終章
何かが、身じろぎした。
そこにはただ広大無辺な、『宇宙』と呼ばれる希薄な空間があるばかりで、生物どころか物質さえも探すことが難しい場所であるというのに。
『何か』が身じろぎしたことだけははっきりとしていた。
「おお…」
感極まったような嘆声が上がった。
「あれが神がおわします御徴である。すべてを生み出せし『始原の大神』は世界を産み、また壊したもうもの…」
「『泡卵』の波濤が広がっていく」
「おおおおっ」
どれだけの叡智を掻き集めようと、不死にも等しい恐るべき進化を果たそうと、一個の生物と世界を引き比べればそれはしょせん塵芥のごとく。
堅牢な船殻に守られた次元航行艦であろうと、そのすさまじい空間の揺らぎに水面に浮いた木の葉のように激しく揺り動く。敷物の上に這いつくばっていた多くの背中が、悲鳴とともに散らばり転がる。
「『泡卵』の波濤が」
「『始原の大神』の種が生まれたもうた」
「古き星界にあまたの滅びを…」
その大神の引き起こす聖跡を待ち受けていた無数の船が、半透明に泡立った時空のうねりに大きく上下する。なかには船同士衝突して小さな光を生むところも見受けられたが、その危険を押してここにある教徒たちにはそれもまた『神の試練』でしかなかったろう。
そうして彼らはその波が収まっていくその先に、黒々とした得体の知れない何かが無数に生み出されていくのをたしかに目撃する。
光さえも吸い込むかのような、黒々とした、どこかしら不安を掻き立てる不定形な存在…。
「『破壊の御使い』がお生まれあそばされた! そうら寿げや!」
「おおっ!」
「寿げや寿げや」
「『始原の大神』が苦しみから御救い下さる…」
「『御使い』の御技をしかと見届けよ!」
その生み出された黒々とした何かに、船たちが一斉に追随を始める。
ひときわ大きな白い船を先頭に、巡礼者たちの列が粛々と続く。これから生み出されるだろうあまたの『死』の予感に、彼らは打ち震える。
『原理教徒』と呼ばれる者たちの歓喜の葬列が始まった。
***
気配は、まるで大気の震えのように波及した。
文明の明かりを失ってその澄明度を増した降るような星空に、少女がひとり立ち尽くす。吐く息を白く弾ませながら、サンクトペテルブルク郊外に拠点を構えるヘケトー家の姫巫女、プラウ王女は高らかに笑った。
「来たぞ来たぞ来たぞ!」
同時刻。
小宮船を取りまく修行僧たちの間を縫うように最寄の仏塔の上まで駆け上がった少女は、高ぶる感情を抑えられぬように塔頂の宝珠につかまったままくるりと回転してしがみついた。
ガンジス川の河畔に拠点を築いたムユール家の姫巫女、ヤーン王女の姿を仰ぎ見て、起き出した修行僧たちの読経が夜のしじまを震わせ始める。
「観相が当たった」
同時刻。
生暖かい風とわずかな獣臭に、すうっと目を細めた少女が、習い性のように手にしたカップの中の甘い香りに鼻を近づけた。ココアと呼ばれるその現地飲料を彼女はことのほか気に入っていた。
アフリカ中央部の、打ち壊された都市廃墟群に再集住を始めている大陸最大の人口密集地、かつてラゴスと呼ばれていた土地に拠点を構えたアーダルティア家の姫巫女、シュペンツィア王女は髪を押さえながら熱帯の重い夜空を見上げてつぶやいた。
「ほんと面倒」
同時刻。
現地の国家首班とコーヒーブレイクを楽しんでいた少女は、あら、と短く漏らして唐突に立ち上がった。驚く相手を置き去りにテラスへと出た少女は、青い空を見上げてしばし呆然と佇んだ。
アメリカと呼ばれる現地惑星最大の国力を有する国の、政治中枢の小都市に小宮船を落ち着けたボーワ家の姫巫女、ユーミル王女は両手を捧げ上げて目に見えぬ何かを受け止めるように掻き抱いた。
