序章 《百獣の王》は必ず戻ってくる
内容は変わりませんが、よりふさわしい表現にするためにのちに大幅にあらすじの表現を変更させて頂きます。
―人類が滅びの危機に直面する時、一人の戦士が世界を救うべく立ち上がるだろう―
―その時代は必ず、来る―
やがて予言として広く知られることになるであろう王のこの言葉がモーセの心髄に深く浸透した瞬間、彼の中で一気に明るい展望が開けた。
それでもにわかには受け入れがたく、年輪の入った王の瞳を真っ直ぐに見つめながら聞いた。
「本当に………そんな時代が来るのですか?それはいつになるのですか?その者は陛下の………直系でしょうか?」
王はまくし立てる質問に表情を歪めることすらなく、褐色の瞳をきらりと光らせた。その瞳孔が目に見えるほどに大きく開く。
「鋭いな、モーセよ。だが正式な血統を継ぐという者という意味とは少し異なる。我がルオネイラ族の血は物理的な継承ではない。もっと、万人に与えられた大いなる可能性を自らの力で開ききった挑戦者に直系としての意味が及ぼされる。その者がいつ到来するのかについては………恐らく、遠い未来だ。私たちが生きる時代ではなくもっと………文明が発展していった時代だ。その時代において、人類共通の巨大な危機が訪れる。発達した技術の悪用によって人々は邪心に翻弄され、生きる希望を見い出せなくなるだろう。大地は汚され、人間だけでなく生きとし生ける全ての生命が絶滅の危機に瀕する。その時、遥かなる時を超えて我がルオネイラ族の血、そう、すなわち"神の血"、そしてその可能性を長い長い歳月をかけて守り抜いてきた者がやがて戦士として全人類、全生命を巨大な脅威から退け、救済するのだ。………我々の間で言わずと知れた百獣の救世主、グランリディーマーとして」
グランリディーマー。
その言葉が出てきた瞬間、円形広場を包む涼やかな明け方の空気に僅かばかりの生気が含まれたような感覚を覚えた。むろん、それはモーセの心に差し込んだ一筋の光が、まるで日が昇るように次第に輝きを増していくような感覚から来ているものだった。
一人の戦士が世界を救う。最も力強く、最も頼もしい、そして最も偉大な勇敢さに満ち溢れた気持ちを誘発してくれるフレーズだった。モーセの知る限り、その存在は全人類、全生命の中で最も愛ある心に満たされた者でなければならない。同時に最も強靭な鋼の意志を持ち、いかなる危機や逆境に直面しても決して怯むことなく立ち向かい続ける不屈の闘志を持つ屈強な者でなければならない。だがそれはすでに決められた特定の誰かではなく、万人に与えられた機会であることを、これまでの王との関わりの中から熟知していた。
しかし、それでも具体的にどのような存在なのか、知りたくなる。
かつて、王が言っていた「百獣の王」、つまりルオネイラ族としての存在は具体的にどのような者なのかを。
もしかして、博識で賢明な王であればその名前を知っているのではないか?
モーセが再び、質問した。
「その百獣の救世主、グランリディーマーとなる存在は、どのような人物か把握することは可能なのでしょうか?その名前は?」
少し小難しい表情を浮かべつつ、王は自身が座る広場のほとりにある石段を照らし出した日の光の線を、目でゆっくりと辿っていき、太陽へと向けた。
「時が来たその時代にならなければその者の名前は分からない。今の時点で特定することはまだできないのだ。私は予言者ではない。しかしただ一つ、明確に断言できることがある。その者は我らルオネイラ族の血を最も正しい形で継承する"純潔者"だということだ」
「純潔者?」
「さよう。モーセ、お前もすでに知っている通り、本物の指導者とは単に人より長けた能力がある者だけを指すのではない。人の痛みを知る慈愛とその優しさ、土壇場で逃げない胆力、そしていかなる逆境にも負けない心の強さもまた必要とされる。器の小さい者では、人々をまとめ上げられるだけの寛容さを持つこともできない。今における古今東西の指導者でさえ、権力や力がもたらす待遇や優越感に溺れ、その持てる力を持たざる者たちの支配の道具に利用する者も決して少なくない。
