007 泡卵②
ああ、これはダメなパターンだ。
思っても、もう遅い。
意識の寸断は、おそらく束の間のことだっただろう。
あの巨大に見えた薄闇色の卵が、ほとんどその過程を見せもせずに瞬時に自分の中に押し入ってきた。まさにそれは、他者に魂の座を穢されるような……精神的なレイプ行為に近い。おのれの中に入り込み、はちきれそうなほどに膨張して暴れまわる未知のなにか。おのれがただ外皮の薄皮のみの風船にでもなったような虚ろな感覚。
(魂が……喰われる)
恐るべき危機感が、魂を総毛立たせる。
そのとき初めて感じた、おのれのなかにある確固とした魂の所在。それは感覚器官として性能が突出している高位把握野の創り出すバーチャルリアリティ、擬似的な錯誤であったのかもしれない。
しかし冬夜はその感覚を信じた。
こうして異物が侵入し、意識のなかの空虚を余すところなく埋め尽くしたからこそ確信できた、差分でそうだと証明さえできる紛れもない『魂の絶対総質量』。
(初めて見た……これがぼくの魂か)
それを意識したからこそか、魂と思われるものが形状を変化させた。無意識に最も抗圧力に優れていると思っている、真球状になる。
おのれの魂を締め上げ、そこから染み出してくる甘露をむさぼっていた侵入者が、彼の抵抗にはっきりと怒気を発した。幼い子供がおやつを取り上げられたときに見せるような、直情的な癇癪だ。
チクチクと全身に針を刺されるような、恐ろしく不快な痛覚。一度刺されたことのある毛虫の毒針のような痛さ。侵入者は宿主である彼を弱らそうと、全力で攻撃しているのだと分かった。
餌と、捕食者。
明確な両者の立場。
勝敗の一線はとっくにまたぎ越えていただろう。もう彼はその根源である魂にまで食らいつかれ、むさぼられつつある。
絶体絶命。そんな表現が当たっている。
(それなのに……なんでぼくはこんなにも状況を受け入れてしまっているのかな?)
《泡卵》
その明確な『捕食者』に目を付けられた瞬間には、こうなることを本能的に理解していたというのに。彼はその瞬間に、不思議にも諦観してしまったのだ。
なぜに?
暢気に考え込む。
そして思い出す。
(ああそうか……見慣れていたのか)
幼い頃から目撃していた、怖い母親の姿。
屋敷の奥の、寒々しい板張りの暗がりの中で、得体の知れない《神》をその身に降ろしていた母親が、事が始まる直前に見せていた諦めともつかぬ疲れ果てた目。母はそのとき、彼には分からない何かを確実に見、そして介添えの父にたしなめられるまでぶつぶつと愚痴をこぼし続けていた。
『祝之器』
村人たちから、母はそう呼ばれていた。
村の祭主であり続けた逢世家の血は、強い霊媒質をもって顕れる。特に直系の女子にはその質が強く顕れる。
いまはその『女子』になってしまっているおのれの数奇な人生。
何度も何度も、来客に請われるたびに、《神》を降ろしていた母が、子供にすらくどいと思われるほどに愚痴ばかりであったのは、この精神的なレイプを繰り返させられていたからなのだといまになって理解する。
泡卵に吸い付かれるとじわりと脱力感が増してくる。命の素を吸い出されているのだと思う。欠片でも吸わせてはダメだと断定する。
まずはまとわりつかせないようにする。
そう思い決めて、それを実現させるためには何をしたらいいのかを考える。そしてすぐに該当の知識を思い出し、すぐさまに発動する。
(主観魔法……シールド!)
