第1章 ヴォイス
序章~第2章まですべて仮初めです。
構想が完成次第大幅に変更します。
―あなたはもっといい人に出逢えるわ、きっとね―
未だに失恋から抜け出せない原因だった彼女の言葉がまさか本当に実現することになろうなどとは夢にも思っていなかった。
今年の春に転職を控える冨永勇治は前職と同じ年月をかけて愛用してきたパイプをくゆらせながら思った。
自身が座る回転椅子の前にある木製デスクの上に置かれた本に目を落とす。
あの子のことは運命の人だという確信は出逢ってから五年間の片想いとしてずっと変わらなかった。しかし、この本に出会ってからはその認識が百八十度転換した。
運命の人は二人いる。片方は一途な恋を教えてくれる人。そしてもう片方は………。
「永遠の愛を教えてくれる人、か」
思わず独白する。確かにその通りだった。かつて運命の人だと思っていたあの子に抱いていた愛情は言われてみれば真実の愛というよりは盲目の恋に近かった気がする。恋は人を盲目にするという格言はどうやら事実だったようだ。
しかし、彼女から別れを切り出されてからの二年後―実に長い歳月を過ごした感覚は今でも否めないが―に、出逢った女性には、突如としての一目惚れとまではいかなかったものの、他の人とは違う何かを感じるようになった。死ぬほど大好きというよりはむしろ、そこにいるだけで安心感を与えてくれる嫌いになれない存在と表現すればいいだろうか。希薄な存在ではないが、かと言って重すぎないほどの愛情を抱かせてくれる人。当時の恭典が理想としていた恋愛とはまるで正反対のものだった。
今、その女性との仲は悪くはない。どちらかといえば良好な関係と言えるだろう。しかし、まだ確信が持てないような振る舞いをされている感覚もある。自分としては今度こそ成功させたい。
アプローチは男性から、というのは一般的な認識だしな。
そろそろ………。
左手で口元からパイプをさり気なく抜くと、指でその表面をなぞった。
「吸わない男の方がモテるだろうしな。匂いもない方が女性にとっては好ましいだろうし。ついにこのパイプともお別れか」
眺めていた本のタイトルから目を離し、ゆっくりと立ち上がる。
今日は休日だし、行くか。
彼女が働いているカフェへ。
何気なく壁にかけてある時計を見ると、八時を回っていた。右側の壁に位置する窓から差し込む日差しがブラインドカーテンの間をすり抜けて、デスクにこぼれ落ちている。
もう一度本のタイトルに目を落とした後、着替えを始めるべくフロアを出た。
タイトルであるその言葉を心の中で反芻しながら。
ツインレイ―運命の人は二人いる―
今こそ会いに行こう。
半崎瑠奈のもとへと。
新鮮な空気が程よい暖かな温度に包まれるこの季節の始まりに訪れた山の様相はいつだって絶景だった。山頂から一望できる山並みが僅かに薄く広がる霧に覆われて堂々と連立している。ここ剣山にも鳥のさえずりが四方から響き渡り、気持ちを新たに一新させてくれる雰囲気を醸し出している。精神疾患を抱えている雄哉には森林のマイナスイオンが体に好影響をもたらすことは頭では理解していたとはいえ、トレッキングするまでは動くのに長い時間を要した。それでも実際に行動に移してみると確かに気分が晴れていくのがよく分かった。
「何でも動いてみるもんなんだな」
自分以外周りには誰もいない。朝方だからということもあるだろうが、この時間に一人で登山をする物好きはそこまで多くはいないだろう。
手に持っていたおにぎりの最後のひとかけらを口に放り込んでひとしきり眺望した後、下山を始めた。
春休みもそろそろ終わろうとしている。新学期を迎えるにあたって取り組むべき目標はもう定めた。後は実行するだけだ。
「皆勤なんて他の人から見たら当たり前なんだろうけどなあ」
統合失調症と診断されてから真っ暗とも思える道を光のある場所へと前を向き続けてこれたのも、全てはあの友人のおかげだった。少なくとも毎日顔を出して彼の優しさに報いてあげたい。そんな気持ちが今年で二度目の登校を前向きなものへと変化させていた。
頑張ろう。
そんなことを考えていると、下山して数分も経たないうちに石につまずいて転倒してしまった。危険を察知したのも束の間、片面を削いでいる崖をまっしぐらにごろごろと転げ落ちていく。
恐怖が襲うよりも意識が急激に真っ白になって、ただただ下へと落ちていくことしかできなかった。
やっと麓付近に落ち着いた時には雄哉の意識は遠くちらついていた。
ずきずきする頭を片手で押さえながら、今しがた起きた事態に対する恐怖感と拒絶感がしばらくの間残っていた。
ようやっと起き上がると、ぼんやりした目であたりを見回した。
………生きている?
