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鉤 爪 (かぎづめ)

作者: たき ひでなが


 僕には忘れられない夏の思い出がある。まだ、東京の住宅事情において、暖冷房完備が一般的になる前の頃の事だ。

 その日は、黙っていても額に汗が浮かび上がる暑い日だった。お昼頃、近くに下宿している先輩が、急に僕の部屋にやって来て、

「一緒に昼食を食べないか」

と誘いにきた。部屋にいても、暑いだけだ、と思っていた僕は、その言葉に促されるようにして外に出た。しかし、その判断はすぐ誤りだったと思い知らされる。激しく照りつける太陽と、それを受けたアスファルトの反射熱で、外は内にも増して暑かったからだ。

そんな中を、先輩に引き連れられて、数十分も歩かされる羽目になったのだ。これで、たどり着いた先が、冷房の効いているレストランであれば、暑い中を歩いて来た甲斐があったというものだが、連れて来られたのは、暖簾の掛かった冷房設備がない小さな大衆食堂の前だった。

 この暖簾、幾人もの客がかい潜ったものらしく、人毛の油と埃で、紺の布地が黒く汚れテカテカに光っている。そのきらめきは、まるで銀蠅の背を思わせた。

 一方、先輩は、そんなことは一向に気にならないらしい。

 さっさと暖簾を潜って中に入ると、カウンターの背もたれのない木製の椅子に腰掛け、僕の方を向いて手招きをした。仕方なく中に入っていくと、すぐにむせ返るような熱気が襲い掛かってきた。

 席に着くと、それを待ち受けていたように、店の主人が注文の品を訊ねてきた。すると、すかさず、

「カレーね。カレー二人前」

と、先輩が、指を二本立てて頼んだのだ。

 熱気と疲れから、ボーツとしていた僕だったが、自分の分まで勝手に注文されたことに驚き、慌てて取り消そうとすると、

「いいから、カレーにしな。カレー。暑いときは辛いものを喰う。これが一番涼しくなる方法なんだ。今日は、俺が奢ってやるから」

と、押し切られてしまった。

 主人は、話が整ったと思ったらしく、鍋に火を点けるために奥の厨房に入って行った。

 何を言っても無駄かと思った僕は、もう好きな物を食べることは諦めることにした。

 いやそれよりも、急に先輩が、昼食の代金を奢ると言いだしてきたことの方が、気にかかる。というのも、この先輩は、悪戯好きで、人が驚いたり困惑したりするのが、大好きという悪癖を持っているからだ。

 つい先日も、

「うちの大学では、二年に一度性病の検査があることを知っているかい。精子を薬瓶に詰め、医務室まで持参して、見てもらうことになっているんだぜ。もう済んだのかい」

という言葉を信用し、大恥をかいたばかりだ。

「急に昼飯を奢ると言ったので、何か企んでいるんじゃないかと思っているんだろう。そう疑い深い目で見るなよ。少し面白い話を聞かせてあげようと思っているだけなんだから」

「いやぁ、そういうわけじゃ………」

と、返事したものの気は許せない。

 そんな、軽い言葉のやり取りをしている間に、アルミの盆に乗せられたカレーライスが、水と一緒に目の前に運ばれてきた。

「まあ、食べながら聞きなよ」

 そう言って先輩は、一口頬張った。その様子を窺いつつ、僕も一匙すくって食べてみる。

 すると、鼻の奥をくすぐるようにカレー独特の香りが口の中に広がっていく。

 次の瞬間、灼熱の太陽を舌に乗せたような辛さが襲ってきた。

 おもわずコップの水を含み、濯ぐようにして胃の中へと流し込む。

 まだ舌がジンジンと痺れている。更に火照った顔を冷やすために、もう一口水を飲んだ。

 すると、冷やされたことで辛さが薄れてきたのか、糸のような肉片を、舌先に感じ取れるようになった。

 気がつくと、空気が、頬に涼しく当たっている。そこで涼しさを呼び込むカレーの効果というのを改めて感じさせられた。

「実は、カレーの話なんだ」

 唐突に先輩が話を切り出した。僕が一口食べ終わるのを待っていたのだ。

「と言っても、よくある下ネタじゃないぜ」

 それから、一呼吸おいて、たっぷりと僕の興味をそそったあと、

「君は、ゴキブリを知っているだろう」

と、話し始めた。

「えっ。ゴキブリ」

すぐに脳裏に浮かんだのは、黒く脂ぎった翅を持った平べったい虫だ。

 僕の故郷は、北海道なので、東京に来るまでこの虫を見たことが無かった。しかし、昨年の夏以来、この虫のおぞましさを嫌というほど思い知らされ、忘れられない虫となっていたのである。

 最初に見たのは、下宿の側溝で、配管口に死んでいるドブネズミを見つけた時だ。

 そのネズミは、大量の汚水を浴び、溺れたような姿で死んでいた。

 死んでからしばらく経っていたのだろう。肉の一部が腐って落ちて、白い骨が覗いていた。そこに、赤茶けた小さな虫が付着していて、それが、ゴキブリ見た最初だった。

 この時は、銀蠅のような虫だなと思ったが、怖いとは思わなかった。

次に出会ったのが、洗濯する汚れ物を入れておく袋の中だ。

 普段、洗濯物を一週間位溜めて洗うようにしていた僕は、その日も、いつものように洗濯をするため、汚れ物をナイロン袋に移し替えていると、下着類の中から、少し饐えたような臭いがするのに気がついた。

