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007 えっ、マジで






朝、商店街の道に面した玄関を開けると、匂いを感じた。

それは朝の冷ややかな空気の中に溶け込んだ、人の生活臭のようなもの。

特に特徴的なのは、湯気と小豆の煮える匂い。お隣との狭い隙間から大量に吐き出される換気扇からのものだろう。

そしてひといきれとゴムの焦げたようなものがかすかに。

総じてそれはこの商店街の『町の匂い』を形作っているものだろう。


「…鼻も利くのか」


伸びをしながら、冬夜はぼやいた。

外への最初の一歩を踏み出す前に、その手は落ち着きなくいま掛けているはずの眼鏡へと伸ばされる。眼鏡を身につけたまま「メガネメガネ」と間抜けなネタをやる気はないものの、湧き上がる不安だけはどうしても抑えることができない。

基本、生まれ変わったときに視力まで一新されていた。

本来、眼鏡などもう掛ける必要もなかったりする。


「…それじゃ、行ってきます」

「ああ、気をつけるがよかろう」


廊下に面した居間の入口から、背中だけ見えていたヘラツィーダが顔を覗かせて応えを返した。

わずかに見えるテレビ画面には、ゲームと思しき画像が映っている。カグファ王女とヘラツィーダのふたりで、冬夜の訓練終了からずっと遊び倒していたらしい。

いまこの地球上で、ゲーム大会が開かれているのはおそらくこの家だけだろう。外へと向き直ってひとつ呼吸を整えた冬夜は、たまたま通りかかった男の子が七瀬家内のゲーム音に呆然と立ち尽くしているを見てしまった。

慌ててドアを閉めて、ひくついた笑みを浮かべる。


「砂姫姉」


子供の視線から逃げるように、シャッターの前で読書に耽る幼馴染に声を掛ける。活字情報だけで頬を染め口元を緩めてしまっている幼馴染の様子から、彼女が妄想世界にダイブしてしまっていることを知る。


「砂姫姉」


砂姫姉の再起動スイッチとなる弱点は、脇腹にある。柔らかいそこに容赦なく人差し指を突き入れる。

跳ねるように顔を上げた幼馴染は、


「…っ、んんっ」


と条件反射的に身を竦ませた。

無防備な反応を口にしてから……おのれの弱点を的確に攻めた冬夜を睨むように見返して、ずいっと手に持っていたショッピング袋を差し出してくる。

中身のふくらみから、昨日言っていた上用饅頭の残り物であると察する。


「昨日呼んだんだけど出てこないし。外に置いとくわけにもいかないし、いま冷蔵庫にでも入れてきたら」

「あっ、ありがと…」


おそらく砂姫が饅頭を持ってきたのは、冬夜はこの世から一時的に強制退場させられていた間のことだったのだろう。不可抗力であるとはいえ、申し訳ないことをしてしまったらしい。

まださっきの男の子が七瀬家の玄関を凝視しているので、その視線をさえぎるように家の中に戻って、ゲーム大会中の二人に食べてよしと投げ渡してくる。

急いで外に戻ってくるときにも、じっとりと眺めてくる男の子の視線が待っている。よほどゲームに飢えているのだろう。

なんとなく愛想笑いをしつつ、歩き出す構えの砂姫の隣に急いで並んだ。

そんな冬夜の落ち着きのなさに首を傾げていた彼女が、前もって予想していたとはいえあっけなく冬夜の顔面にある『異変』に気付いてしまった。


「…ん? 眼鏡替えたの?」

「…ッ!!」


即行で気づかれて棒立ちになる冬夜。


「んふ、ビン底メガネとはなかなかにレアアイテムを見つけたわね。マンガとかではよく見るのに、こういうの実際には売ってないのよねー」

「あー、その、おばあちゃんの箪笥で見つけて……や、やっぱおかしいかな」

「…まあ別にいいんじゃない? それが老眼鏡じゃなきゃね」

「…よく見えてるし、き、近眼用、だと思うんだけど。もしかしたらおばあちゃんの若い頃のやつかも…」


実際は度など入ってもいない。

ひとり焦っている冬夜に、砂姫がすっと手を伸ばす。

特に他意などはなかったのだろう。ビン底メガネというレアアイテムを手にとって眺めて見たかっただけであったのだと思われる。

あまりにもあっけなく眼鏡を奪われて、ぴしぃぃっと固まってしまった冬夜。


「…へぇ、ビン底って意外と度が入ってないのね」


すぐには気付かずに、アイテムをしげしげと眺めていた砂姫であったが。当たり前というか予定調和というか、眼鏡を返そうとして冬夜を見、そのまま日常動作に任せて歩き出そうとした彼女は、遅効性のショックにようやく全身をびくっと震わせて……ギギギッと音の出そうなぎこちなさで振り返った。