その実感を嚙み締めると、突然涙が溢れてきた。
愚かな過ちを犯したような気がして自分のしたことを呪いたくなるような気持ちが一気に押し寄せてくる。
なんて馬鹿なことを。
家に帰宅できるだけの体力があるのか、今自分はどこにいるのか、そんな不安がさらに大きな恐怖となって雄哉の心を蝕んでいく。
思わず声を上げて泣いてしまう。
堪えようのない悲しみが幾度となく襲ってくる中、別の何かに気を取られた。
みしみしと地面を踏みしめる音が聞こえてきた。
………野生のクマだろうか?
そんな妄想が一気に広まり、恐怖がことさらに肥大化していく。
死んでしまう。
極限にまで湧き上がった戦慄が雄哉の足を動かした。だが、痛みでなかなか立ち上がれそうにない。
足音はどんどん近づき、木陰の向こう側から声が聞こえてきた。
「確かこの辺りだ」
「そうだな。人間の"ヴォイス"を感じる」
………誰かが救助に来てくれた?
そんなことをふと思った瞬間、不意に木陰から二人の男が姿を現した。
「やはり、いたぞ」
「介抱しよう」
雄哉はその男たちの様相を観察した。
何となくでしか分からないが、二人とも高僧が羽織るような青磁色の長い衣をまとい、長い髪を後ろで結わいている。日焼けした顔は半ば先住民のような面持ちをしているとはいえど、日本人らしい顔立ちとその瞳が雄哉を興味深く見ている。そして………ライオン?それらしき頭が形作られた毛皮をまるでインディアンのように額に装着している様子が象徴的だった。
「大丈夫かい?」
おもむろに笑顔で声をかけられ、雄哉は戸惑った。見ず知らずの人間をいきなり信頼することなど、できない。
そんな彼の表情を読み取ったのか、一人が手を差し伸べた。
「何も危険はないよ。ほら、手を差し出して」
それでも何もできずにいると男の方から彼の片手を握り、ゆっくりと立ち上がらせた。足を痛めていることに再度気づいた雄哉が顔をしかめる。どうやら片足をくじいたようだ。
「陽介、彼は怪我をしている。無理やり立たせるな」
「そうだな。力也、ちょっと手を貸してくれ」
力也と呼ばれた男が雄哉に近づいてくると、彼の腕を自身の肩に回して背中を片方の腕で支えた。陽介も同じく反対の腕をその肩に回す。
「村まで連れていこう」
陽介の言葉に力也が反対した。
「いいや、だめだ。一般人の介入は我々の集落では禁止されている。お前も知っているだろう?」
「だが、彼は怪我をしているだけでなく心にも傷を負っている。それはお前も"ヴォイス"で分かるはずだ。我が内なる声"ヴォイス"に従って行動を成すのが我々エクシード一族の信条だと、俺はそう認識している」
「しかし………」
「長老には俺の方から伝える。心配ない、この子はきっと口外はしない」
念を押す陽介の表情をちらりと見てから、力也が雄哉に話しかける。
「少年よ、名は何と言う?」
少し戸惑いつつも、答えた。
「雄哉です。庄野雄哉」
「では雄哉、今から君を連れていく場所は聞いた通り、決して人には知られてはならない所だ。もし君が無事に怪我を完治して元の場所に戻ることになった時は、我々の集落があったことを誰一人として口外して欲しくない。頼めるか?」
助けてもらえるならどんな条件だって飲む。即座に「口外しません。大丈夫です」と弱々しく返答した。
「よし。行こう」
「心配ではあるが、仕方ない」
陽介と力也の意見が一致し、雄哉はゆっくりと下山を再開した。
一人陽介だけが雄哉に感じているある可能性があることは、一切口に出さずに。
歩かされてから三十分ほどが経過しただろうか。
眼前に漆喰でできた半球状のドームのような建物がいくつも散在する場所へとやって来た。外には誰もいない。とりわけ大きなドームの裏に回ると、焚き火を丸太に座って取り囲む人々の姿が見えた。
そこにいる全員の視線が雄哉たち三人に集まると、即座に陽介が口を開いた。
「外部者は禁止なのは分かっている。この者は心に傷を負っている。それに、この少年の胸部にある"ヴォイス"にはエクリクシスが形成されるような器がある。是非一度長老に見て欲しい」
それを聞いた力也が驚いた。
「………お前、なぜさっきまで言わなかった?」