 心当たりがある。先日、夢精してしまい、パンツをそのまま丸めて洗濯袋に突っ込んでいたのだ。

 早く捨てようと思った僕は、臭いを嗅ぎ分けながら、それらしきパンツを取り出していると、三枚目のパンツから、小さな黒い物が、二、三粒、畳に落ちてきた。

 何だろうと思って、顔を近づけてみると、それは、思いの外早く動いて、視界から消え去っていった。

額に、冷たい汗が浮かんだ。

 恐る恐る取り出したパンツの内側を見ると、赤黒い小さな物が、小豆をまき散らしたように群生している。しかもそいつらは、見つけられたからといって焦って動くこともなく、温泉にでもつかっているようにのんびりとしているのだ。

 その光景に、白骨化したネズミの姿が甦ってきて、袋ごとその汚れ物を捨ててしまった。以来、この虫が嫌いになった。

 最後に、徹底して嫌いになったのが、寝ているときに、鼻の下を駆け抜けられてからだ。

その日の夜、妙に鼻の下がくすぐったいので、思わず手を当てると、少し堅く、反面ねっとりとした紙に触れた感じがした。

 すぐさま跳び起きて、電気を点けると、黒い物がさっと視界を横切り、部屋の隅で停止する。

「ゴキブリだ」

 すぐに分かった。そいつは、体長が三センチ位あり、翅が黒く脂ぎっていた。その輝きのいやらしさは、僕にゴキブリと出逢った今までの体験を否応なく想起させてくる。

 すぐ近くにあった雑誌を手に取ると、憎悪を込めて投げつけた。

 だが、そいつは、素早い前進によって軽く交わすと、立ち止まった所で小馬鹿にしたように触覚を振るわせた。

 その行為に無性に腹が立って、今度は雑誌を丸めると、何度も叩きながら、その虫を追い回した。

 その度に、紙一重で身体をかわされ、一時停止する。それが何とも忌々しい。

 それでも、ようやく部屋の隅まで追い詰めることができた。いよいよ最後の一撃と思い、腕を振り上げたその瞬間、そいつは黒い翅を羽ばたかせ、僕に向かって飛んできたのだ。

「飛ぶのか!」

 その時の恐怖。

 背中から頭に突き抜けるような悪寒が走った。

 咄嗟に握っていた雑誌をメチャクチャに振り回す。それが、運良くゴギブリにヒットし、畳に叩きつけることができた時には、本当にホッとした。

 見ると、ゴキブリは、仰向けになって足をヒクヒク震わせいる。それを重ねた塵紙で包み、グッと力を入れると、手の中でブチッという音を立てて潰れた。

 その後、体液が、じわっと紙に染み出て来て、生暖かさが伝わってきた。以来、ゴキブリを見ると悪寒が走るようになった。

「知っていますけど。それが何か………」

 返事を聞いた先輩は、満足そうにニコッと笑うと、急に声を低くして話し始めた。

「実は、これはとてもコワイ話なんだ。興味があるだろう。この暑い中、涼しくなるには、もってこいの話なんだぜ。君は、カレーが好きだろう。いや、返事はいい。君のいま食べた様子でわかる。

 このカレーだが、美味しく作る秘訣というのを知っているかい。それは、煮込むことなんだ。煮込むことによって、肉や野菜の旨味が、カレーの中に溶け出していくわけだ。

 食堂のカレーが、家庭で作った物より遙かに美味しくなるのは、大きな鍋で、たくさんの食材を何日もかけて煮込むからなんだよ。

 で、このカレーなんだけど、美味しさをキープしておくためには、辛さを逃さない工夫が必要になってくるんだ。蒸らしたりするのが、一番良くないらしい。そこで、何日も煮込まなければならないカレーを作るときは、蓋は必ず開けっ放しにしておくんだよ」

そこで先輩は、一匙カレーを口に運んだ。

「で、ゴキブリのことだが、この生き物、君はこの生き物は、どこでも這い回るのを知っているだろう。トイレの金隠から洋服ダンスの隅まで、ありとあらゆるところを動き回る。

 その中でも、特に好きなのが台所だ。何と言っても餌が豊富にあるからね。その上、調理のために火を使うので、温かいし、湯気が出るので、良い具合に湿り気もある。

 これを食堂に置き換えてみよう。ゴキブリが頻繁に出やすいのは、当然調理場になるだろうね」

 先輩はまた一匙食べた。しかもゆっくりと。

「さて、カレーの話に戻すね。カレーは、煮込むと、辺りにプーンと美味しそうな匂いが漂うのは経験上分かっているよね。

 食堂であれば、鍋も大きいので、その匂いは大量だし、蓋をしないとなると出放題になるだろうね。ホカホカのジャガイモ、甘いタマネギ、そして、とろとろと蕩ける油をいっぱい含んだ肉の匂い。