よいか、モーセよ。真の指導者、真のリーダーを決めるものとは器の大きさなのだ。その包容力、寛容、優しさ、それらを包括する大いなる愛そのものなのだ。それが人々の信頼を得ていき、やがて信頼が絆となり、その絆が強大な力へと変わっていく。そのような意味において心の純真、純潔な者が百獣の王、すなわち我がルオネイラ族の意志を最も正しい形で受け継ぎ、必要とされる来たるべき時代に人類への希望の光をもたらすのだ。そのことを決して忘れるでないぞ」
王の仰る言葉にはいつも感嘆させられる………。そのような意味において純潔者こそが百獣の王としての力を与えられる資格を有することになるのか。
感心する自身の隣で一人首肯する王を改めて誇らしく思うモーセに「その存在」の具体像が明確になってきた。
「最も正しい形………それが万人に与えられた可能性を開いた存在ということなのですね。………その"純潔者"は来たるべきその時代ではどのような呼び名をされるのか、気になるところではありますね」
「もちろん、ある」
「………彼の呼び名が?」
「そうだ。来たるべきその時代に現れる者、その者の呼び名は………」
一拍置いて、王が答えた。
「よみがえりし者。世界の終末に一切のあらゆる全てを救い、平和と調和の時代へと導く者。彼が来たるべき"その時"に姿を現し、百獣の王としての存在を世に知らしめる者だ」
「覚えておきます」
「そうか。私としても快く思うぞ」
一段落ついたと見た王は肩までかかる長い髪をかき分け、ゆっくりと起立した。途端に真剣な表情でモーセの方を振り返る。
「以前にも伝えた通り、ここエジプト王朝たりとてルオネイラ族の存在を知られてはならない。その力を欲しいままにする者たちが大勢いるに違いないことをしかと理解しておくのだ。………傍らにあるその石盤は誰にも見せてはならぬぞ」
モーセは隣に置いてあった長方形の平たく大きな石を丁重に手元に持ってきた。王の瞳を直視して真面目な表情を返す。
「いかなる時も守り抜いてみせます」
「よかろう。それではまた、いずこで会った時に」
王が再び温厚な表情を見せた後、その親近感のある雰囲気とは打って変わり、王はさり気ない動作でその場を後にした。
モーセにとって王の今までで一番穏やかな面持ちを見ることはこの日が最後になるとは夢にも思わなかった。
再び再会した時にはその石盤に危機が迫りくることになろうなどとは。
―いかなる時も守り抜いてみせます―
そんな過去を思い出してみても、今の状況はモーセの気持ちを著しく後悔させた。
外壁の外から聞こえてくる、エジプト軍が押し寄せる騒音とひしめきに戦慄を覚え、幾度となくおぼつかない躊躇に苛まれる彼の表情を読み取った王が優しくたしなめた。いつになく年齢に似つかわしくない若々しい笑みを軽く浮かべながら。
「いいか、モーセよ。私はイスラエル人としてこのエジプト王朝に憩いの場を与えられた時よりも遥か以前から確信していた。遠い記憶の彼方に忘れ去られたあの温もりを、我々人間は単に思い出せないだけであり、その内側には常に愛ある心をその胸の中に宿しているのだと。知らぬこと、無知であることは必ずしも罪と繋がるわけではないことを、どうかわかって欲しい。その可能性を知らないだけなのだ。泉への道を知らぬ者に道を尋ねたところで誰も答えられないのは、人であるならば皆同じこと。故に時にその航路を誤り、踏み外してしまう者がいたとして、なぜその者を責めることができよう?知らぬものは知らぬとしか言いようがないものであるというのに。それは道理についても同じこと。あるべき人の姿を必ずしも全ての人間が知っているとは限らぬ。