014 連戦⑤
まだ馴れることのない浮遊感。
《飛行魔法》によって転落死することはないと担保されていても、なかなかに本能的な危機感を忘れ去ることはできないらしい。ひやりとする風を感じながら空中を舞う間、世界との不思議な一体感を覚える。
人は本来、生活空間を平面的に捉えているものである。足で歩くことしかできないのだから当たり前なのだけれども、こうして自らの意思で空中までもおのが領域とした瞬間、彼の中の『認識』までもが変質を起こしたようだった。
冬夜の高位把握野は、おのれの行動規範の修正を瞬く間に行い、空中も行動可能と書き換える。それはこの巨大な化け物と闘ううえでも、彼により多くの選択肢を与えてくれることであろう。
すでに高度を消費しつつある冬夜は振り仰ぐように首都高の高架を見、身を乗り出した妖狐が彼の追撃に入ろうとしていることを確認する。あっ、躊躇なく飛んできたわ。
谷底のようになっている線路面までの高低はせいぜい20メートル程度であり、通常ならば滞空時間などあっという消費し尽くしたことであろう。地面が間近になって、高圧電力の走る架線に気付いて、少し慌てて方向調整アンド落下速度の加減を行う。架線を避けて線路に降り立った彼を見て、電車の運転手は相当に動揺したことだろう。叫び声は聞こえないものの、電車が火花を散らして緊急停止し始めている。
まあたぶん、このままだと確実に轢かれる距離感である。
が、作戦的にはそうであってもらわなければ困る。
冬夜は上を見上げて、いままさに飛び掛らんとしている妖狐の巨大な姿を待ち構えている。
《弾丸魔法》!
飛び降りながら練り上げてきた《思惟力》の塊を、妖狐の鼻先に盛大にかましてやる。相手のシールドを相殺しつつ、目潰しする。
そして当然ながら電車に衝突する前に盛大に架線に引っかかって、なかなかに強烈な電撃を食らう妖狐。一瞬にして四肢が硬直したので、確実に効いている。
そのままこぼれるように線路面に落ちてきて、そこでご丁寧に電車にまできっちり跳ね飛ばされた。
よっしゃ、大昔の化け狐か何かは知らないけれども、現代社会が往古といかに乖離した世界であるかを知るがいい。
跳ね飛ばされた妖狐は雑草のはびこる路肩にごろごろと転がって、ぐったりと動かなくなる。倒したのかそうでないのか、判断に困る。が、冬夜の意思決定に絶大な影響力を持つ高位把握野での考察検討会議が、即座に追撃の必要性を提議する。
(《シールド魔法》の光が弱い……確実に弱ってるけど、死んではいない)
いまのこの状態ならば、冬夜の《思惟力》で防御を抜くことは容易いだろう。生かしておいて後でまた新しい被害が広がっても困るので、駆除できるときに駆除しておくのが正しいだろう。
冬夜はそのときたまたま目に入った金属片を手に取り、妖狐へと近付いていく。おそらくはぶつかった電車の外装部品の一部なのだろう。ちょうど孫の手みたいな形をした板金に《思惟力》を込めていく。
ちらり、と妖狐がこちらを哀願するように見た気がしたが躊躇しない。無垢な乙女をべろべろと嘗め回した変質者に同情の余地などない。こいつは服までめくって嘗め回したのだ。
両手を使って、金属片を妖狐の首筋に突き入れる。
血などはむろん出なかったが、痛みに妖狐が跳ねた。
(小さすぎて『魔剣』みたいにはできないけど)
いったん構成物質外の金属体が埋め込まれてしまえば、そこだけはシールド層から露出し続ける弱点になる。
《ショックガン魔法》!!
手の先に《電磁力》を掻き集める。いまあれを狙って撃てば、こと《電気系魔法》に限っては百発百中するだろう。ただし相手の強大さを想定するならば、止めを刺すには相当な力が必要となる。
不穏な雰囲気をまとい始める冬夜の姿に、生命の危機を覚えたのだろう。妖狐ははびこる雑草を掻き分けながら線路上を逃走し始める。
その緩慢な、しかしあきらめることを知らないしぶとい生存本能に半ば感心しながら、冬夜は枕木を順に踏んでいくように追いかけていく。その線路を歩いていけばやがて東京有数の繁華街である池袋に出るだろう。
高い能力を存分に注ぎ込んだ《ショックガン魔法》は、ある一定値をまたぎ越えた瞬間に、あのとき見た球状の帯電現象が発生する。あれから多少は調べているので、それが『球電』と呼ばれる不思議自然現象なのは知っている。
徐々に回復しているのか、妖狐の逃げ足が速くなっていく。しかしその努力も、常人離れした冬夜の身体能力であっさりと無効化される。
時間を掛けてもっと《電磁力》を高めたいのだけど、このままではまた人の多い繁華街で騒動を起こしてしまいそうである。街区に差し掛かった踏み切り周辺には、この辺の待機中の学生らしき姿や、危機感に乏しいおっさんおばさんらがけっこううろうろしている。割合にひなびたこのあたりでそれなのだから、人を寄せ集める池袋には能天気なのが溢れかえっているかもしれない。
そろそろやるか。
冬夜の覚悟を感じ取ったのか、ついに妖狐が全力で逃げ出した。それを冬夜は追う。高層ビルが見えてきたあたりで、いよいよとどめを刺そうとした冬夜であったが…。
(ギャラリー多いよッ!)
