相談室日記
2019年6月1日(土)25歳
今日は相談室に18時の約束だったが、バスを一本乗り過ごしてしまい、次のバスに乗り目的のバス停に降りたのが18時ちょうどになってしまった。急ぎ足で向かうも、間近に迫った梅雨入りを感じさせる生ぬるい風が僕にぶつかっては脇を通り抜けるので、相談室の前に着いた時には全身汗が滲んでいた。少し息を落ち着かせ、予定より15分ほど遅れて相談室に入ると、先生はいつもと同じ椅子に座ってパソコンに何かを打ち込んでいた。
先生は僕に気付くと笑顔で、「こんにちは。」とだけ言った。
「遅れてごめんなさい。」
「大丈夫だよ。今日暑いよね。水用意してくるから、ゆっくりしてて。」
先生は冷蔵庫のある事務所に行ったので、僕はいつもの場所に荷物を置き、汗をハンカチで拭きながら先生が戻ってくるのを待った。汗が引く気配がなくクーラーを少し強めたかったが、勝手にいじるのは気が引けたので、先生が水を持って戻ってきた時にお願いして、温度を下げてもらった。
僕も先生も水を飲みながら無言の時間が流れ、僕の汗が落ち着いてきたきた頃、先生がおもむろに話し始めた。
「さて、今日はどうしたの?」
「今日は、どうもしないです。」
「どうもしないの?」
「どうもしないです。」
「そっか。じゃあ・・今日はどうしてきたのかな?」
「どうしてだろう。来たかったからです。」
「そっか、それはそれで嬉しいな。じゃあ、今日は普通に友人として話そうか。」
「はい。お願いします。」
「せっかくだし、お酒でも飲みながら話す?」
「いいんですか?」
「今日はもうこれで仕事も終わりだから。はじめくんお酒飲めるんだっけ?」
「割といけます。」
「よかった。ちょっと待ってて。」
先生が笑顔で椅子から立ち上がり、再び事務所の方に消えた。一人で相談室にいるのは初めてだが、先生がいない相談室がこんなに寂しいものだとは思わなかった。たくさんの書籍や、タイトルの書いていないファイルが並んでおり、必要最低限の物だけが揃っている相談室はとても機械的で、なんだか一人でいるのがつらくなってしまった。早く先生戻ってこないかな。
「ごめん、トイレ行ってたら遅くなっちゃった。」
「先生おそいです。」
「悪い悪い、こんな何もない部屋に一人だと寂しいよね。じゃ、さっそく飲もっか。」
先生は机の上の書類をざっくりとまとめて整理すると、手に持ってきた古いビニール袋から次々とお酒を机に並べた。普段と全く違う机みたいだ。
「じゃあ好きなやつ選んでよ。」
「好きなやつっていっても、ビールかハイボールしかないじゃないですか。」
「急だったから僕が普段飲むお酒しかなくてさ。あと日本酒はあったけど、はじめくんは飲まなさそうだから持ってこなかった。ビールとかハイボールとか嫌い?」
正直、どちらも好きでも嫌いでもなかったが、
「嫌いじゃないです。」と、後半だけ言葉にした。
「よかった。じゃあ飲もうか。」
おそらく冷蔵庫には入れてなかったのだろうか。僕が手に取ったハイボールは常温で、開ける時もなんだかヌルそうな音を立てて開いた。
「じゃあ・・どうもしない今日に乾杯。」
「乾杯。」
一口だけ飲んだが、まあまあ美味しかった。この調子だと飲みすぎてしまいそうだったので、今日は一缶だけにしようと思う。一方、先生の方はビールをゴクゴクと一気に半分くらいは飲んだだろうか。ふーっと息を吐くと、満足そうに笑顔になった。
「先生はお酒強いんですか?」
「そうだね。たくさん飲まないとあんまり酔わないかな。今日はここにある分だけにしようとは思うけど。」
僕は無言で残り6缶のビールを眺めた後、先生に向き直った。
「先生ってなんでこの仕事してるんですか?」
「んーなんでだろうね。色々理由はある気がするけど、結局は、はじめくんみたいな人がいるからかな。」
「どういうことですか?」
先生は少し考えるような表情になった後、その表情のまま話し始めた。
「はじめくんは最初いろんな不安を抱えてここにきたと思うんだけど、僕はなんだかそれが他人事のようには思えないんだよね。もともと僕は自分に自信がない人間だから、ずっといろんな不安を抱えながら生きてきたこともあって、不安を抱えている人を見ると、なんというか、なにか出来ないかな、って思うんだよね。」
所々に間を挟みながら先生は言いきると、もう一口ビールを飲み進めた。
