005 誰?
「…今日は病院に寄ってかないんだ」
「…うん」
実技指導中に倒れて、結局下校時間まで保健室で過ごす羽目になった冬夜を、砂姫姉は何も言わずに待っていてくれた。
今にも死にそうなほどに顔色の悪い幼馴染の心中に、彼女なりに察することがあるようだ。事情は聞いてこない。姉が弟を励ますように、ただ横にいてくれている。
二人が並んで立つそばで、高校生ぐらいの女の子の集団が、
「なんか臭わない?」
と小声で囁いているのを耳にして、冬夜が身を竦ませる。
顔も洗ったし汚れた体操着もできるだけ水洗いしてきたとしても、吐瀉物の臭いは完全には落とせない。むろんそんなことは隣の砂姫姉も分かっているに違いない。
「どんなとこにも嫌な奴っているのよ」
「………」
「あたしもまあ人のこと言えた義理じゃないし、抵抗するのか諦めるのかは自分なりに決めればいいと思う。世の中、ほんとクソみたいな奴が多いから」
「……うん」
「あとで上用饅頭持ってってあげる。好きだったよね」
「…ありがと」
「古くて売り物になんないのが食べ切れなくて」
「………」
冬夜は、文庫本に目を落としている砂姫姉の横顔を見上げた。
ぽっちゃり系の何が悪いと自虐するその柔らかそうな口元が少し笑っていた。
歳の差はたった1歳なのに、身長もそうだが精神もずいぶんとかけ離れた大人のようで、冬夜はおのれのみすぼらしさにため息をつくしかなかった。
そうして帰宅した冬夜であったのだが。
シャッターの横にあるドアの鍵を開けて、ようやくひとりになれるプライベート空間に入った安心からしゃがみ込んだ彼は、期せずしてそこに違和感のあるものを発見する。
「…あれ?」
見慣れない靴がある。
それも二足。
大人用のブーツと、子供用のサンダルである。しかも違和感のおおよそは余分な靴があることで生まれているわけではなかった。
なんだこの見たことない素材と形状の靴は。真珠色というか銀色というか、ともかくわずかに透明感のある金属的な材質がともかく違和感をむんむんと放っていた。
冬夜の心臓はもう暴れ馬のようにバクバクと跳ね回っている。自分だけの聖域であったはずの我が家が、得体の知れない何者かに侵されている。
そっと顔を上げ、廊下の奥を見た。突き当りには薄暗いキッチンが見え、そこに人影はない。土間のところから繋がっている駄菓子屋の店舗部分を覗き込む。長いこと営業していない駄菓子屋店内は暗いままだが、その奥にある祖母が待機場所としていた居間に明かりが着いている。そこに明らかな人の気配。
大胆にも侵入者たちは居間で明かりをつけて、しかもテレビまで観賞中のようだ。
と、そこで更なる違和感が襲う。
「…えっ、テレビ?」
《グレートリセット》後のこの世界に、いまだテレビ放送は復活してはいない。一部の研究所でブラウン管テレビが息を吹き返し始めているという噂は耳にするものの、かつての高度化してしまった液晶テレビは内臓の画像処理基盤が微細制御すぎて《電気系魔法》の熟練者でも使用できるには至っていない。
すりガラス越しに見える明るい輝きは、しかしテレビ以外に考えられなかった。
靴を脱いで接近することをためらった冬夜は、廊下ではなくそっと店内を通り抜ける形で居間に近づいた。そしてその隙間から中を覗き込んだ彼であったが…。
「おまえかーッ!!」
「キャインッッ」
家主がずばんと戸を開け放ったその向うには。
アンノウン幼女が胡座をかいてゲームをしてやがりました。
「…たくさ、なんで家に帰んなかったの」
「そこはのう、いろいろと女には秘密があっての……ほいっ」
「…女、ねえ」
丈の短いワンピースふうの服を着ている幼女は、豪快に胡座をかいているために常時パンモロである。羞恥心が働かない時点でバリバリの子供といって過言ではない。
「…ところでなんでテレビ映ってんの? しかもゲーム機まで動いてるし」
「それは……わらわが動かしておるのだから当然じゃろう」
「ふうん、って、うわっ、体当たりずっけえ!」
「車輪を介した乗り物など時代遅れもはなはだしいが……ほれっ、虚像のなかでは壊れんし、何度だった体当たりじゃ」
「…くそっ、そっちがその気なら、こっちも本気を出させてもらおうか!」
なぜかテレビとゲーム機が稼動している不可思議を脇に置いて、なしくずしにゲーム大会となった二人であったが。
やっているのは懐かしいカーレースゲーム。