妖狐と少年の戦いは、いつのまにか沿線の学生たちの目に止まり、追っかけ集団を形成していたりする。彼らもあるいは使命感に従ったことなのかもしれないのだけれども、いろいろと秘密にしたいことの多い冬夜には著しい束縛となった。
俯いて思案に費やしたのは、1秒にも満たなかったろう。
冬夜は俯いたままビン底メガネを外してポケットにしまい込んだ。体長10メートルもある巨大な化け狐を退治したのが『メガネ少年』という情報を無為に流布させるわけにはいかない。
ならばここはルプルン家の黒髪メイドが出ばったということにしておくのがよりベターであるだろう。格好が中学男子らしい学ランであるのが痛いところだが、存在感絶大なビン底メガネさんを目撃されるよりはましというものであった。
しかしここで冬夜が判断をミスったのは、首から上が絶世の美形であったとしても、服装補正で宝塚判定になってしまうことを見落としていたことだろう。
信じられないぐらいの『女顔』の美少年が、単騎この世のものと思えない化け物を追い回している。ギャラリー目線では明らかに美少年のほうが優勢、一方的に追い詰めているように見えていたことだろう。追っかけの学生たちも、期せず『お仲間』の英雄を発見した気分なのか、盛んに声援や黄色い声が降ってくる。
ここでひとつの都市伝説が爆誕することになるのだが、冬夜がそれを知ることになるのは後の話である。
いわく、『池袋のあの塔に住んでいる2世的な美少年ヒーロー』というやつだ。のちに一部の学生たちによって大捜索が行われるのだが、むろん発見されたりはしなかったみたいではある。
『変装』し終わった冬夜は、作り出した『球電』を妖狐に向けて放っていた。その稲妻をまとう『光る玉』が一撃で妖狐をしとめるさまを見たギャラリーたちが、その瞬間に爆発するように大歓声を上げた。その『光る玉』は、美少年ヒーローの必殺技、『ブクロジャッジメント』と名づけられ口伝に拡散することとなる。もはや公開処刑であった。
跳ねたと思った次の瞬間には、白く煙を吐きながら燃え始める妖狐の身体。まわりの歓声に一瞬気をとられた冬夜であったが、そのとき妖狐の身体から何かがするりと抜け出ようとしているのを見咎めて、《思惟力》の手でそれをしっかりと捕まえる。
それが妖狐の本来の身体、《存在核》が形成する巨大な霊的存在であった。捕まえられた妖狐はしばらくじたばたともがいた後、冬夜の揺るぎない拘束力の強さに観念したようにぐったりとなった。
捕まえた当人のほうも、その後のことをまったく考えていない。とりあえず手でこねるようにぎゅっと圧縮してみると、なぜかそのまま冬夜の中へと吸収されてしまった。
彼の内部にある精神空間、少し前に《泡卵》によって侵されていたうろの中に、『妖狐』であった存在が閉じ込められた。《泡卵》の時と違って彼の拘束下に置かれているため、身体の制御を乗っ取られるということはなかった。
『わらわを身中に降ろすか』
問われるままに、冬夜は返す。
おそらくはこれが逢世家の女子に伝えられている『降神術』の本来のあり方なのだろうと察する。魂の座所近くに取り込むのだから、むろん霊存在は甘露な術者の《思惟力》放射を舐め取る真似をする。
聖域を侵されつつも、甘露である《思惟力》を与える代わりに霊存在から協力を勝ち取る。『降神術』のビジネスライクなギブアンドテイクがここにあった。
「おまえを放つと、また悪さするから」
『…わらわは、囚われたということか』
「具体的にどうするかは、後で考える。いまはそこでおとなしくしててください」
『ここまできつい呪縛をする術者は初めてじゃ。身動きひとつ取れぬ。少しは緩めよ』
「いまはダメ」
冬夜はすでに燃える妖狐の亡骸を置いて、歩き始めている。
うまいこと皆から引き離されて、自由行動の余地が生まれているのだ。ならばわれらが主のご要望どおりに、ヘラツィーダさんの救援に向うべきなのだろう。
メガネに伸びかけた手を止める。
注目を集めているいまそのメガネをかけるわけにはいかない。そしてメガネを取っただけでは、学ランが邪魔をしてルプルン家の黒髪メイドといい逃れるにも弱そうである。
立ち止まったりすると、まわりの変なやつらに取り囲まれそうだ。
飛行魔法を使えば目的地まであっという間に着きそうなのだけれども、その魔法を使う前にせめて身バレしない完全な変装をしたい。
このままいけば池袋だ、そこで服を調達しよう。
冬夜は走り始めた。
その人間離れした脚力に、また追っかけたちがどよめいたのだった。