人が人の過ちを責めることはその愛に反するものならば、どうしたって避けては通れない道筋であるもの。しかし、愛をもって道しるべとなる光を教え諭したのならば、人はそれを学び、必ずや元の正しき道を再び歩き始めるに違いない。人とは元々愛に生きる存在であり、その愛に生きる以上、その心は真の意味で迷走することは断じてないのだ。たとえ、明日が見えない日々が続くとしても、人に学びという気づきの機会が得られる以上、人はいつだって人に還ることができるのだ。闇を知るからこそ、光の尊さと偉大さを知ることができる。それが人こそに授けられた天からの最大の恩恵なのだ。そうであろう?」
戸惑いの表情を隠せないモーセはあえて頷きつつも答えた。
「人々の可能性を、信じろということでしょうか?私には一度悪の心に染まった者たちの良識を再び取り戻すことは不可能に近いかと、そのような危惧を払拭できませぬ」
「今はまだこの心が分からなくとも、いずれは私の言っていたことが分かる。たとえモーセ、汝を含むこの時代の全ての人間が分からなかったとしても、遠い未来で生まれくる者たちには必ず腑に落ちる時が来るだろう」
「愛を教えるべきだとするのであれば、ではなぜ、あなた様は戦うのですか?」
逞しい腕が握り締める武器としてのロッドに力を込めた途端、その両端が青く光った。低く唸るような音を発している。
王は不敵に笑った。
「愛とは優しさをもって接することだけが人への学びに値するとは限らない。厳しさ故の愛もまた存在するのだ。さあ、モーセよ」
さりげなく大門の方を向いた王の表情が真摯なものへと変貌し、モーセを促した。
「行くがよい。この地球という世界の端々に暮らす人類の行く末を愛をもって見届けるのだ。シナイ山まではあるべき天のご加護によって必ず導かれることだろう」
「不安な気持ちのままではありますが、王の仰せのままにこの使命を務めて参ります」
それを聞き届けた王はただ首肯しただけだった。
それが旅立つ合図を示していることは熟知していても、何かを伝え忘れたような気がしてモーセは王に背を向ける前に呼びかけた。
「陛下」
「うむ」
「陛下にも天のご加護がありますように」
本当の別れにおいては彼が返事をしないことはこれまでの関わりの中で再三にわたって理解していた。石盤の在り処を知られてしまったことへの後悔や懺悔の言葉さえも、王にとっては不要であることも。モーセは抱えていた石盤をかばうようにしてその場を後にした。
取り残された王は、大門が軋みながら破られようとしている様子を見てほくそ笑みながら、思った。
この私に、天のご加護だと?
そんなものは要らないし、その理由も資格も必要もない。
必要なのは………。
扉がついに崩壊し、木片が飛び散っていくその奥からなだれ込んできた軍勢に向かって疾走しながらロッドを水平に振り回す。
たちまちにして王の足元にある石でできた円陣から発せられた碧色のオーラが彼の体を包み込み、その肌に浸透していく。
こまごまとしたパーツが体全体を瞬時にして覆っていく。
その変身した頭は、誰もが知る「王の象徴」そのものだった。
一番親しかった友、モーセにすらも打ち明けなかった自身の正体を体感で味わう。
そう、私は百獣の王ルオネイラ・グランディスの末裔。
この胸に秘める愛をもって命を懸けて、戦う!
軍勢の先頭に突っ込んでいき叱声を放つ。
「私こそがルオネイラ・グランディスの子孫、アルタザール・デュアルテイル王!"彼ら"の力を得たければ、私を倒してからだ!来い!!!」
軍が王を仕留めにかかった。
彼は内心で不屈の闘志を湧き上がらせて、挑んだ。
私に必要なのは常に我が意志が燃やす信念のみ。
それは………。
―ディアンドラ………私の大切な存在たち―
そう。
我が愛する者たちを守ること、ただそれだけだ。
正真正銘の地球のリーダー、《百獣の王》なるよみがえりし者として!
