最期に目にしたのは、少女の、涙に濡れた白銀色の瞳と、震える声で名前を呼ぶ口元。
――その姿が、どうしようもなく懐かしく思えた。
「……いや……やだ……やだ……!」
少女は遠くから、シードに手を伸ばそうとする。
「……お……父様……っ!!」
絞り出された言葉は、あまりにも遅すぎた告白。
砕け散る涙も、声も、もはや彼には届いていなかった。
少女が処刑台へと駆け上がった時、吊るされたシードの身体は何も感じることなく、ただ静かに宙を揺れていた。
群衆が歓声を上げる。
「ざまあみろ!」「忌々しい死霊術師が死んだぞ!」
憎悪と嘲笑の嵐の中、誰かが投げた石が、鈍い音を立てて死体に当たる。
「やめてっ……やめてってば……!」
少女の叫びは騒ぎにかき消され、誰にも届かない。その小さな身体では群衆の怒りの奔流を止めることなど到底できなかった。
彼女は、張り詰めた糸が切れたように、その場に崩れ落ち意識を失う。
――その時。
「……残念だったわねェ、セラちゃん」
場違いなほど明るく艶やかな声が響き渡った。
周囲の誰にも聞こえていない。ただ一人、倒れ伏す白髪の少女――セラにだけ届いていた。
彼女の髪飾りから煙のように現れたのは、深い紫と薄緑のグラデーションの長髪を持ち、胸元の大きく開いた豪奢な衣装を纏った男神――時の神ゼオラシュト。
「やだァ、残酷。でも、これが人間ってもんよねェ〜」
扇子をひらひらと揺らしながら、ゼオラシュトは処刑台の上を悠然と歩く。その口元には笑み、厚く化粧の乗ったまぶたの下の瞳には、青紫の神秘が灯っていた。
甘く、耳にまとわりつくような声音には、どこか恍惚とした調子が滲む。
「愚かで、自己中心的で、矛盾だらけ。争って、奪い合って、憎しみ合って……でも、やけに愛情深かったりして。ほんと、不可思議な生き物よねェ〜」
ゼオラシュトは処刑台の柱に扇子の先を軽く打ち付ける。その動作はまるで演者のようで、死さえも舞台装置として楽しんでいるかのようだった。
彼の視線が、吊るされて動かない銀髪の男に注がれる。
「……アラアラ、綺麗な顔で死んでるわねェ」
赤黒く絞め痕が残る首筋をなぞり、死化粧を施すかのように白い頬にそっと触れる。
胸に耳を当て目を細める。真紅の口紅に彩られた唇を歪め、微かに笑った。
「……未来の彼は、あんなにも強くて、美しかったのに。この時代の彼は、こんなに呆気なく死んじゃうの? ……ウッフフ。人間って本当に、脆くて儚いわァ」
ゼオラシュトの指先が、ゆっくりとシードの唇から顎へと滑り落ちる。優雅でありながら、ぞっとするほどの執着が垣間見えた。
死者に微笑みかける彼は倒れ伏す少女――セラを見下ろした。
「……あとほんの少しだけ、パパと一緒に居させてあげるわネ」
そう囁くと、ゼオラシュトは煙のように掻き消え、蝶の髪飾りへ戻った。
残されたのは、沈黙と、空に揺れる縄だけ。
* * *
陽は西へ傾き、広場を斜めに射す光が長い影を作っていた。
先程まで怒号で満ちていた場所には、今や静寂が戻りつつある。民衆はそれぞれの思いを抱えながら、広場を後にしていった。
ただ一人――白髪の少女・セラだけが、何一つ清算できないまま、時の止まった処刑台の傍らで倒れている。
その身は石のように動かず、涙の跡が木の床に染み込んでいた。意識は、悲しみと衝撃に耐えきれず、閉ざされたままだ。
そんな静寂の中、重く靴音が鳴り響く。
広場の入口から、青いローブに身を包んだ長い黒髪の女魔術師が現れる。ミーティア――王国に仕える高位魔術官であり、処刑後の「資源管理」を担う「執処術官」だ。
肩に刻まれた紋章が、彼女の役割と地位を雄弁に物語っていた。
後に続くのは、無言の兵士たち。彼らは感情を閉ざしたような堅い面持ちで、処刑台へと足を運んでいく。
「梯子を。縄を解いて、すぐに下ろしな」
ミーティアの冷徹な命令を受けて、兵士たちは無言で従った。処刑台に取り付くや、彼らは巧みに縄を解き、シードの遺体を地面へ降ろす。
死の硬直が始まり、血の気を失った顔。
ただの魂の抜け殻だが、彼らにとってそれは、もはや「素材」でしかなかった。
「……この少女は誰だ?」
ミーティアの黒い目が、亡骸の傍に倒れるセラを捉える。眉をひそめ、足を止めた。
「遺族……でしょうか?」
一人の兵士が応じたが、ミーティアは小さく首を振った。
「まさか。この男は教皇の息子でありながら、その父を殺し、ロスリエス教国を壊滅させた裏切り者。血縁者などいるはずがない」
「……それもそうですね」
兵士たちが仕事を終えると、ミーティアが遺体の前に立った。
「処刑完了を確認。資源転化手順を開始する」
彼女は短杖を掲げ、刻まれた印が淡く光り始める。
「第一刻印、『断罪符』、名:シード・セルアシア・クロウディート。資源番号:S-1127。罪状:資源化妨害および反秩序言論」
声と共に、死体の胸部に魔術紋らしき紋様が刻まれ、赤い光が走った。
「第二術式、『浄化変質』――」
短い詠唱と共に、死体の肌が僅かに硬質化する。体温が一気に下がり、凍りついたような冷気を帯びた。
「腐敗停止完了。組織結合調整、骨強化完了。使用可能資源に再構成済み」
兵士たちは、遺体を慣れた手つきで革製の袋へと詰め始めた。まるでただの作業のように。
「高位血統の魔術師の肉体は、どの部位も貴重だ。心臓は呪符に。骨は杖の芯材に。血液は活性剤やインク、そして薬品の基材になる」
淡々と語るミーティアの声に、誰かがぽつりと呟いた。
「死体資源の有効活用、か……おお、怖い怖い……」
「今、何か言ったか?」
ミーティアの視線が鋭く飛ぶ。
「い、いえ! ミーティア様! 何も!」
「ふん。さっさと運べ。時間が惜しい」
「はっ!」
命令一下、兵士たちは袋を丁寧に持ち上げ、広場の端へと運び去っていく。
残されたのは、倒れ伏したままのセラと、空しく揺れる処刑台の縄だけだった。
だが、この「死」は終わりではない。
時が「狂い始める」少女と青年の、物語の幕開けなのだ――。