「彼に過度な心配をさせないためだ」
「本当に………」
力也のその言葉の先を押しのけるように「急いでくれ。もう"その時"は近い」と皆を促した。
一同が顔を見合わせ、手前にいた一人が立ち上がって「ついてこい」と三人に告げた。
引きずられるような形で歩き続ける雄哉を挟んで、二人の会話が続く。
「"ヴォイス"の可能性はより愛念を蓄積してきた者にしか認知できない。その器があるかもしれないことを知るには途轍もなく長い忍耐と信じる気持ちが必要になる。力也が傷だけに着目して気づけなかったのも無理はない」
「確かにお前の方が"ヴォイス"は強い。だからそれが唯一の理由で救ったわけではないはずだ」
「優しさを分け与えることに条件は要らない。それこそが"ヴォイス"の力を強めることにも繋がることは力也も熟知しているはずだろう」
返答に詰まった力也は何も答えなかった。
先導者に導かれ、三人は集落の中で最も大きいドームの前に来た。
網でできた暖簾のような織り物をくぐり、中へと入る。
暗がりに慣れてきた目にうっすらと浮かび上がったのは、円形の広場の中心に位置する焚き火と、その頭上に浮かぶ半透明の巨大な地球儀だった。
見たこともないオブジェクトに目を見張る雄哉に先導者が「ここに座れ」と藁でできた敷き物に促す。
外から状況を聞きつけた者たちが中を覗き始める。
「………あの人が"その存在"?」
「予言された人?」
「うそ………!まさか………あのよみがえりし者?」
「ついに"その時"が訪れるってことか」
噂されることに若干の動揺を覚えたものの、ゆっくりと座らせられた雄哉は早く足の痛みをどうにかしたかった。
程なくして彼の足元にターコイズ色の液体が入ったお椀が置かれた。
陽介が奥に向かい村長を連れてくる間、先ほどの先導者が彼の靴を脱がし、指に浸したその液体を足首に塗り始めた。
「痛い!」
焼けつくような熱が痛みを促進したような感覚がし、思わず声に出してしまう。
「大丈夫。すぐに治まる」
ひとしきり足首に塗りたくると包帯で巻き、その者は後ろへ下がった。
代わりに出てきた陽介が雄哉の前に立った。隣には連れてきた長老がいる。
老いているとはいえ、真っ直ぐに彼を見つめるその緑色の目の奥には大いなる希望の光が感じられた。長い白髪の上に乗るとりわけ大きなライオンの頭の毛皮さえも彼を見つめているような錯覚がして、雄哉は視線を落とした。
その長老が、言った。
「名は聞いたぞ、雄哉。ところで、お前に聞きたいことがある」
聞きたいこと?さっきから会話で交わされている「ヴォイス」のことかな?
質問されるであろう内容における雄哉の予想は大きく外れた。
「お前は、誰かのために命を捧げたいと一度たりとも思ったことがあるか?」
予測していなかった問いに口ごもってしまう雄哉。それでも正直に答える。
「………あの、そういったことは………あまり………考えたことはありません」
「そうか」
長老が頷く。「例のものを持ってこい」と陽介に指令を下す。
奥から取ってきたものは青い石でできた円盤だった。同心円状に細かい文字のようなマークがびっしりと刻まれている。それを雄哉に手渡した。
「これを胸の中央に当てよ」
訳も分からないまま言われた通りにした彼に、長老が目を瞑って小さな声でぶつぶつ何かを唱え始める。
それと関連するのだろうか、雄哉の胸が段々と温かくなってきた。ちらりと円盤を見やった。
なんと、文字が青く光っている!
驚く彼には気づかないまま長老はしばしの間沈黙し、数分ののちに目を開けた。
「この者は今しがた負った怪我によってヴォイスが強まったらしい。"その可能性"がない訳でもない」
周囲はわずかな驚きを隠せない様子で、若干の希望と期待の視線が注がれているのを感じた。
その可能性?一体何の話をしているんだろう?それにしても怪我したばかりの―それも九死に一生を得るような状況だったのに―人間に、しかも全くの見ず知らずの人間に、なぜ可能性とやらを見い出すんだろうか?その可能性が何なのか分からないにしても、そんなに一気に人を信頼できるものなんだろうか?見慣れないこの集落では外部の人間の立ち入りは禁止されているのに?一体………?