「ここへ来るがよい」
心の中で聞こえたような声に従い、数分前に到着した山頂の丘の上にモーセは立った。長き旅によって苛まれた、王との別れがもたらした悲しみと後悔が完全に癒されたとは言えなくとも、今となっては必要な過程だったという認識が彼の心の痛みを和らげていた。それよりも王に指令を受けてようやく辿り着いたここシナイ山の頂上に、本当に「その存在」が降りてくるなどとは想定すらもしていなかったがために、ただただ驚きの表情を浮かべて頭上を満たす途轍もなく眩しい光に魅入られた。なぜかその輝きに目が眩むことはなかった。
「彼から授かった石盤、『十戒』は持ってきたか?」
かつての王よりもさらに静かで、空気そのものが果てしない穏やかさに包まれるようなその声に、モーセが答えた。
「かつて世界を治めていたある文明の王、アルタザール・デュアルテイル王より授けられました石盤、確かにお持ち致しました」
両腕に抱えていたその石をゆっくりと頭上に掲げるモーセ。
「よろしい」
数秒の間があり、その存在が彼に聞いた。
「汝はこの世界に『道理』があるのか、はたまた成しえない概念なのか、そのどちらを信じておる?」
突然の質問に不意を食らいつつも、モーセは毅然と答えた。
「道理がなければ人はあるべき道を失い、取るべき最も最善の姿から離れ、虚構と疑心の迷宮へと迷走してしまうでしょう」
「………それは汝の心から来る誠の言葉か?」
「間違いございません」
「よろしい」
試すような会話にモーセの動悸が激しくなる。
「モーセよ」
「はい」
「………では、道理とはなんだ?」
抽象度の高い質問に、モーセはさすがに戸惑った。何か絶対的な答えがあるような気がして、その答えを頭の中で模索しようと努めるも、緊張のあまり思考が回らない。それでも何か答えようと必死になった果てに浮かんだ言葉があった。彼はそれを口にした。
「道理とは、自身の心の声、すなわち良心に従うことであるかと」
一拍置いて、付け加える。
「最も私たち人間が考える道理とは我が主、つまりあなた様のような存在の考えるものとは異なるものかもしれませぬが」
「よろしい」
再びの沈黙。不意にモーセの方から言葉が出た。
「私はこの人間世界を救うべくあなた様のところまでやって来た。そのための必要な手段として持ってきましたこの十戒が、もしも、もしも、人の世における道理にかなうものであるとするなら、元々『あなた方』のものだった十戒の意味を肯定することにも繋がる。つまり、道理は存在する、ということになります。したがって、我らが同胞である人類を『救いたい』という思いは果たして道理なのか、はたまた道理ではないものなのか、その問いにも明確に答えることが可能となる。その答えとは、『道理である』と意味づけることができる。つまるところ、道理とは一人の人間単一の存在にのみ当てはまることではない。他者が介入することによって初めて規範のような概念が形成される。その概念こそが道理なのだと、私はそう解釈します」
「さようであるか」
その存在がおもむろに反応する。突然にして湧いてきた答えが核心部分をつけたような気がして、モーセの動悸が若干収まった。
その存在は言った。
「人と人との絆を忘れるでない、モーセよ。そのご縁に生かされていることを、そのご縁に感謝することを、常に忘れるではないぞ」
「………ご縁に生かされている、と申しますと?」
不意に口走ってしまった言葉にもその存在は温厚だった。
「人の心は他者という"絆"によって生かされている。つまり、自身の中に他者が内在するということになる。その中にいる他者を勝手に蔑ろにしてはならぬ。心とは絆が生み出すもの。その絆によって生かされている感謝の気持ちを大切にすること、それを汝ら人が道理と呼ぶのであれば、それこそが真実であろう」
………自身の中に他者が内在する。その真意を確かめてみたかったものの、「いずれ分かる時が来る」との声にその疑問はかき消されてしまう。
「さて、モーセよ。汝には目的があってここへ来たことは汝も承知であろう。汝の呼ぶ王の指令によってこの地へ到達したとはいえど、その本当の目的を汝は教えてもらわなかったであろう」
「さようでございます」
またの沈黙を経て、その存在が語りかける。
「モーセよ。汝は我の使命を手伝うことの指令を授かったのだ」
彼は何も答えなかった。
「その十戒を高く頭上に掲げよ」
未だに緊張の走る両腕をさらに上へとかざす。
「我の体は今はまだ完全ではない。だがの汝の王が言った通りいずれ来たる"その時"が到来した時代には、ある者の身をもって我の肉体は完成を遂げる」
その真意を聞くような気分ではなかった。より一層と輝きを増す頭上の未知の存在に思わず畏れを成してしまう。
