003 嫌な奴
閉まりっぱなしの店のシャッターの前に、砂姫姉が文庫本を読みながら待っていた。
ずいぶんと集中している様子の砂姫を置いておいて、家の鍵を預けに隣の和菓子屋『中がわら』の開店前の店内に入っていく。
シャッター商店街な寂れたこの界隈で、数少ない現役店舗はかなり朝早くからフル稼働している。餅をついたり小豆を煮たりが手間のかかる商売なので、開店前のこの時間は追い込みで相当に忙しそうだ。
「…その子が挨拶にきたら、鍵を閉めてあげればいいんだね」
「もしも挨拶とかなかったら、暇なときでいいんで、うちの様子を覗いてやってくれませんか」
「あいよ。その子供、トーヤちゃんの遠縁の子なんだね。親が迎えに来るのかい」
「…えーっと、親は外国の人みたいだから、よくわかんないですけど」
幼女は銀髪色白で見たまんま外人なので、親戚設定は少々無理があるのだけれども、おばさんとは一度っきりの接触になるだろうから、そのあたりの不自然さはこの際あまり考えなくてもいいだろう。
冬夜は駄菓子の販促グッズなのだろう、バッタもん臭いイカ少年のストラップつきの鍵をおばさんの手に預け、突っ込まれないうちにと手を振って店を出る。
うちのシャッターの前では、相変わらず読書中の砂姫姉が立っている。
そんなにも夢中になるほど面白い本なのだろうかと好奇心は疼くが、覗き込もうとはいっさい思わない。前に一度中を覗こうとして、みぞおちに鬼の裡門頂肘を食らった記憶がまだ新しい。あのときの砂姫姉の目には、確実にこっちを殺しにきてる恐るべき修羅がいた。
「…あっ、きたの」
「ごめん、遅くなって」
「いいのいいの、いっさい時間は無駄にしてなかったから。いこっか」
砂姫姉がひとつ上の上級生であるとはいえ、幼馴染の男女が並んで歩くというのはそれなりに第三者の生暖かい目線を集めてしまうものである。商店街の住人たちはふたりを夫婦扱いしてからかう手合いもいたが、それもせいぜいご近所までのことである。
ふたりとも眼鏡で地味属性、チビガリの男のほうに至っては存在感さえも霧散しそうな感じなので、周囲からの嫉視というのには残念ながらまったく持って無縁である。
そもそも腐りかけで喪女ルート一直線な青春に、一片の言い訳を添えるための大事なイベントなのだと以前砂姫姉が真顔で言及しているので、艶っぽさなど最初からありはしなかったりする。
その日も、家に残してきた幼女の一件さえなかったら、なんら特筆することもないのんべんだらりとした一日になっていたことだろう。
教室に着いて自分の席に座り、いつもと変わらぬ授業がBGMのごとく流れ出す頃に、遅まきながら諸々の不安要素がむくむくと頭にもたげてきて、頭を抱え込んでしまった冬夜。
思春期の正常な男であるならば、自分の部屋に門外不出のエロいコレクションがあってもおかしくはなく、ご多分に漏れず彼もまた若干ながらそれらを所持していたりする。そこに残してきた正体不明のアンノウン。にわかに浮き出した脂汗に、眼鏡がずり下がる。
幼女の家捜しは十分にありえた。盗られてまずいものはないが、見られてまずいものはあったわけだ。一刻も早く家に帰らなければ。
いつものようにうるさい前席の男女、安田(男)と高峰(女)のやり取りばかりが耳に入って、肝心の教師の声にも集中できない。
二人が付き合っているのかは定かではないが、仲が良いことは間違いない。
「…ちゃんと一級公認魔術士を目指すんなら、高校から上のランク目指さなくちゃ手遅れになるんだって。あんたも塾ぐらい通いなさいよ」
「塾って駅前の盆踊りするっつうアレだろ。いやないって」
「血の巡りを良くすると発動効率が上がるのよ。なによ、電源職一直線のナマケモノが一丁前にバカにしてんの」
「インチキだろあんなの。集団催眠だって言われてんぞ」
「あたしは上がったわよ、成績」
「えっ、おまえあそこ通ってんの? マジで踊ってんの」