疑問が潰えない雄哉の不安げな表情を直視した長老が、言った。雄哉ではなく、周りの者たちに。
「十戒の儀式を行う。"太陽の禊ぎ"を準備せよ」
かしこまった周りの者たちが途端に世話しなく動き出す中、長老は雄哉に近づき目を細めた。
「紹介が遅れてしまって申し訳なかったな、雄哉。我々はこの山岳地帯に住む、世間一般の文明人とは距離を置いた者たちの集まりだ。雄哉は恐らく文明人であろうが、"ある可能性"を持つ者に関しては比較的寛容な態度で臨むことにしているのだ。今日は災難だったであろう。ここでゆっくり休むと良い。私はこの集落の長の父であるミレオンだ。お見知り置きをよろしく頼むぞ」
「あ、はい………改めまして庄野雄哉です。よろしくお願い致します」
おもむろに答える雄哉の足を撫でて、「これからしきたりを行うのでな、ゆっくり安静にして待っていておくれ」と優しく言い残す。
立ち上がって奥の部屋へと下がる。
枝葉やら薪やら、はたまた得体の知れないゼリー状のエメラルド色のスライムのようなものが入った器などが彼の周りに並べられていく中、どうしても払拭できない不安があった。
自分はこれから先、どうなるのか。
家に返してくれるのなら、この足が治ればすぐにでも帰りたい。だが、儀式と呼ぶものがこれから始まる以上、どうやら返してくれそうになさそうだ。危険そうな人たちでないことは見ての通り理解はできるが、もし仮にこの集落で一生暮らすように告げられてしまったとしたら、もう二度と文明世界―便利で融通の利く何気ない平穏が持続している社会―の恩恵には預かることはできないのだろうか。
隣で薪を並べている陽介に、意を決して思いきって聞いてみた。
「………陽介さん?でしたっけ?」
「ああ、そうだよ」
「僕は、これから先どうなるんでしょうか?」
帰らせてくれるのでしょうか、とはあまりにも躊躇し過ぎて聞けなかった。だが、次の言葉は彼を安心させる分、更なる不安をも湧き立たせた。
「長老が仰る、"ある可能性"がもしも君にあったのなら、我々は君を手放すわけにはいかないかもしれない。むしろ、この世界の行く末を変えるために多少頑張ってもらうことがあるかもしれない。だが、安心してくれ。それは決して怖いものじゃない。いきなり俺たちの真意を伝えてもこうして今しがた会ったばかりだし、信頼することも難しいだろうと思う。だから、今はとにかく安静にしていてくれ。何が何なのかはそのうちゆっくりと時間をかけて教えていくよ。………そして、もしもその"可能性"が君になかった場合は―少し手間のかかることをしてからにはなるが―無事に元の世界に返してあげるよ。だから安心してくれ。約束する」
何か途方もない世界に踏み込んでしまったかもしれない。そんな気持ちが表情に表れているのを読み取ったのか、彼は笑いながら「大丈夫だよ。何も心配しなくていい」とだけ告げ、他の作業をするべくその場所を離れようとする。
不意に浮かんだある疑問をぶつけてみたくなり、彼を呼び止めた。
「陽介さん」
「なんだい?」
「あなた方は、一体どのような存在なのですか?何者なんですか?正体を教えて下さい」
「おっと、言い忘れていたな」
髪をかき上げて、雄哉の目を見る。
「俺たちはエクシード一族、"ヴォイス"と呼ばれる人間が持つ声なき声を研ぎ澄まし、この世界に愛を広げていく部族たちだ」
「………エクシード一族?」
「おう。かつてこの地球に実在したとされる伝説の存在、ルオネイラ・グランディス王の末裔がもたらした可能性を開いた者たちとしてのな」
「………聞いたこともありません」
「無理もないさ。我々は外部の世界に住む人たちに決して知られてはならない存在だからな。世の中には全ての人間が善意で満たされているとは限らない」
「確かに世間には他人を貶める悪い人も中にはいますが………」
「その類じゃない。もっと大きな意図を持つ者だよ。太古の世界からこの地球を手中に治めようとしている存在としてのな」
「………つまりは、どういうことで?」
「あはは、いずれ近いうちに分かるよ」
再度笑ってその場を後にした。
「いらっしゃいませ、こんにちは~」
いつも通り店員さんたちが明るい声で挨拶を交わしてくれるその雰囲気を堪能しながら、恭典はすぐにホールにいる彼女を見つけた。彼女も恭典の存在に気づき、明るい表情を見せた。
「あ!恭典さん!お久しぶり~!」
「こんにちは~!ひとまずいつものカウンターテーブルでもいいかな?」
「ぜひぜひ!」
にっこりと微笑む彼女へ笑みを返しながら、入り口のすぐ隣にあるカウンターへと向かう。