そうして固まったままの冬夜のいまの素の顔を見、数瞬凝視してから「むはぁっ」と忘れていた呼吸を取り戻しながら無理やり目を引き剥がした。


「と、と、冬夜?」

「………」

「…えっ、本人よね」


砂姫の動揺はそのまま冬夜にダイレクトなダメージとなって通っている。

砂姫が手に持ったままであったビン底メガネをぱっと取り返して、顔を背けるようにして装着する冬夜。

ふたりして顔は真っ赤である。

まったくの別人と疑われることを恐れていた冬夜であったが……砂姫の反応は予想のはるか斜め上を突き抜けていた。


「…メガネギャップ萌えがこんな身近に現存してたなんて…」


たはーっと自分の額を手で叩いて、ワサビの利き過ぎた寿司を食べた時みたいに天を仰いだ彼女は、自分で自分をハグしてくねくねと気持ち悪く身もだえする。聞き取りづらいほどに上ずった早口は、「キタキタキタキタ」と繰り返すばかり。


「オネショタ設定がまさか我が身に現実に起こるなんて、オッケー、神様いい仕事してるわ。神サプライズありがとうございます…」

「砂姫姉、もういくからね」

「いつもの詰まんない会話が胸キュンキュンなんですけどもうゴールしてもいいよねうんゴールしなきゃこれは罰が当たるよね!!」

「…帰ってきて砂姫姉」


必殺の脇腹再起動ボタンを再びねじり込んだ瞬間、砂姫は喀血もかくやといわんばかりに盛大に鼻血を噴出した。




「…砂姫姉、鼻血止まんないね」

「…昨日饅頭食べ過ぎただけなんだからね! 誤解しないでちょうだい!」

「さすがに鼻にティッシュをねじ込んだまま登校とかやめようよ。みんな見てるよこっち」

「わたし勝ったの。勝ったのよ」

「わけわかんないよ砂姫姉…」


いつもよりもずいぶんと時間をロスしたものの何とか時間内に校門をくぐり、慌しい生徒たちの流れに乗って階段を上る。2年の冬夜は2階、3年の砂姫は3階で、いつもならは階段の2階のところで別れるのだけれども、この日はなぜか砂姫が教室までついてきて、ちょうどそのとき目の合ったクラスの女子連にきいッとガンをつける。

突然現れた上級生に睨まれて、若干引き気味のクラスの女子たちをかわしながら一番後ろの席に着く。


「…なんで先輩が」

「チョー怖いんだけど」


席に着くや忙しげな振りをしてカバンの教科書なんかを机に詰めていた冬夜であったが、なにげに集まってくる視線に気づかぬはずもなかった。

乱入した上級生がガン見しているその視線の先をクラスメイトたちも追っている。


「冬夜ちゃん、またあとでね!」


砂姫の口から初めて聞いた「ちゃん」付けに戦慄する冬夜。

ワザとだ絶対ワザとやってると頭を抱えつつ、一時限目の数学の教科書に見入る振りをする。


「あれもしかして七瀬の彼女?」

「うそっ、あのチビメガネ上級生と付き合ってたんだ!」


周囲の男子連中からの舌打ちに身を竦ませながらも、教科書の文面を意味もなく追っている。そうして前の席から椅子の向きを変えた安田(男)に、珍しく声を掛けられる。


「おまえやるなぁ、上級生とか」

「………」

「ありゃメロメロだぞ」


ないない、それはない。

手を振って打ち消しつつ、ほんとうにやむにやまれず教科書を読み続ける。


…。

……。

………あれ?


なんか教科書の内容がえらく簡単なんだけど…。

解説に例題、当てはめるべき公式……ただつらつらと読み続けているだけなのに、どんどんと頭に吸い込まれるように情報が入ってくる。公式をこう使って欲しいという出題者の意図までが非常に分かりやすく入ってきて、さして困難もなくほとんど暗算で答えが導き出される。

そのあっけなさに慌てて最後のページにある答えを参照して、その答えが正しかったことを確認する。

いままでかなり相性が悪いと思っていた数学が、まるで小学校の足し算引き算レベルの難易度に感じられる。解けないほうがおかしかった。




その日、たまたま行われた数学の抜き打ちテスト。

自重することを思いつかなかった冬夜は、クラスで唯一の満点をたたき出してしまう。

ずれかけた眼鏡を指で押さえるチビメガネの、それが物陰から日の当たる場所へ思わず迷い出てしまった、まさしく中学デビューの日となったのだった。


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