 この美味しいそうな匂いが大量に調理場に流れるんだから、そこに住み着いているゴキブリにとっては堪らないだろうね。ましてやふたを閉めてなければ、食べて下さいと言わんばかりなんだから。当然彼らは、その食べ物にありつこうとするよね。

 でも、昼間のうちは、グッと我慢しなきゃいけない。人目につきやすいからね。夜を待って、動き出すんだよ。

 夜が来ると、彼らは、二本の黒い触覚を最大限に働かし、ササササッと素早く動き回っては、カレーを探し始めるんだ。やがて、彼らは、大きな鍋を見つけることになる。あの長い触覚はすごく感度がいいからね。

 まず最初に、六本の脚を使って、鍋の壁を登ろうとする。でも、金属面で滑って登れやしない。

 そこで、あの脂ぎった翅を使うんだな。軽く羽ばたいて上昇すると、お目当てのカレーを見つけるんだ。そこで急降下をして、鍋の縁にたどり着いたり、そのままカレーの海に突っ込んだりするというわけさ。

 脚下に広がるご馳走のプールに臨み、彼らは直ぐさま口を突っ込んで食べ始めるんだ。

 根が卑しい彼らは、この時ばかりと腹一杯になるまで詰め込み始めるのさ。牛肉、ニンジン、ジャガイモ等、あらゆる物を少しずつ、休みなく、小さな黒い糞を垂れ流しながらね」

 先輩は更に話を続ける。

「やがて、彼らは小さな異変に気付き始めるんだ。

 さっきまで、自由にあちこち食い散らかして歩き回っていたのに、なんだか脚が思うように進まない。脚が、重たくなるんだよ。なぜだかわかるかい。

 そう、腹一杯食べため、体重が重くなって、脚がカレーの泥濘に埋まり始めたからなんだ。

 丁度底なし沼に入り込んだようなものだね。

 でも、彼らにとっては、目の前にあるごちそうを食べることの方が大事なんだ。だから、そんなことはお構いなしに、更にどんどん食べていくんだよ。

 『美味い』ズブズブズブ、『美味い』ズブズブズブ、

 ってね。沈みながらも食べていくのさ」

 そう言いながら先輩は、話に合わせて、水平に掲げていた左腕を段階的に沈めていった。

「へえー。でも、それがなぜコワイんですかね。お店の方だって、ゴキブリ入っていれば、信用問題になるのだから、そんなカレーは捨てて、また作り直して出すでしょう」

 すると、先輩は待ってましたという顔で、

「そこが、君の考え方の甘いところなんだな。いいかい。コワイのは、これからなんだ。

 カレーの中に、ゴキブリが、沈んでしまったとするね。

 次の日、コックが来て、カレーを覗き込む。ゴキブリは、一晩かけながら沈んでいるので、表面上はきれいなものさ。もちろん、全部沈まないで触覚等が残っている場合もある。でも、植物繊維の残り滓、または焦げつき位しか思わないんだ。

 結局コックは、お客が来る前に、もう一煮込みしておいた方がいいだろうと考えて、よく確めもしないで鍋に火をつけるわけだ。当然カレーは、溶岩のように煮え始めるよね。

 ところで君は、ゴキブリの成分の多くは、何だかわかるかい」

 突然の質問に驚いたが、すぐに、あのゴキブリを紙に包んで潰した経験を思い出した。

「アブラ………?」

「そうだね。あのテカテカした身体からもわかるように、油分が多くを占めているんだ。

 それが煮込まれると、どうなると思う」

脳裏に、重ねていたちり紙から、ジワッと体液が染みてきた場面が思い浮かび、その油が、黄色いカレーの油に溶け込んでいくイメージが映し出されていった。

「そう。今君がイメージしているように、ゴキブリの体液が、バターのようにカレーの中に蕩け出していくんだよ。もちろん、殻や翅の筋は残ってしまうだろう。

 だけど、カレーというのは、煮込んでいる間に、焦げ付かないようにと、何度もかき回すだろう。そのため、砕け散って拡散されていくんだな。

 そうだな。最後に残ってしまうものといえば、脚くらいかな。それだって、食べている客からみれば、十分煮込まれて柔らかくなっているので、肉の筋位しか思わないんじゃないかな」

 僕は、改めて自分の目の前に置かれているカレーを見た。目の前のカレーの表面に浮かんだ黄色い油を見ていると、これ以上、口に運ぶことができなくなってしまった。更に、さっきの口に残った肉片の記憶が蘇り、あれば、ゴキブリの脚だったのではないか。と疑い出すと、胃が一瞬にして重くなった。

自分の分のカレーをすっかり平らげてしまった先輩は、そんな僕の様子を見て、本当に満足したのだろう。

「どうだい、コワかっただろう。すっかり気持ち悪くなっただろう。

 冗談だよ。冗談。ゴキブリが、全部蕩けるわけないじゃないか」

と笑うのだった。

しかし、その時僕は、笑っている先輩の歯の間に詰まっている黒い糸のような肉片の先端が、鉤爪になっていたのを見逃さなかった。


                            おわり



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