006 泡卵①
『泡卵』の到達時間は、正確に伝えられていた。
宇宙の彼方から飛来する……卑近な視野しか持たない地球人にはただ『空から降ってくる』ものとしか認識しようもないそれは……薄膜の中に闇を包んだようなおぼろげな何かであった。
冬夜はそれを、肉眼ではなく高位把握野に投影されたおぼろげな陰影として、かろうじてとらえることに成功した。
(…あれは……なんだ)
大気圏に突入した隕石のように、精霊子の火花を散らしながら落下していくその得体の知れないものは、残念ながらただの肉眼しか持たない一般人にはまったく見えていないようだった。
正午を目前にした、日本時間11時48分。
それを最初に発見した冬夜から遅れること数秒、髪の毛の先をいじっていた木嶋エミリが眼を見開いて折りたたみ椅子から立ち上がった。
「きたきたきたきた……きっとあれのことでしょ!?」
指差した空の一点に居合わせた者たちが視線を集めた。
そして由解明日奈が少し目を凝らすようにしてから「ああっ」と短い悲鳴を上げた。特選部隊のほかの面々は、視覚ではとらえられないもののなにものかの気配を確実にとらえて顔を強張らせている。
まわりの大人たちは木嶋エミリの反応をみて慌て出すものの、何も見えていないものだから無駄にうろたえるばかりである。
(直径は……30メートルくらい? 雲が少し触ったな……薄いけど質量があるっぽい……かなり近いぞ)
出現位置と、それ以後の軌跡を脳内で素早く想定して、ここから1キロほど離れた市街地に落下すると踏んだ。
彼と同じように『泡卵』を目で追っていた木嶋エミリは、「出るわよっ!」と部下たちを叱咤して待機していた小型のマイクロバスに飛び込んだ。今日は全国的に交通規制が敷かれているので、鈍足の車でももしかしたら追いつけるかもという距離であるのは間違いなかった。
これは地獄の訓練の賜物であったのか、特選部隊の面々はほとんど条件反射のように隊長の指示に従った。啞然としたままの運転手の背もたれを乱暴に蹴りつけて、木嶋エミリは車を出せと叫んだ。
呆然とこっちを見送っている市長さんらお偉方と、ワンテンポ送れて出発準備を始める警察署の重武装チーム。窓に金網を張ったねずみ色の護送車が急発進であとを追ってくる。
市役所の駐車場を飛び出すと、ディーゼルエンジン搭載の骨董品のようなマイクロバスは猛然と市街の中心部に向って走り出した。年寄りしか運転できないといわれるミッション車は手元操作が忙しい。幼稚園の送迎バスを運転しているという初老の運転手さんは、骨ばった手で掴むシフトレバーを残像を残すような速さで動かしている。
冬夜を含めたこの地域の人間で、『泡卵』が実際に降ってくる確率がどれだけ低いものか……総数の8割を成層圏でアドリアナ家の騎士たちが間引きしていたのでなおさら少ないなかで……数千はあるだろう自治体の中でこの街が『当たり』を引いたことの偶然性に疑問を感じている者はいなかった。各自治体に漏れなく1個ぐらいは落ちてくるものだと全員が信じ込んでいたので、運が悪いと悪態をつく者もない。
まだどこからも発炎筒の煙は上がっていない。
素養の低い一般生徒には、あの『泡卵』はまったく見えていないのだろう。
運転手の後ろの席で、窓から頭を出して空を見上げている木嶋エミリが、『泡卵』の散らす精霊子の輝きを追いながら行き先を指示している。冬夜の前席の由解明日奈も、確実に「見えている」様子で上空の姿なき流星を追っている。
(…もしかして会長は……高位把握野があるのかな)
冬夜は《霊波錯視症》というものを知らない。高位把握野の過負荷が、未発達の脳神経にダメージを与えるがために、人類にとってそれが疾患扱いされているということも知らない。
ゆえに由解明日奈が軽い頭痛に襲われているなどとは露ほどにも想像しない。
「止まってッ!!」
木嶋エミリの叫びに、運転手さんが急ブレーキを掛けた。
慣性によって同乗者全員が大きくよろけて、いまいましげな舌打ちがまわりで量産される。そうして皆が窓にへばりつく。
「落ちるわ」
その得体の知れない物体に、どれだけの重さがあるのかは分からない。
普通の流星、隕石の類であれば、その落下は綺麗な落下曲線を描いて地表へと吸い寄せられていったであろう。
だが前方の上空を飛んでいく不可解なものは、単純な軌跡を描かず、やや減速しつつふらふらと揺れている。薄膜に包まれた闇色の卵は、アメーバのようにその表面を蠕動させているのが見える。