「モーセよ」
「はい」
「世界を救う者、すなわちよみがえりし者の存在は今からおよそ二〇〇〇年後ほどの時代に現れる。その者が住む国と名前を教えよう。その者は………」
この世のあらゆる全てという全ての真実を知ったかのような感覚に包まれた。その者がどんな面持ちでどんな姿をしているのかまでは分からなかったが、この存在こそが遠い未来において世界を救う偉大な者であることを心の奥底に深く噛み締め、刻み込んだ。
「時が満ち足りた二〇〇〇年後、恐らく万人の中からこの者がよみがえりし者として選ばれ、未来の世界を牽引する可能性が非常に高い。少なくとも我が見る未来にはそのように映る。この十戒にはそのよみがえりし者の名前が我の使う文字で表記される仕掛けが施してある。また、その者が十戒を見つけた時、この石盤は我らの会話の記録を再び彼に聞かせるだろう。その者が見た時に自身の正体が分かるように、かの国へこの十戒を持ってゆくのだ」
「承知致しました」
深い充足感と使命感が新たに芽生えた彼を諭すように、続ける。
あたかもこれこそがモーセの最大の使命だとでも言わんばかりに。
「汝にとって究極の定めは、我の体をその十戒に収めること。汝はそのために生まれた」
「………はい」
「マカバと呼ぶ生命の設計図がある。それは我の体と十戒の内部に保存されている。それを汝の愛をもってして同化させよ。汝は二つの仲介役となる」
「我が主であるあなた様の体はこの石盤の中へと?」
「正確には我の中心へと戻る」
「………中心でございますか?」
「さよう。《生命の起源》だ」
それ以上は何も聞かなかった。今聞いてもそれが何を意味するのかさえ理解できないだろうから。
「承知致しました」
彼の返答にその存在が言った。
「さもなくばモーセ。汝の愛を、思い出せ」
胸の中で蓄積されてきた幾多の思い、その気持ち、そして人を想うことそのものの愛を、彼は念じた。
「よかろう。最後に言っておく」
これまでにない最大の光が彼を包み込んだ。思わず顔を上げたモーセの奥ゆかしい瞳にその姿が映った。
その容姿を見つめた。
あなたこそが………。
「人の心が廃れ、疲弊し、世界の灯火が消されそうになった時、我は再び戻ってくる。よみがえりし者と共に。そのことを汝の胸にとどめておくのだ」
「はい」
彼が返事をした直後、シナイ山の山頂が太陽のごとく強く強く煌めいた。この時代、そして遠い未来の時代へと繋がる、この世界の希望が照らし出したその光は、見る者の心を揺さぶり、畏怖させ、あるいは驚嘆させた。
数分ののちに、モーセはその場を後にし、麓で待つ人々の元へ戻った。
この地球史上最大の立て替えが来る"その時"に、よみがえりし者が現れるその時代に、大いなる希望を託しながら。
二〇三一年四月 現代
この世界には未だに謎に包まれた不思議なオブジェクトが存在する。
たとえそれが世間から公に認められない産物だとしても、必ず歴史の裏には決して語られることのない史実が厳然として横たわっており、それを蔑ろにすることは一見すると浮世離れしているようにも見える職業の価値を自ら否定することにもなりえる。ひそかに存在する世界の秘密が新たな意外性をもって次なる時代の節目にその姿をさらけ出すことはいつの時代にも可能性としてあり得る話であり、その巨大な変遷を俯瞰して眺望することこそ冒険家としての醍醐味を堪能できる嗜好の表れというものだ。
―日本のみならず世界各地で、謎の円盤が地面に表出している光景がいくつも発見された―
アウトドアを中心とする観光業界からそのような情報が流れ出ていたこともあり、そのうちの一つとされる八ヶ岳に個人で足を踏み入れることになったこの機会には、新たな情報を入手する機会も含まれることになった。それはつまり………。
「遥か太古の地球に存在した文明における歴史の断片が、蘇るのか」
眼前にそびえたつ巨大な絶壁の麓に到着した寺原高治は、崖から数メートル離れた砂利だらけの地面の近くへ歩いていき、目的のものを見つけた。
しゃがんで足元に位置する、うっすらと浮かび上がる目的のものをわずかに覆う砂を指でかきわけてはっきりと視界に映す。高治はそれを見た。
直径五十センチほどの石でできた円盤が地面に埋め込まれている。同心円状に描かれた象形文字のような小さなシンボルマークがびっしりと外円を覆っている。その中央に浮かび上がるのは………。
「どう見ても百獣の王にしか見えないな。それもその頭をしたヒトの姿だとは」
