012 連戦③
ビリヤードで、玉の縁を突くようにすると、はじき出された玉にはバックスピンがかかる。猫が玩具の玉を玩弄するときのように、冬夜という『玉』が弾き飛ばされたのを見て、妖狐の中の本能にスイッチが入ったのだろう。ほとんど狩猟本能に近い反射的な動きで、実体かどうか定かでないその巨体が弾むように追いかけてくる。
めまぐるしく天地が撹拌されて、路上へと投げ出された冬夜は完全にそのとき意識が飛ばされていた。まるでトラックにでも跳ね飛ばされたように転がってきた彼を見て、居合わせた見も知らぬ少女たちが悲鳴を上げた。
むろん彼を守るシールドなど見えていない彼女たちには、車の衝突試験に使われるマネキンが無残に破壊されていく光景を見るに等しかったろう。そのあとを追って顕れた巨大な白狐に、ほとんど条件反射のように警官たちが手にした拳銃を発砲した。
『人相手の武器なぞわらわには効かぬぞ!』
人語で吠えた妖狐に、非力な人類たちが腰砕けに逃げ始める。
道路の反対側の壁に叩きつけられ、そこで生まれた若干の痛覚が冬夜の意識を引き戻す。本人的に痛みはそれほどではなかったのだけれども、第三者的にはどうやら致命的なシーンに映ったようだった。
「七瀬くんッ」
「メガネッ!!」
何度か跳ねて転がって、仰向けになってようやく止まることを得た冬夜は、ゆっくりとおのれを見下ろすように顔を近づけてくる妖狐の赤い眼をぼんやりと眺め上げていた。
勝利を確信してか、その裂けたように大きい獣の口元が笑むように引き歪む。
『…術士よ。気まぐれな神がわらわに本来の力を戻したもうたのを知らなかったが不運と知れ。もはや二度と調伏などされてやるものか』
その口もとから涎が滴る。
妖狐が彼を喰らおうとしているのを悟る。
どう考えても絶体絶命の危機である。しかも身体が思うように動かない。おのれの全身に《思惟力》の手を伸ばして精査して、あっさりと原因を断定する。
(…ぼくの魂が……はがれかかっている)
おのれの肉体を掌握するための、意識の線のようなものが先の《泡卵》との支配権争奪戦によってずたずたになっていたのだ。その支配感覚の遠さが、おなかの鈍痛に関わっていることも察してしまう。
迫ってきた妖狐の鼻面が、すんすんと匂いを嗅いだのも束の間。
彼はがぶりと噛まれて、持ち上げられた。
『美味そうな匂いのする人間じゃ。その魂。ぺろりと喰ろうてやろう』
鋭い牙は、直接肉体には届いていない。
しかし彼の身を守っている《シールド》をじゅくじゅくと侵食しようとしているのが分かる。350もの《思惟力》に噛まれているのだ、このままではいずれリアルに血肉をむさぼられることになりそうである。
妖狐のざらざらした舌が服ごしに舐めてくる。彼から漏れてくる《思惟力》が、相当な甘露であるのかもしれない。
『…ちぃッ』
不意に、妖狐が首をそむけた。
力なく見下ろす冬夜の視界に、テイザーガンを構えた生徒会長の姿があった。
「撃てッ」
冬夜たちを追ってきた組と現地組が合流したのか、人数を交えて増えた警察重武装チームが妖狐に銃撃を開始した。あの不完全なゼリーレベルのクリーチャーにすら決定力を欠いていた彼らに、勝算など皆無だろう。しかしいまここで立ち向かえるのはおのれたちだけなのだというその使命感だけはひしひしと伝わってくる。
(…完全に効いてないってわけじゃないのか)
妖狐と直接に接触しているためか、その内部で起こっているさまざまな変化……全身に行き渡っている膨大な《思惟力》の運用状況などが間接的に知覚される。
命中弾があるたびに、それを処理するために若干の《思惟力》が消費されている。その減少分はささやかなのだが、連続して与えられることによって確実に《思惟力》のリソースを削り続けている。
妖狐は忌々しそうに人間たちを見下ろし、そしてややして少し驚いたように足元に目を向けた。木嶋エミリともう一人の学生が《魔剣》で斬りつけたらしい。
『半人前の小童が、うっとうしい!』
何本もある尻尾で彼らを払いのけ、周囲をうかがうように首を伸ばした。