数年ぶりのゲームに感動するあまり、今日あった憂いなど完全に頭から消えた冬夜は幼女とともに夢中になってゲーム機にかじりつく。昔このゲームをやりこんでいた冬夜がコツを取り戻していくうちに、両者の勝敗数は圧倒的に傾いていくことになる。
「まてまて、なにゆえこんなにも差ができてしまうのじゃ! わらわにミスはひとつとてないぞ!」
「縁石キックと微ショートカットのタイム短縮効率の見極めがものを言うのさ。まあこのぼくにこのゲームで勝てると思うほうが身の程知らずというものだけど」
「もう一戦じゃ! もう一戦!」
「…じゃあ後一回だけね。晩御飯の用意しなくちゃだし」
「今度こそわらわが勝つのじゃ」
「……ッ」
「ンムムムムッ」
「ほらカーブでスピード出しすぎ。…あっさりパスと」
「なんでなんでなんで!」
「コーナーでそんなはみ出してたら遅くなるに決まってんじゃん。…んじゃ、おっ先に~」
「ムッキィィッ! ずるじゃ! インチキじゃ!」
「うわっ、リセットするか普通! おいそんなバタバタすんなよ! ゲームが壊れ…」
「もう一戦じゃぁぁ!!」
「…分かったよ」
そうして冬夜は幼女のご要望どおりに最終戦で手を抜きまくり、接戦の末僅差の敗北を演出して見せる。
そのあからさまに『譲られた勝利』に、ぽかんとして固まっている幼女。
「これでもう満足したろ。これでゲームはおしまい」
「………」
「…なんでまだうちにいるのかもう聞かないけど、晩御飯食べたらお家の人に迎えに来てもらうんだよ」
「……きん」
「…?」
「納得できん」
操作パッドを握り締めながら、ぷるぷると震えている幼女。
構わず立ち上がって戦線離脱しようとした冬夜を見て、ついに盛大に癇癪を破裂させた。
よく分からないアンノウン幼女であるのだけれども、こういった癇癪は歳相応ということであったのだろう。手足をバタバタとさせて、全身で悔しさを表現してくる。そのうちに興が乗ってきたのか、大泣きまで始める始末…。
うわこれは隣にまで聞こえてるかもと慌て出した冬夜が、アンノウン幼女にご機嫌取りを始めようとしたまさにそのときであった。
「姫殿下ッッ!!」
ばばっと廊下から飛び出してきた白い影。
蜂蜜色の長い金髪を振り乱して冬夜と幼女の間に割って入った鎧姿の女性。その人間離れした美女騎士が剣を抜き放ったスピードはほとんど瞬きするぐらいの一瞬だった。
迫ってくる銀色の閃光。
それをただ呆然と眺めているだけの冬夜。
そしてそこでまた予想外の奇跡が起こるはずもなく、その美女騎士の剣閃は冬夜の自我を文字通りこの世から消し飛ばしたのであった。
一瞬の灼熱のあと、七瀬冬夜という14歳の少年は、あっけなくその生涯を閉じた。
***
「…ひらに。ひらにご容赦を」
ザ・土下座。
まさにテンプレ、絵に描いたような土下座がそこにあった。
終わりの瞬間と同じように、目覚めもまた唐突なものであった。
木板の天井と見下ろすふたりの美女……そこでうわっと弾かれたように起き上がった冬夜に、銀髪の幼女は得意げに破顔し、美女騎士は額を打ち付ける勢いで土下座を敢行。
現在、居住まいを正して正座している冬夜の前に、畳に頭をこすり付けている美女騎士の後頭部がある。
謝られるそもそもの理由が思い当たらない冬夜に、美女騎士の後ろでむすくれて腕組みしているアンノウン幼女が端的な事実を告げる。
「わが臣下が無礼を働いた。おぬしはいったん死んだが、わらわが生き返らせた」
「………」
「わらわからこの者には厳しく叱り付けておいたゆえ、どうか怒りを納めてはもらえぬだろうか」
言っている意味が分からずに首をかしげている冬夜に、さもあらんと幼女が頷いてみせる。
手に握っていた孫の手で土下座する美女騎士の後頭部をずびしっと叩いて、「姿見を持ってまいれ」とあたかも権威ある主人のように命じた。
飛び上がるように起き出した美女騎士は、そのまま廊下へと飛び出し、バタバタと駆け去ることしばし。1分もせぬうちに見覚えのない大きな姿見の鏡を運び入れてきた。
アンノウン幼女はほけっとする冬夜を見て、促すように頷いた。
そして冬夜はその姿見に映るおのれの姿を目にした瞬間、液体窒素に放り込まれた金魚のように瞬間的に硬直した。
「…だれ?」
そこでアンノウン幼女がわが意を得たりと破願する。
「詫びにおぬしをわがお伽衆に加えることにした。お伽衆にするからには、それ相応の必要も生じようからな、おまけでそれなりの見てくれにしておいたぞ、喜べ」
鏡の中には、見慣れない他人の顔が映っていた。