冬夜はじっと、その『泡卵』を見ていた。
近づくほどに正確に分かってきたことがあった。
(『あれ』は単純に引力に引かれているわけじゃない…)
まるで地球という星に吸い寄せられてきた宇宙アメーバが、地表近くになって行き足にブレーキをかけた……そのような『意志性』を感じ取っていた。
鳥の卵が受精せねば生き物として成長を始められないように、『泡卵』は受肉のきっかけを与えられる存在と出会わなければ、ただの不可解なエネルギーの塊にしか過ぎない。冬夜の高位把握野は思考を積み重ねていく。
そうせねばならないと本能に突き動かされるように、『泡卵』は地表の存在を探っている。何を探しているのかは明らかで、受肉のための受け皿となる生き物に他ならなかった。
(本能のままに、有利な相手を探しているのか…)
しかし完全に生物的な自我はないようで、対象を見つけられないままに緩やかに惑星引力に引かれ、高度を失っていった結果、街の大通りが二股に分かれる角地に立っていた十数階建ての高層ビルにぶつかった。
そこでまた盛大に精霊子の火花をまき散らし、ずるりと垂れ落ちるように通りへと落ちてくる。あのビルにはお好みの対象がいなかったようだ。
そうして粘質な泡のようにぴちゃり、べちゃりと両側の建物に反射しつつ、成行き的にこちらへと転がり寄ってきた。近くで見ると相当に大きい。大通りがほとんどその大きさによって埋められてしまった。それが間近に迫ってくるのだ、マイクロバスから降りていた特選部隊の面々も明らかに及び腰になっている。
「ここに出るんですか!」
「なにもないんですけど!」
ビルの物陰からこちらをうかがっていた、近隣の学校の生徒なのだろう、発煙筒を握りしめた高校生ぐらいのグループが声を上げてくる。それに目を向けることもなく、木嶋エミリが「危ないから下がって!」と叫び返した。
『泡卵』の内部に見える薄い暗がりは、なにでできているんだろう。暗黒物質? それとも反物質的な何か? 不可視の次元に巣食う神々の一部? あれを包んでいる胎嚢みたいなものは何?
次々にあふれてくる好奇心に冬夜は興奮を抑えきれない。あのやわらかそうな見かけだ、いまならぶった切るだけで簡単に退治できそうなんだけれど、またぞろいくつもの想定しうるリスクを考えだして、思考の全能感に陶然としてくる。やばい……いけない扉が開きかかってる。
そうして『泡卵』が衝突のたびに精霊子の火花を散らし、その付近にいた学生たちが次々と糸の切れた人形のように倒れ伏していく。不可解な存在にわずかでも触れたことで、《存在核力》が衝撃に耐えられなかったのだろう。彼らの発する《思惟力》の波形が激しくブレたので、その想像はたぶん当たっている。
とうとう『泡卵』が見上げねばならないくらいにまで接近した。
思考の海に沈んでいる冬夜はもとより、木嶋エミリを含めた特選部隊員たちも『アレ』のやばさを感じて闇雲に突っ込もうとしない。いまやった方が退治の成功率が高いと冬夜は直感しているものの、無根拠の助言などここでは意味はないと黙っている。
そうしてここまで接近して、『泡卵』の様子が変わったことに気が付いた。
(目が合った…)
そう思った。
見上げる冬夜の目に、おののくように全身を蠕動させた『泡卵』。
この不可解な存在が、ようやくにして『対象』を見つけたのだと分かった。
無事な監視生徒たちが付けた発煙筒の煙が、視界の隅をけぶらせ始めている。依然として異常事態を目視し得ていない警察の重武装チームも、「どこですか!」「指示してください!」と、後ろのほうで騒ぐばかりである。
冬夜はあっさりと理解した。
『泡卵』の発見した『対象』とは、この場で《思惟力》が隔絶して高い自分以外にはありえないことを。
蠕動が激しくなった『泡卵』を透かして、上空に何隻かの船が浮かんでいるのが見えた。それが『巡礼者』と呼ばれる危険な原理教徒たちのものだとはさすがに冬夜にも分からない。ただ、そちらから強烈に『見られて』いることだけは分かった。
「危ないッ!!」
木嶋エミリがこちらを振り返りながら叫んだ。
その広いおでこが見事なまでに富士額なのを冬夜は知った。そして危険報知が思考内で鳴り響いているというのに、彼のなかの何かが不思議な諦観とともに成り行きを見守っているのを自覚した。
ほとんど須臾のことだった。
ほとんど一瞬のうちに『泡卵』はその形を失い、一気に冬夜の内部へと入り込んでいた。
爆発するようななにかに、七瀬冬夜は意識を吹き飛ばされたのだった。




