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待ち人は横浜に

作者: 優一

 僕に影を落としている男は、路地裏を歩くのに相応しい容貌で、右手の甲から垂れるシルバーのピアスを揺らしていた。


「あんた、いくつ?」

「十六だよ。」

 男の問いに答えたのは僕ではなく、穴の空いた帽子を目深に被った老人だった。古紙の山の隙間でアコーディオンを奏でる彼は、この界隈で僕が心を許せる唯一の人間だった。

「十六? 俺とほとんどタメじゃん。」

 目の前で音を立てるピアスに、顔を上げる。

「もっとガキかと思った。」

 口の端だけで示す笑み。三秒、男を観察する。僕と変わらない年齢にしては、ひどく大人びている。

「あんた、最近ずっとここにいるよな。」

 乱暴な物言いに再び俯いた。雨が降りそうだ。土の匂いが路地裏に充満している。

「母親を待っているのさ。」

 老人のバスに僕の指が反応する。

「捨てられたのか。」

 男のテノールは膝を抱える僕の真下に落とし穴を作る。

「ばかだなあんた。六、七のガキならともかく、十六にもなって、自分が捨てられたことにも気付かないなんてよ。」

 嘲笑は建物の通風口から吐き出された生暖かい空気に溶けた。

「なにか云えよ、名前は?」

 アスファルトに黒くはりついたガムを引っ掻き、男に壁を作ってみせる。いくつか一方的な問いが続いたが、やがて僕との会話を諦めたらしい、彼は体の正面を老人へ持っていき、詳細は知っているかと尋ねた。

「……無口な子でねえ、なにを訊いても母親と約束をしているとしか云わないのさ。もう一ヶ月もこうしているよ。」

 相槌、加えて遠慮のない視線。

「あんた、まともな物食ってねえだろ。臭ぇし。」

 ピアスが目の前に現れ、両手で眼球を守った。それは杞憂に終わり、いままでにない明るい笑い声が男から放たれた。前触れなく髪をかき混ぜられる。

「あんた、飽きねえな。」

 はっとして男を確認した。予想していたと云わんばかりの視線とぶつかった。男の発した唐突な肯定に困惑する。飽きない、とは、どういうことだろうか。彼と僕は、まだ飽きるほどの時を共にしていない。


「じいちゃん、こいつ俺が拾っていい?」


 それは困惑を狼狽へ変えた。男に銅貨を落とされ、老人はアコーディオンを奏で始める。

 決まりだ。呟きと同時に首の後ろを捕まれ、その事態に焦り、拒絶を示すと、舌打ちが僕を叩いた。

「捨てられたんだよ。あんたは。」

 意外にも、男の声は落ち着いていた。

「こねえんだよばか。俺だってこなかった。まあ、俺の場合待ってたのは母親じゃねえけど。あんた、一ヶ月待ったんだろ? もう迎えにこないって、本当は分かってんだろ?」


 勝手なことを云うなよ。


 かれた喉から飛び出した。瞬きを繰り返す僕に、男は野犬のような瞳と、それに似合わぬ柔和な笑みを浮かべてみせた。

「母さんが待ってろって云ったんだ。おれは約束を守らなくちゃいけない。おれは……、」


 物を云うときに視線を逸らすのは、その台詞に虚偽が含まれているからだと、母親はコロンを手に取り、独り言のように呟いた。三ヶ月前、二度目の失恋をした彼女は、思い出と名の付くものを廃棄することに明け暮れていた。ごみ溜めのようなアパートの一室で母親は不要物の山を作り終えると、此処を引き払うわと静かに零した。その時、一度目の品である僕が、十六年間彼女のもとで息をしていたことは奇跡だったのだと気付いた。

 一週間も経たぬ内に、母親は知らない男と連絡を取り始めた。

 迎えにくるから待ってて。

 別れ際、そう約束した彼女の目は僕を見ていなかった。


 僕はばかと形作る唇をぼんやりと眺めていた。

「終わりか?」

「……終わりだよ。分かってるよ。ばかだって。」

「まあ、あんたはまだ一ヶ月だ。俺はその三倍ばかだったけどな。どうする、あんた。俺以上のばかを目指してみるか? それとも、」

 心臓に風を吹き込まれた気がしたのは、老人のアコーディオンが歌うのをやめたためだ。


 俺の息子になってみるか?


 男は老人に渡すコインを探していたようだったが、溜め息と共に頭を掻くと、サービスはねえの、と交渉をした。

「一人につき一度さ。お前さんは一年前にサービス済みだ。」

 ええ、と声を上げた彼の子供のような表情に僕は脱力する。直感に近い。飽きない、そう思った。

 おれから、その呟きは自然に零れていた。

「おれからこの人に、曲をお願いします。」


 糸のような雨に雪がにじみ始める。

 もう此処には戻らねえぞ。男が云う。

 何処に行くの。僕は移ろう白色に目を細める。

「東京に行く。」

「東京、」

「日本でまだ、正常に機能してる街だ。ゲートがあるから厄介だけど、中に入ればこっちのもん。衛星に行けるロケットもあるって話だ。」

「それに乗るの?」

「身分証明書がねえと無理だな。まあ、後々考えようぜ。」

 そうだ、と男は立ち止まり、爪先で二回アスファルトを鳴らした。

「あんたに俺の女房を紹介しねえとな。」

「奥さん?」

 後方から足音が聞こえ、茶色のかたまりが彼の足にじゃれついた。頭を撫でられたそれは人懐こくこちらを見上げ、尻尾を左右に揺らした。

「リサコだ。」

「……りさこ、」

「俺はショウイチ。あんたは?」

「……ゆうま。」

 行くぞ、ユウマ。その声に返事をしたのは僕ではなくりさこだった。思わず噴き出し、彼女の頭を撫でる。

 唇の端に溜まった雪水を舌で拭い取り、彼は歩き出す。その左薬指に絡まったプラチナを一瞥し、僕はそれに続く。




 細いソプラノがしんと結われる。

「息子を知りませんか。」

 続く雪の中、アコーディオンは沈黙していた。

 路地裏に立つ女と、古紙の隙間の老人。

「生憎、私は光を知らなくてね。」

「そうですか、」

 建物に取り付けられた巨大なプロペラが湯気を吐き出し、女の髪を痛めつけていた。

「約束でもしていたのかい?」

「約束というほどではありません。」

「息子さんを置いてどこへ、」

「その子の父親のところです。……物乞いに見られたのでしょうね。無言で札束を渡されました。」

 切り取られたような間の繋ぎ目で、女は短く子供の名を呼んだ。答えるものはなく、沈黙はやがてノイズに化ける。


 息子さんは、戻ってこないよ。


 酷く長い息継ぎの後に落とされた老人の一言に、女は微笑み、首を横に振った。

「いいえ、あの子はきてくれます。やさしいこですもの。わたしは待ちますわ。……ここで、ずっと、」


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