カウンターの一番端に着席すると、すぐに水が注がれたコップを持ってきてくれた。彼女は恭典の目を見つつ、メニューを渡した。
「瑠奈さん、お久しぶりだね!元気にしてる?」
「はい!いつでも元気百倍です!」
若干照れくさそうに笑う瑠奈。
「あはは、いいね、その意気込み!頼もしいよ」
「今日は何にします?」
「そうだな~。今日はとりあえずロコモコチキンプレートにしようかな」
「かしこまりました!メニューはいかが致しますか?」
「下げちゃって構わないよ」
「かしこまりました!それから恭典さん」
一拍置いて、恭典の気持ちを確かめようとするかのように、その瞳を眺める。
「私、あと十分後くらいで休憩入るので、もし良かったらここのカウンターでお話しませんか?」
予想外の持ちかけに満面の笑みを浮かべる恭典。
こんなことがあるのか!
「もちろん、構わないよ!いろいろお話しよう!」
「ありがとうございます!お料理、少々お待ち下さいね!」
笑顔で踵を返して、ホールへ戻っていく瑠奈の後ろ姿に見とれながら、恭典は思った。
何がなんでも彼女を幸せにしてみせるさ。
あの子が幸せを望むなら、いくらでも、どこまでも。
ずっと眺めていたくなる衝動を抑え、鞄からノートパソコンを取り出して、電源をオンにする。
さて、今日もはかどるかな。
「用意ができました」
「よろしい。では始める」
長老の慎重な重々しい声で、集まる者たちの気持ちが引き締まった。対する雄哉は何をされるのか未だに教えられていないことにもどかしさを感じつつ、同時にまだ払拭しきれない不安に苛まれていた。まだ足は少しだけ痛むが、薬草らしきものなのか、それを塗ってくれたおかげでそれでもだいぶ和らいだ。そのことで彼らに対する不信感が薄らいだように思えた。だがそれをもってしてもこれから行われる儀式とやらの不安は消えていなかった。何をするのか聞くのにも勇気がいる彼にとって、未知の存在は未開の土地に足を踏み入れることと同じだった。
身構えている雄哉の周りを囲む人たちがそれぞれの手に抱えた枝葉や薪のつんとした匂いがあたりに立ち込めている光景が更なる未知への感覚を促進させる中、長老が始まりの言葉を告げた。
「太陽の禊ぎよ、今こそ舞い戻らんとせよ」
その言葉に続いて皆が復唱する。すると、枝葉や薪がその手から離れ、宙に浮き始めた。
思わず目を見張る雄哉に長老が両手に抱えていたものを彼の目の前まで持ってきた。
「これは、今から二〇〇〇年以上前にかの歴史的人物モーセが遥か遠くの土地から持ってきた偉大なる石だ。何かわかるか?」
モーセと聞いて関連する言葉をゆっくりと思い起こしてみた。それは、つまり………。
雄哉が答える前に長老が答えた。
「分かるであろう。十戒だ」
歴史の一部を形作った一大物品である代物が今この瞬間をもって眼前に存在しているというリアルな感覚は、今の雄哉には湧いてこなかった。むしろ疑心暗鬼の気持ちでその石を見た。
「信じきれないのも無理はない。だが厳然たる事実として存在しているこれは、間違いなく大昔の時代に、そう、エクソダス、つまり出エジプトの時代にモーセがシナイ山から海外へと持ち出したものだ。そうして行き着いた先がここ日本だった。ある王の指令から託されたたった一つの目的をもってしてな」
これまでの歴史が公に認知されている事実とは違ったことを聞かされ、たじろいだ。
ある王の指令?それに、モーセがここ日本へと来た?そんな事実があるとしても、現在においてはどのウェブサイトにも記載されていないはず。ウェブサイトだけじゃなく、いかなる書物や文献にもそんなことは書かれていないだろう。
「この世界には現存する表舞台の歴史とは全く違った歴史が存在するのだ」
疑問の絶えない彼に説明し終えた長老はエメラルド色のスライムが入った器を持つ陽介に向かって頷く。
陽介は黙って、その器を中央にある焚き火に近づけた。
スライムがひとりでに悶え始め、徐々に拡大していく。煙を発し、やがて火がつくと、スライム全体が青い炎に包まれた。炎は器から飛び出して宙に浮いている枝葉や薪に次々と燃え移った。
燃えるそれらは円を成して回転し、その中心である雄哉の頭上に新たな火を生み出した。オレンジ色の炎が段々と丸くなり、やがて太陽のような球体へと変貌した。燃え尽きた枝葉や薪は緑の炎となって雄哉の周りに移動して彼を取り囲んだ。
思わず身を引いた彼を優しく包み込むかのように、その炎から声が聞こえた。女性の声だった。
「雄哉。あなたは愛という意味において、何を望むの?」