「きなさいな。わたしがすべてを受け止めて、食らい尽くしてあげる」
同時刻。
水平線の沈む夕日に髪をなびかせていた少女は、そのとき空を見上げて何度か瞬きした。そしてそれが何かを悟ったように、くつくつと笑った。
南米大陸最大の魔窟都市、リオデジャネイロの旧市街にかさぶたのように張り付いたバラックの町並みに拠点を定めたササンサール家の姫巫女、サラサ王女は、そこだけは綺麗に残された現地聖人の像が建つ山の上を見上げて歩き出す。
「奇跡を起こすのなら起こしてみなさいな、ローカル神」
同時刻。
まだ完全には夜が退潮してはいない藍色の空には、夏を前にした入道雲が黒々とわだかまっている。タオルで顔を拭きながら小宮船のてっぺんに登ったトゥルーク家の姫巫女、カーム王女は、視界をさえぎっている街の古い建物をうっとおしそうに見やりつつ空を見上げた。
貝殻を重ねたような白いその建物が観光名所だという説を彼女は信じていない。オーストラリア大陸の東、シドニーの湾岸に拠点を定めた彼女は、肝心なときに視界の妨げになるその奇妙な建物をいつか解体しようと決意を新たにした。
「うちの子たちになんとかなるかな…」
そして極東の弧状列島に拠点を定めたアドリアナ家の姫巫女、フィフィ王女は、現地時間午前4時、朝も早くから仕事を急かされて、ご機嫌をかなり斜めにしながら王立魔術学院の理事長室にふんぞり返っていた。
彼女の前には、いきなり呼びつけられて戸惑っている学院長、大道寺正臣の姿があった。
非常な緊迫を持ってこの日を迎えた天朝国人たちとは裏腹に、拍子抜けするほど危機感のないこの地球種の様子に、フィフィ王女の機嫌はさらに垂直下降する。
大道寺正臣の「はあ」という気のない受け答えに、王女の流麗な眉が跳ね上がる。
「…あのさあ、これってチョー重要な情報なんだけど」
「非常に申し上げにくいことなのですが……その『重要度』がどのようなものなのか、残念ながらわたくしどもには見当もつかないのですが」
「…なんかもういろいろとバカらしくなってたきちゃった」
愛らしく頬を膨らませてむくれたような様子を作ったフィフィ王女は、『学院理事長』と書かれた黒い机上札を指で倒してくるりとそっぽを向く。彼女の機嫌の悪化を察知した大道寺は、慌てたように言葉を重ねた。
「…も、申し訳ございません! 知恵足らずで蒙昧な地球種のわたくしめに、お手間とは存じますがどうかお教えくださいますよう!」
「あー、どうしよっかなー」
「お願いいたします!」
「………」
「伏して! お願いいたします!」
危険な空気を察した大道寺が椅子から投身自殺するように身を投げたことが、数百万に及ぶ国民の命を救うことになるのだが、むろんこのときの彼にそのような自覚はない。
「もー、しかたがないなー」
「あ、ありがとうござます!」
「もうすぐ《災厄》の前座みたいなのが降ってくるんだけどさー、フィフィたちが守ってあげるのはやぶさかじゃないんだけど、それってちょっと長い目で見たら建設的じゃないって思うの」
「………」
「他の子たちも、《子》にやらしてみるって言うし。フィフィもそうしてみたいワケ」
無茶振りの予感に打たれて、全身を凍りつかせた大道寺が言葉を失うのなど気にも留めずに、フィフィは遊ぶように椅子をくるくると回す。
そして日本国の上層部を激震させる宣告が下されたのだった。
「いい子を見繕って、あんたたちで対応してみよっか!」
終章というか、こっからが始まりですね(笑)
形として区切りました。