「学校の実技授業だけじゃ魔力がなかなか伸びないでしょ! ほんとに上がるんだから! 学年10番以内の人も何人か通ってるらしいよ」
「…そういや、あの盆踊り塾の裏道の辺で、また不良『星外人』が捕まったらしいじゃん! 聞いた?」
「ちょっ、話の途中…」
「巻き添え食って死傷者が出たって噂だけど。しらねえの?」
駅前でそんな事件が起こっていたなんて初耳である。
噂の盆踊り塾は、ちょうど昨日アンノウン幼女を拾った界隈にある。それよりもマイルームの秘蔵コレクションをいかにして保護するかだよ、ああもう集中できん。
前席のふたりの会話が途切れたところで、一時限目の授業が終った。
冬夜は引き絞られた矢が放たれるように教室を飛び出して、校舎一階の職員室前にある公衆電話に一番にタッチダウンした。
心を落ち着けながら、受話器をとって側面のレバーを回す。交換所のベルを鳴らすレバーだ。《グレートリセット》後に電話通信は大幅にその技術水準を退行させることで復旧した。相手先の電話に繋ぐには、交換所の術士による中継ぎが必要だった。
かけた先は、砂姫姉の家……お隣の『中がわら』だ。
客商売だけあって、おばさんがすぐに出てくれる。家を覗いて見てほしいと頼むと、二つ返事で引き受けてくれた。切ってしまうと繋げるのが面倒なので、そのまま待ってなと言われておとなしく待つ。
少ししておばさんの声が聞こえた。
「…もう誰もいないみたいだから鍵かけといたよ」
その言葉を聞いた瞬間の安堵感。
どうやらアンノウン幼女はおとなしく退去してくれたようだ。わが聖域は守られた。
出てく際のお隣への声がけを忘れられたのは少しピクリとくるものがあるが、まあ気づいたのが早かったので問題はないだろう。
おばさんに礼を言って受話器を置いた。待ち時間合わせて5分ほど、電話代が300円もかかってしまったが、サービスが高価格な時代なので仕方がない。
口笛でも吹きたくなるような軽い足取りとはこのことであろう。携帯のないローテク世界で公衆電話の需要は高い。後ろに並んでいた生徒にぺこりと頭を下げて階段に向かう。2年生の教室は分かり易く2階に固まっていて…。
「おい、七瀬」
よく顔も見ていなかった、後ろに並んでいた生徒から声を掛けられた。
振り返ると見知った顔がそこにある。
「おまえ電話長すぎ。時間なくなっちまったじゃねえか」
「………」
たしかに授業の間の休み時間は10分しかない。おばさんからの返答待ちで時間を食ったのがたしかに迷惑の元ではあった。
学級委員の長谷部が、残り時間を見て電話を断念したように、手の中の小銭を握り締めていた。担任と女子連中にやたらと愛想を振りまくいやなやつだが、魔法の実技授業ではクラスでも一、二を争う就職戦線の有望株だ。むろんよくモテる。
ポケットに手を突っ込んだ格好で距離を詰めてくるその様子は、街でたむろっている悪い手合いと同じ雰囲気を漂わせている。こいつの裏の顔は一部の男子……のきなみ気の弱い連中ばかりだ……の間でよく知られている。
半年に一回の適性計測でもかなりいい値を出しているというこいつにとって、周囲の人間はバカばっかりに映っているのに違いない。
「おまえ、午後の実技、相手に指名してやるよ」
ついいましがたまでの軽やかな気持ちが、地の底に叩きつけられる。
今日の公開処刑のご指名だった。
学校の授業は、魔法という新時代の技術を速やかに取り入れるべく、相当な割合で実技指導の時間が割かれている。
端的には、午前が座学(座ってやる普通の授業)で午後が実技。そんな感じの時間割となっている。半日の土曜は、実技オンリーだ。
給食の春雨スープとコッペパンをもそもそと口に突っ込みながら、教室の隅で暗鬱なため息をついている冬夜を、学級委員の長谷部とその取り巻きたちがにやにやと眺めている。まあロックオンされてしまったからにはもう回避のしようもないので、冬夜はただあまり痛い目に遭わないことだけを祈るしかなかった。
そうして午後の授業、魔法の実技指導が始まった。