019 退場した舞台裏にて
(…どうやら退けたようじゃの、巫女よ)
したり顔の妖狐がなれなれしく鼻面を近づけてくる。
その潤み切った吐息がふわりと当たったような気がして、冬夜は身の毛をよだたせた。
「…もう終わりました! だから、出て行って下さいッ!」
すっかりと彼の『魂の味』を堪能し、愉悦に表情を緩ませ切っている妖狐にかなりイラつく。最大速度で現場を離脱して、近くに捨て置いていた紙袋を素早く回収、そのあと学生服の上着で姿を隠しつつ最寄りの大きな物陰へと飛び込んだ冬夜は、いまお着換えの真っ最中である。
そこは人影などみじんもない、最前『龍』が絞め崩したバタ臭いお城の廃墟である。
むろん大惨事な状況であるので、黒いネズミや間抜けなアヒルもいない。人目がないので、冬夜も遠慮なく脱ぎ散らかしている。
(そのみょうちくりんな格好も、けっこう似合ってはおったのにのう)
「そんな評価はいりませんから、さっさと出て行ってください!」
冬夜の「出ていけ」は、むろん彼の魂の聖域に居坐る妖狐に、お引き取り願いたいという意である。それを前脚で耳のあたりを掻きながら華麗にスルーする妖狐。
「抜け毛とか汚いじゃないですかっ! ちょっ、聞いてます?!」
(いやじゃの)
「そんな聞こえない振りされても……って、…えっ?」
(もうこのままでいいじゃろ。わらわも長く祀られすぎて干乾びておったからのう。…少し浸かっておっただけで、見よ、この毛並みの艶を! しばらくはここでおぬしの生泉を堪能しておるゆえ、気にせずに…)
「気にしますッ! 嫌ですッ! きもいです!」
(き、きも…)
背中のジッパーを降ろすのに苦労しつつも、どうにかコス衣装を無事に脱ぎ終えた冬夜は、紙袋をあさりつつ言葉を重ねる。
直接手出しができない精神空間での会話であるので、第三者的にはひとりごとにしか見えない。
(きもいとか、ひどいではないか…)
「そんな気分なんか作られても絶対信じませんかんらね! いいから早く出てって下さい!」
(…ふ、ふん、出せるものなら出してみるがよかろう)
「ちょっ、居坐る気ですか」
片手間に手早く学生服姿に戻り、捨てようとさえ思っていたコス衣装を結局きれいに畳んで袋に仕舞ったあと、馴染んでしまって忘れかけていたピンクのウィッグをむしり取る。そうだ、目に入れられてしまったカラコンの処理もせねばならない。
コンタクトとか付けた経験がないものだから、自分で取れるかどうかはなはだ不安である。
ちょうど落ちていた、手ごろな大きさの鏡の破片を手にとって、カラコンの現状を確認する。よくよく目を凝らすと、たしかにそれっぽい異物が見える。
こういうのって、指とかつければ取れてくるのかな…。
ううっ、結構痛い…。
(わらわを取り込んでおった方が力を増せるのは分かったであろ。さきの竜神もどきのような強き者に抗うのであれば、このままでおったほうが何かと都合がよかろうて。…それにわらわの力におぬしの器が馴染めば、もっと力を振るいやすくなるかもしれんじゃろ)
「長時間このままでいるのは、結構リスクがありそうなんですけど」
(……そんなものはない)
「いまの微妙な間はなんですか! やっぱりなんかよからぬことを隠してるでしょ!」
あっ、カラコン取れた。
なかなか指に張り付いてこないので、目を上下しているうちにずれて浮いたところをつまんで外す。
…ふう、何とかこれで。
……。
………。
…………!?