移動しようとしているのだと分かった。せわしなくざらざらした舌が彼を舐ってくる。人を飴みたいに舐め回しやがって。
冬夜は口内に収まっている左手を差し伸ばして、良く動く舌をとどめようとした。が、巨大な筋肉の塊である舌の圧力にはまったく抗せなかった。その非力さが返って妖狐の琴線に触れたようで、鼻息で笑われた。
動き出した妖狐は、まさに風のようだった。
身をもたげたと思った刹那、ひとっ飛びで住宅三棟ほどをまたぎ越え、駅前に出る。そうして悲鳴を上げて逃げ惑う人間たちを幾人か踏み潰しながら小山になっている公園へと駆け上がる。桜で有名な飛鳥山公園だ。
そうして遠目にわらわらと集まってくる人間たちを認めて、妖狐はさらに動き出した。その巨体が走りやすいと判断したのはむろん道幅の拾い大通りである。
べろべろ舐め回されてすっかり涎まみれになった冬夜は、その不快感から自由な右手でこぶしを握って鼻面を叩いたが、やっぱり鼻息で笑われた。いよいよシールドが劣化して、妖狐の舌が戯れるように冬夜の服をまくって中へと押し入ってくる。
『くっく、女子であったか! 道理で!』
明治通りを駆け上がり、そのうちにせり上がってくる首都高へと気侭に乗り移る。この妖狐、雌だと思っていたのだけれどももしかして雄なのか。そんな思い付きに身の毛がよだってくる。
わらわとか言ってたんなら雌だよね? 最悪雌であってほしいとか思う。
移動があまりにも速く、周囲はすっかり人気の少ない市街地となっていた。人目がなくなったことで冬夜はおのれを縛っていた箍を外す決意をする。
はがれかかって危ういおのれの魂を安定させるために、意識の熱を全身へと広げていく。そうして全身に《思惟力》を充足させて、一気にシールド魔法の強化に取り掛かる。まずは舌ベロ攻撃から身の純潔を守るのが先決であった。
『むうっ』
「いいかげん…にしてください」
シールドの圧力が高まるほどに。妖狐のあぎとがこじ開けられていく。
『驚いたぞ。…まだ秘めたる力があったか』
「人を飴みたいにぺろぺろぺろぺろ…」
『その力、すべてわらわが舐りつくしてやろうぞ!』
「…んなこと、させない」
全力でシールドを強化するのだけれども、相手が本気で力を込めてくれば、350対140では対抗するのは難しい。その差はさっきの子狐と冬夜のそれと近い。
冬夜の高位把握野は打開策を突き詰め続ける。
いろいろと検討するも、まともに力を押し返すのは難しい。かといってまともじゃないやり方なんて、この状況では……自由な右手と両足は宙ぶらりんなだけで、相手の鼻面にぎりぎり届く程度の右手で《ショックガン魔法》撃つにしても、単純に考えて相手と同体であるいまは自爆しそうである。
くわえ込まれた左手は、相手の体内にいるのだからいろいろとやりようがある気がするのだけれども、少し動かしただけでぺろぺろと舌を絡み付けられてしまう。袖がまくれ上がって肌が露出しているので、おいしいらしい。
舌という組織は、筋肉の塊だけあって意外に丈夫である。上顎も特に取っ掛かりを見出せないし、せめてのどちんこにでも掴み掛かれればなんとか…。
(…いや、何とかできるか)
手で直接触れなくても、彼には魔法という遠くまで届くもうひとつの『手』があった。
(《重力子》魔法…)
旧文明時代、人類にはサイコキネシスとよばれる微細な『超能力』が確認されていた。
それは現代では、《重力子》魔法の作用が誤認されてのものであったと結論が与えられている。
物を動かす。
それは静止状態のものに対して、なぞの移動エネルギーを与える作用であるといえる。《重力子》のベクトル操作によって、たしかに同様の効果を得ることができる。
念動!!
誰だって体験したことがあるだろう。
喉の奥に指を突っ込むと、おえっとなるアレだ。
冬夜は空間に偏在する《重力子》の小さな光を認め、おのれの支配下においていく。そして準備が整ったと確信を得た瞬間に、妖狐の喉に向かって《重力子》魔法を放っていた。
イメージ上ののどちんこを、サンドバックに見立てた渾身の一撃だ。自分にやられたら泣く自信がある強烈な一撃だった。