急に発せられた言葉にびくっと震えるも、かろうじて心を平静に保って、答えた。
「………愛されたいです。異性にもっと愛されるような関係を築きたい」
「そうなのね」
それだけ呟くと、緑の炎が突然雄哉の胸に飛び込んできた。
恐怖におののくも、全く熱さを感じないその炎が、心の中をまさぐっていることを感覚で認識し、あるがままに体の力を抜いた。同時に彼の頭上にある太陽がひときわ輝きを増していく。心を探る緑の炎が太陽と繋がっているような感覚を受け、また、その太陽からほんのりと温かくなるような温もりが送られてくるのを感じた。先ほど聞かれた質問が真実であるかどうかを確かめるように、その温もりもまた彼の心の中をまさぐっていく。
不意にある想念が湧き上がった。
―誰かの役に立ちたい―
それこそが雄哉の深奥部に秘められた真意であることを理解したのか、太陽の表面が燃え出した。その燃え盛る炎と雄哉の心の中は繋がっているという感覚のもと、更なる温もりが伝わってきた。それは何かを期待しているような意志を秘めているようにも感じられた。
数分が経過し、その期待している何かがあるのか否かを感じ取ったのか、やがて太陽は急速に縮み始めた。さっきまで燃え盛っていた炎が嘘のように消滅していく。太陽が完全に消え去った後、雄哉の周りにある緑の炎もたちまちにして消えていった。
焦げ臭い匂いが立ち込める静かな空間の中、長老が言った。
「よみがえりし者はこの者ではない。別の者だ」
大きな期待が外れた雰囲気があたりを一瞬にして支配する。その何かを持っていなかったことに申し訳なさを感じ、雄哉は謝ろうかと思った。
だが、陽介の「何も心配要らないよ、大丈夫だ」との言葉に少し安堵した。
何事もなく無事に儀式が終了したことを受けて、長老が「後片付けを頼む」と皆に指示を下した。
灰塵の後始末や換気のための窓の開放などに皆が勤しむ中、皆が期待していた何かとは一体何だったのか改めて疑問に感じた。その実態を掴むべく陽介に口を聞こうとしたちょうどその時、彼と目が合った。
「どうしたんだい?」
「………あの、僕は何かの可能性を秘めていたんでしょうか?あるいはその可能性はなかったんですか?」
しどろもどろに質問する雄哉。それでも快く受け答えてくれた。
「これはこれは、申し遅れたな、済まなかった。雄哉、君の心には、いや、全ての人間の心にはあるエネルギーが含まれているんだ」
「エネルギー?」
「ああ。それは愛念とも呼ぶこともできるが、その人自身の意志の強さを表す指標にもなりうるものでな、我々はそれをエクリクシスと呼んでいる。愛による全ての可能性を秘める言葉だ。言い換えるならば我々を生かす善なるエネルギーのことだ。我々だけでなくこの世界にはこのエクリクシスで満たされている」
「………あまりよくわかりません」
「無理もない。エクリクシスとは我々の一族が使う言葉だからな。君たちの世界ではフォトンという言葉として認識されている。強いて言うならば、天然のフォトン、バイオフォトンとも呼ぶべきものだ。そのバイオフォトンによる振動を我々は"ヴォイス"という言葉に置き換えて呼んでいる」
フォトン。聞いたことがある。確か光子と呼ばれる物質のことではなかったか。それがどのような役割を持つのかに関してはよくわからないものの、それが学校の物理学で習うような専門用語であることは容易に想像がついた。
陽介が話を続ける。
「バイオフォトンはあらゆる情報を他の媒体に伝播させる性質を持つ。むろん、人間の想念などもだ。元々ヒトの体内構造において、その胸部にはバイオフォトンが多く含有されている。心と呼ばれる概念を形成しているのもこのバイオフォトンによるものだ。この物質が絶えず生物同士の間を行き来することで、生体としての生命活動を継続することが可能になる。このバイオフォトンを持つ存在のうち、その物質量を他の個体より多く有する存在がごくたまにいるんだ。それが多ければ多いほど、その個体が持つ想念の強度も増していく。そのバイオフォトンをこの世界で最も多く有した存在、それこそが我々が待ちに待っているよみがえりし者と呼ばれる存在なんだ」
「………僕はその存在ではなかったってことですね」
「我々としては残念ではあるがな。だが、よみがえりし者はこの世界に、この時代に必ず現れる。現れなければこの国はおろか、全世界が滅びの一途を辿ることになってしまう。我々は急がなければならないんだ。その存在を一刻も早く見つけ、そして導くために」
雄哉は驚いた。
………この世界が滅びる?一体全体、どういう………?