獅子の頭に似た人物が片手に棒状のものを持って毅然とした表情でこちらを見上げている。まるで古代エジプト王朝の遺跡にある壁画のようだ。しかし、こちらの方が有機的というか、今にも動き出しそうなテイストで描かれている。この人物像の足元には長方形の石盤があり、もう片方の手に持つものといくつもの線で繋がっている。石盤から持ち上げたものから何かがこぼれ落ちたような様子だ。そしてその手にあるのは………。
「これが………私の持ってきた遺物とリンクするものなのか?これは………太陽?」
それらしき彫刻の円がくぼんでおり、まるで何かをはめ込むような形状をしている。その周りは外部に向かって伸びる波線で覆われており、誰がどう見てもそれを意味するものであることは容易に想像がついた。
しばしの間それを眺めた後、胸ポケットから取り出した小さなメダルを親指と人差し指でつまみ、上からそれを照らし合わせた。何かを確信したのかそれをゆっくりと太陽の彫刻へと近づけていく。
不意にこれを譲渡してくれた友人の言葉が脳裏に浮かんできた。
―これが人類の歴史から忘れ去られた、太古の時代に存在したある文明とそれを治めていた人物の遺物であるとするなら………間違いなく本物の設計図だ。そう、その設計図だよ。世界の深奥で今も眠り続ける遺産、それが―
思わず口に出す。
「太陽の印」
それが一体どんなもので、何の用途に使うものなのかまでは分からない。だが、それは確実に実在した「ある存在」がかつて持っていた代物であり、それがこの現代に蘇る時期に重なって、何か巨大な出来事が起こる。彼はそう言っていた。
彼が伝えたことを実行するべく、高治はそれを円盤のくぼみにそっとはめ込んだ。
その瞬間、今まで高治が体験したことのない現象が起きた。
鋭い音を立てて円盤に青いパルスが走り、無数のシンボルマークに浸透していったのだ。驚いたのも束の間、はめ込んだメダルから霧状の線がゆらゆらと立ち上っていき、頭上に半透明の球体を形成した。その表面にいびつな形をした石ころのシルエットに似た緑色の光がゆっくりと拡大していく。
地球儀を伺わせるバーチャルな立体映像に息を吞む高治の頭上で回転し始めたその表面から、さらに何かが浮かび上がった。白く光るもう一つの地球儀が元の地球儀から膨張するような形でその複製が出現した。それが浮上してきたと同時に、いくつもの碧色の粒子が飛び出し、地球儀を取り囲むようにして周りに散在し始めた。粒子同士がまとまって平面状に薄く拡大していき、スクリーンのような長方形を生み出した。それらは地球儀を中心に回転しながら更なる多くの粒子を拡散させ、同じパターンを繰り返していく。
一連の現象に拍子抜けしたものの、気を取り直して頭の中を冷静にする。
これは、コンピュータか何かだろうか。太古の時代に存在したコンピュータ?人類すら誕生していなかった時代に果たしてそんなものが………?だが、目の前に散開する事象物はそうとしか考えられない。
困惑する彼に構わず、一部のスクリーンが高治の体に光を当てて上から下までなぞらえていく。
………もしかして、スキャンされているのか?
その予測は当たっていた。光が消えると地球儀から声が聞こえてきた。男性なのか女性なのか識別できない中性の声音だ。
「現在の年代を特定、この人物による人種、認知機能、既成概念、言語を取得」
声が一旦途切れ、再び聞こえてきた。しかしそれは中性の声ではなく、低い声音の男性の声だった。
「………聞こえるか?………ここ………地球………もう一つの世界………滅びる………」
誰かが途切れ途切れに何かを伝えようとしている声が辺り一面に鳴り響いた。切迫感こそ感じないものの、何か緊迫した事態を重く受け止めているような声音だった。
「君たちの世代………を託した………頼んだぞ………その時は、必ず………来る………」
これは恐らく音声記録だ。特定さえできない遥か太古の時代に生きた何者かからのメッセージだ。
確信した彼の眼前に浮かぶ地球儀が新たな動きを見せた。本体にあたる下層の地球儀から、青い半透明の不定形の広がりが滲み出て上層にある白い地球儀に向かって上昇していく。察するに恐らく大陸だろう。
「これを………見よ………世界の終わり………よこしまなる………の轟き声………破壊………音がする………全ての命、途絶え………新たな世界………打開の鍵は………定められた名………失われた三〇〇〇年………そして………よみがえりし者………」
地球儀の動きを見て、高治はあることに気づいた。
青い大陸が上に向かっていけばいくほど、本体の表面にある緑色のもの、つまり大陸がどんどん霧のように消滅していく様を、彼は捉えた。これは………一体?
何を意味するのかまるで見当もつかないが、ただ、声が言い残していることを理解した上で一つだけ分かることがあるしたら、それは………。
思わず、独白する。
「この世界に、何かが起きる」