肉体への支配権を喪失したいまの彼にとって、魂は最後にしてわずかに残された自我の領土であった。シールド魔法はすぐにその効果を発揮して、密着していた何かを引き剥がして薄膜のように彼を守った。
が、主観魔法は純粋な《思惟力》によって成り立っているために、同じく《思惟力》そのものに近い組成らしい《泡卵》とは相性が最悪に悪かった。
生成するそばから侵食されていく。
なるほど、代々の『祝之器』が短命であった理由はこれか。防ごうにも防げない魂の浸食。
しかし彼はそれだけで思考停止には陥らなかった。歴代の『器』が経験則に基づいて積み重ねた『降神術』……家伝のノウハウを伝授されたわけではない彼にも、いまは精神世界へのアプローチ技術が備わっている。
魂の中心にあると分かる《存在核力》……そこから引き出されてくる《思惟力》を、見えざる第3の手として《泡卵》に突き伸ばす。
逆浸食。
スカ〇ター魔法の要領である。《思惟力》を限界まで凝縮して、《泡卵》に占められた領域へと打ち出した。
《泡卵》はまだ現界の確固たる存在として生れ出てはいない。その内包形質のほとんどはまさに卵……未分化前の栄養の塊……今はまだ可能性として存在するばかりの《思惟力》の原質、卵の黄身のようなものである。
この場合、成長のきっかけとなるはずの彼の魂は、まさに受精に際する精子のようなものなのだろう。比較すれば隔絶した差があるはずの両者の《思惟力》が、拮抗したのちに冬夜有利となる。打ち出した《思惟力》の減衰を、おのが身体内であるがゆえに継続して供給し補い得たからだ。
《泡卵》は本能で察したのだろう。
取り込んで生まれるつもりが、突然主客が入れ替わった、と。
(こいつの《存在核》を破壊する)
冬夜の《思惟力》が《泡卵》の内部を深々と突き刺し、貫いていく。抵抗するようにうごめく原質を掻き分けながら、これでもかこれでもかと目いっぱいに《手》をこじ入れる。
冬夜は相手の《存在核力》に反撃を試みているつもりであった。しかし《泡卵》の抵抗は、突然にぱったりと、薄いなにかの殻を突き破った瞬間に凪いだように鎮まっていた。
結果として《泡卵》の成長キーに能動も受動も関係はなかったのだろう。
《泡卵》はまだこの時点では、母親が降ろしていた在地の《神》、形質の確定した精神生命体などとは本質的に異なった存在……不完全な『可能性の塊』でしかなかったのだ。
冬夜の抗う意志が、そのまま《泡卵》の内部深く、突き入れられ転写されていく。
そして次の瞬間。
《泡卵》の内部で、爆発的な分化連鎖が始まった。受精した胚が細胞分裂していく様に似ていた。
《泡卵》の存在が変質していくにしたがって、その質量が圧縮され、小さくなっていく。精神内の内圧が下がって高位把握野の支配権が戻ってくるにしたがって、少しずつ余裕が生まれてくる。
冬夜はその余力までも、生れ出ようとしている得体の知れぬ存在への攻撃に順次投入していった。彼の《思惟力》の《手》は、《泡卵》の《存在核》にまでついには到達し、いよいよ渾身の力を込めてその破壊に傾注した。
彼の魂の座を侵していた異物感が、霧散した。
(勝った…)
精神の内圧が一気に低下する。
予期せず起こってしまった《神降ろし》を自力で乗り越えた……《存在核》を砕いた感覚はなかったので、相手が逃げ出したのだろうと単純に思ってほっと息をつく。《降神術》は逢世家の霊媒質な女子が幼いころから少しずつ教わっていくものであり、後継ぎの冬夜が男子でありその質にも恵まれていなかったことから、どこかから養子を迎えるみたいな話もあって、特に技術的なことはひとつも伝授されてもいなかったのだ。
まあともかく、自分で言うのもなんだけど無事で何よりでした。
このまま寝転がっていたい気は満々なのだけれども、《特別実習》の途中なのだからそうも言ってはいられないだろう。
気合を入れて、力の抜けていた四肢に意志の熱を通す。
(《神》を払った後の手順は、この後どうするんだっけか…)
母は降ろした《神》を払い終えると、気息を整えつつ沐浴をしていたっけなあ。缶ビールとかも飲んでたけど。
ビールはともかく、自分もそれに倣っておいたほうがいいのかもしれない。理屈は分からないけれども、やっておいて損なことなどないだろう。
つらつらと、そんなことを思い浮かべながら、意識が浮上していくのを感じる。
沐浴とかどこでしたらいいんだろうか。近くに銭湯とかがあったらいいな…。
「七瀬くん!」
呼びかける声が聞こえた。
冬夜はむずがるように身じろぎした。
「目を覚ましなさい! チビメガネッ」
ほかにも呼ぶ声が聞こえた。
でこっばち隊長が、なんだか余裕のない様子で叫んでいる。目を開けようとしているのになかなか瞼が上がらない。
「あたしの単位のために起きろぉぉ!」
やめて頭突き止めて!。