雄哉の表情を見て取り、陽介は難しい表情を浮かべた。
「ある予言があってな―よみがえりし者という名もそこから由来しているのだが―その存在を我々のみならず、全人類が必要とする理由があってな、幾多の生命活動 を継続させるバイオフォトンがなければ、我々生きとし生けるものは命を生かしていくことができない。そのバイオフォトンは近いうちに消滅してしまう可能性が、その予言では示唆されている。そう、近いうちに来るとされているんだ。全ての生命のバイオフォトン消滅による滅亡がな。よこしまなるラッパの轟き声による"浄化の日"によって」
よこしまなるラッパの轟き声?そして………浄化の日?尚更訳が分からなくなってくる。かなり比喩的な表現に近い上に、具体的にそれが何なのかすらも予想がつかない。本当にそんなことで世界の滅亡が起きるとでもいうのだろうか?
「それは………どこから知り得た情報なんですか?何かの伝承か何かなんですか?」
難しい表情にさらに眉間にしわを寄せる陽介。
「ラビ記と呼ばれるものさ。かのモーセが秘密裏に書き記した予言書であり、世界の終末が書かれている書物。我々が住むこの世界に来たるべきその時は近い」
「来たるべきその時?」
「浄化の日さ」
なおも疑問が絶えない雄哉が首を傾げていると、誰かが走ってくる音が聞こえ、建物の中へと入ってきた。男性が息を切らしながら訴えかける。
「"人類の負の遺産"がまた大地に流し込まれた!そこまで時間はない!」
途端に陽介は表情をさらに厳しくして奥にいる長老の方へと向かっていった。
作業をしていたその場にいる者全員が手を止めた。
「………結界が破られるのか?」
「分からない。だが規模は決して小さくはない」
「それはまたあの大陸から流されたものか?」
「間違いない。大地の鼓動がそれを告げている」
「………それは日本か?だとするならだいたいどの辺りだ?」
「大阪、神戸あたりだ。四国にも影響する」
「我々が彼をかくまったことがばれたのか?」
ある別の男性がちらりと雄哉を見て、聞く。
走ってきた男性は首を振った。
「いや、恐らくその類ではないはずだ。考えうることを予測するならば、それは地球儀へのエネルギーの浸透、つまり、磁場の崩壊だ」
「やはりというか、結界の破壊ということか」
「そうなるな」
「やってくれる」
作業を止めた力也が唸る。戻ってきた陽介が長老を連れてきた。険しい表情のままその男性に尋ねる。
「それは四国地方だけにとどまる範囲か?」
「今回の負の遺産はかなりの広範囲にわたって流し込まれた。よってその規模もこれまでとは変わってくる」
「とすると連動する可能性もあるな」
「十分にあり得る話だ」
「儀式の片付けは中断する。各自結界を張るための配置につけ」
長老が発した一声でそこにいた皆が返事を返し、建物内を出ていく。
慌ただしい様子に全く別の不安を新たに感じた雄哉は、陽介にゆっくりと立たされ、出口へと向かうよう促した。不安に耐えられない雄哉が聞く前に陽介が呟いた。
「来るぞ」