「…目が赤いんですけど」
カラコンを外したというのに、そこには見覚えのない血のように赤い瞳が鏡を覗いていた。
「………」
(神を降ろすは大事、ならば多少《神》に引きずられるところもあろうて)
どうやら妖狐との合体で発生するデメリットであるらしい。いろいろといっぱいいっぱいになって、じわっと涙があふれてきた。
(ほう、目が赤く染まっておったか)
「感心してないで、早く出てってください~!」
結局、宿主の機嫌を損ねるとまずいと思ったのか、妖狐が自主的に退去してくれたおかげで事なきを得た。
しばらく涙が止まらなくてぐすぐすと鼻をすすっていると、妖狐が尻尾でぽふぽふと頭を撫でてきた。霊体なので、感触は冬夜の想像力が補完している。
(そんなに泣くな。目が戻ってよかったじゃろ)
合体を解くと、目の色は元の黒色に戻ってくれた。やはり他者と魂を融合するというのは危険な行為なのだろう。
よくよく考えれば、冬夜がカグファ王女に女に作り変えられたときだって、改造の理屈は根源である《存在核》の基底、発音が理解できない設計図的なものを書き換えたのだと言っていた。
その根源を書き換えるという行為は、イコールではないものの、魂の融合現象に基本近い。妖狐の魂を入れこんだことで、彼の肉体的外見が変化するのは当然のことであったのかもしれない。
その理屈の延長線で考察する。
妖狐との融合時間を長く持つことを考えると、比較質量の大きい妖狐の存在に彼自身が引っ張られる確率が高い、ということになる。つまりは、目が赤くなるという変化はあくまで前兆のひとつに過ぎず、時間経過とともに身体的変化が徐々にほかにも表れてくるという症状が出てくるのではという仮説が立てられる。
つまり、究極的にはある一線を越えると主客が転倒して、彼の姿は狐へと完全に変化してしまうのかもしれない。
『祝之器』なんてよくやってたな母さん。やらざるを得なかったからかもだけど、ちょっとリスキーすぎる。
できうるならば二度とはしたくない。するべきではないと思い決めて、手に持っていた鏡の破片を放り出した。
さて、もう完全に時間遅れなのだけれども、ヘラツィーダさんに合流しておこうか。コス衣装を仕舞った紙袋はここの廃墟に隠しておいて、回収は後でするとして。
頼りにならない部下の顔を見て怒り出すだろうヘラツィーダさんを想像して、つらつらと遅刻の言い訳を考え始める。ほんとは遅刻なんてしてないっていうのに、言い訳する羽目になるとは思いもしなかった。
本当なら『柊ノエル』の正体が自分であることをばらせば済む話なのだけれども、完全に誤解しているヘラツィーダさんといい、逃げる途中で聞こえてきたカグファ王女の食いつきっぷりといい、いまさら名乗り出るなんてことは恥ずかしすぎてちょっと無理である。ここまで来たらもう隠し通すしかないだろう。『柊ノエル』に関しては、残念ながら今日をもって永久にお役御免ということになりそうである。
(…別の場所の騒動に巻き込まれちゃいました、でいいかな。まあほんとのことではあるし。…いちおう努力してここまではたどり着いたけど、もうその時点でヘラツィーダさんの戦闘は片がついていたようだったんで……てな感じでどうかな)
(…巫女よ)
気を取られていて、気付くのがわずかに遅れる。
妖狐が廃墟の中に身を潜めるように姿を消し、かすかに声だけが届いてくる。
(えらい者らに囲まれたわ……気付かぬか)
いつの間にか巨大な《思惟力》を有する一団に、廃墟が取り囲まれていた。高位把握野で周辺を感得すると、相手は5人。
むろん相手も廃墟の中に冬夜が潜んでいるのは先刻承知のようだ。飛んできた『相対圧迫魔法』の大きさで相手の強大さを見てとって、隠れ続けることの不利益を悟る。
(ぼくの全力ぐらいじゃ手も足も出ない奴らだ)
そんな実力者がきっちりと集団戦をこなしているという事実から、その正体をおおよそ読んだ。
(下田のアドリアナ宗家……《掌珠》の騎士)
『龍』とやり合っている間も、上空の雲間に潜み、じっと観察している気配があるのは分かっていた。
むろん冬夜自身はれっきとした地球人である。無用な誤解を受ける前にと、彼は行動に出ていた。
「…あ、あの」
両手を上げて、廃墟の中から歩み出る。
彼の姿を見た瞬間に、騎士全員がコンマ数秒の遅れもなく臨戦態勢に入ったのが分かった。すごい緊張感が、空気をピリピリと震わせていた。
「ぼくが何か…」
「あっ、貴様はあのときの駄菓子屋!」
赤髪の褐色美女が、こっちを指さして声を上げた。
冬夜のほうにも見覚えがあったので、これ幸いとルプルン家の一員、カグファ王女の家臣であることをアピールしようと口を開きかけたのだけれども。
「子供がこのようなところで何をしておる! 怪物との戦いの邪魔じゃ! 下がらぬか!」
白髭の老騎士に一喝されて、冬夜はなぜか強制退場と相成ったのだった!