「先生にも不安ってあるんですね。」
下を向いて呟いた後、僕も一口飲み進めた。
「もう不安しかないといっても過言ではないね。」
「全然そんな風には見えないですけど。」
「不安は不安だけど頑張って心の奥に閉じ込めてる、って感じかな。不安な人の話を聞く時にこっちも不安な気持ちで聞くのは何かと不便だからね。」
「話を聞く仕事も色々と大変ですね。」
「まあそうだね。でも僕は自分の不安の気持ちは嫌いじゃないよ?」
「そうなんですか?」
「だって僕が自信満々だったら、はじめくんは多分僕の話を聞いてくれなかったと思うんだよ。僕がこれまで色んな不安を経験してきたから、はじめくんの不安もなんとなく分かる気がするし、その不安を理解したいって思えるんだよね。これは経験した人しか分からないことだから。はじめくんもこんな僕だから話してくれたことがあったんじゃないか、と信じたいんだけど、実際はどうだろう?」
先生は(多分)お酒で少し赤くなった顔で僕の顔を覗き込んだ。
「確かにまあそんな気もしなくはないですね。」
確かにそんな気がする。親には言えないことも、先生には相談してたっけ。そんなに遠い過去ではないのに今となっては遠い昔のように感じる。
「まあ先生にも色々あるんだってことが分かりました。」
「雑なまとめ方。」
先生は笑いながら、一缶目のビールを飲み干し、2本目のビールに手を伸ばした。先生ってお酒好きなんだな。全然知らなかったや。
「先生、僕、これから何がしたいんですかね?」
手に持っているハイボールをさらに一口流し込み、少し間が空いてから聞いてみた。先生も手に持っているビールを一口飲んだ後、「それは僕には分からないよ。」と笑顔で言った。
「自分では何をしたいと思うの?」
「自分では分からないです。昔みたいにすごい悩むこともなくなって、仕事も慣れてきて、自分にも少しだけ自信が持てるようになってきて。でも何をしたいのかを考えても考えてもよく分からないんですよ。考え方がそもそもわからないって感じで。」
「そっか。これは本当に難しいことだからね。何か自分の興味があることとか、好きなこととかから考えることが一つの手だけど、どうだろう?」
「んー、そういえば最近ピアノしたいなーって思ってます。」
「お、いいね。どうしてピアノしたいなーって思ったの?」
「なんか、かっこいいなって思って。演奏してる動画を見た時に、あ、こういう表現方法もあるんだって思ったんですよね。僕は喋るのが得意じゃないので、こういう音楽での表現方法も身につけられたら、自分を表現する方法がまた一つ増えるのかなって。」
先生は何も言わず、満足そうな顔で頷いている。
「僕は自分を表現するのってすごい勇気のいる行為だと思うんですよね。自分を表現すると同時に、他の人の表現を否定することに繋がる気がして。でも、だからこそ、自分を表現している人ってすごい素敵だと思うんですよ。すごい心に響くというか。それが音楽だろうと、言葉だろうと、スポーツだろうと。・・だからピアノしたいです。」
「うん、すごくいいと思う。ピアノ。早くはじめくんがピアノ弾くの見たいな。」
「もともと音楽やったことないんで多分5年とか10年とかかかると思うんですけど、まあ弾けるようになったら先生に一番に聞かせてあげますよ。」
「分かった、楽しみに待ってるね。」
その後も先生の色んな話を聞いた。学生時代の話、初恋の話、普段何を食べてるいるのかの話。うまく言えないけど、先生も一人の人間なんだと思った。僕にとって先生は先生だけど。
一時間ほど話して、先生はまだ四缶目を開けたところではあったけど、明日は朝から友達と買い物する予定があるのでそろそろ帰らないといけない。そのことを伝えると先生は少し寂しそうな表情をしながらも、「まあ、また話しにきてよ。」とだけ言った。
僕は「ありがとうございます。またきます。」とだけ言うと、荷物を持って、19時46分のバスに間に合うように急いで相談室を飛び出した。先生はこの後も一人で残りの二缶開けるだろうな。僕はハイボールを一缶しか飲んでいなかったが、少し酔ったような気分で急いでバス停に向かった。すでに暗くなった道は、急いでバス停に向かう人にとっては丁度いい気温で、体にあたっては脇を通り抜けていく風がとても心地よかった。