002 アンノウン幼女
「では、この子は顔見知りというわけじゃないんですね」
「いや、知るわけないですし」
交番に詰めていた巡査とやや厳しめな問答ののちに、なぜか自分の住所氏名まで書かされる羽目になった冬夜である。
交番まで何とか抱えてきた幼女は、半覚醒状態で頭を揺らしながら椅子のひとつに座っている。眠たいんじゃなくて泥酔しているは一目瞭然。よほど気に入っているのか、日本酒の一升瓶を抱えたままである。
「まさかきみが飲ませたわけじゃあるまいね?」
「いや、だから」
そうして、どうやら素行不良の疑いをかけられているのだと気付かないわけにもいかなかった。
人命救助をしたつもりであったのが、逆に未成年飲酒の幇助の罪を疑われてしまったわけだ。
幼女のパーツはどれを取ってみても……髪の色も肌の色も明らかに外国人だし、日本に疎い外国の子供がジュースと誤って酒を大量摂取したという可能性は、冬夜も巡査も一致して踏まえている。
しばらく聴取が続いた頃であろうか、同僚と思しき年配の巡査が巡回から出戻ってきて、子供相手にねちねちやっている後輩を「そのくらいにしとけ」とたしなめてくれたことで、ようやく彼は無罪放免となる。
冬夜は調書を書き込んでいる巡査の腕時計(機械式)を覗き込んで、いまが午後8時を回っていることを知る。スーパーがもうとっくに閉まってしまっている時間だ。舌打ちしたい気分をこらえながら、心にもないお礼を言いつつ交番をあとにしようとしたのであったが。
そのときふっと、幼女と目が合った。
ついさっきまで泥酔していた彼女が、真顔になっていることに気付く。
「…やっぱり知り合いなんじゃないのかね」
「ち、ちがいます」
幼女に服の裾を掴まれていた。
裾を取り返そうと引っ張り合いになるも、幼女もなかなかに強い力で放そうとしない。無理に引っ張ると幼女が椅子から転げ落ちそうなので、無茶な振り払い方もできない。
「………」
「………」
巡査の生暖かい眼差しに無言の抵抗を続けていた冬夜に止めを刺したのは、幼女の一言だった。
「お、置いてったら、泣くれす…」
そうしていつの間にか正気に返っていたらしい幼女の懇願と、想像の斜め上を行く供述……歳相応とはとても思われない多彩な語彙を駆使した彼と彼女のとんでも設定の嘘八百を、立て板に水を流すように並べ立てられて、あれよあれよといううちにホームステイ先のホストのいけずなお兄ちゃんとかわいそうなあたし、みたいなことにされてしまった。
えっ?
なんでどうして?
将来とてつもない美人さんになるのではと期待させずにはおかない幼女の口が、周囲を味方につけて愉悦したたる笑みの形に歪んだのを彼は見た。
自失から我に返り、まんまと嵌められたんだと気づいたのは、一人暮らしの家に彼女をつれて帰ってしばらくしてからのことである。上がりこむ早々所望した茶漬けをかっ喰らい、彼のベッドを占拠して高いびきをかき始めた彼女の姿を見たときに、家出中だった正気が遅まきながらの帰宅を果たしたようだった。
「…えっ?」
何なのこの展開。
***
結局相手が年端もない子供だということで、強制立ち退きを一端保留とした冬夜は、何組もある来客用の布団を取り出して祖母の和室でひと晩寝ることとなった。
むろんアンノウンな珍客をプライベート空間に抱え込んでいるのだ、まともに熟睡などできるわけもなく。いつもより一時間は早く起きてしまった冬夜は、そっと爆睡中のアンノウンを確認してため息をつくと、気を紛らわすべく朝食の準備をすることにした。
いつもなら販売が再開して重宝しているレンチンのご飯と、こちらもかろうじて市場に出回り出している粉末の即製味噌汁で簡単に食事を済ませてしまうところだったが、今日は時間もあることだし気合を入れて造ることにする。
乾物などの人の手で造る食品は今では割合に容易に手に入る。祖母がそのあたりはしっかりと用意していたので、戸棚を開ければたいていのものは見つかる。
よし、鰹ダシで味噌汁は造ろう。節を削ってそれを片手鍋で煮出す。煮干も数本投入だ。
そのダシを取っている間に、大根を剥いて短冊に切る。味噌と大根の取り合わせは、あの独特な苦味が絡まり合い冬夜的に5本の指に入る美味汁である。
慣れた様子でトントンと包丁を走らせ、切れた大根を鍋に投入する。むろん直前に鰹節と煮干は除去済みである。
いまだに全国的な配送ネットワークが半身不随状態のため、足の速い野菜系は近隣で地産地消の向きがある。使った大根は近所の露地栽培モノだ。
味噌も海外からの大豆調達が難しくなり、生産プラントが稼動していないこともあり、《グレートリセット》後はノウハウを保存していた田舎味噌の蔵元が生産を増やして都市部に進出しつつある。味噌自体は当然のことながら、以前よりも断然美味い気がする。大量生産品にはない素材のツブツブ感がたまらない。
コメもあんまり使わないが米櫃にあるのを焚く。
炊飯器もあるのだけれども、使用中電気系魔法を使い続けないといけないので、ここはガスコンロでの土鍋焚きに挑戦することにする。都市ガスの供給は、単なる圧力差の問題なので《グレートリセット》後も普通に供給できていた。
問題はそれをほとんど輸入に頼っていた日本がどうやって調達するかであったのだが、今ではこの国でしか生産できない工業資源がたくさんあり、タンカーさえこちらが用意すればいくらでもガスの売り手は転がっていた。
かくしてザ・庶民である七瀬家の台所でも、つつがなくガスの供給を受けられていた。着火ツマミは普通に機能する。使う庶民のほとんどは理解していないが、圧電と放電のシンプルな仕組み自体は機能を失ったわけではなく、ただ放電後の電子の行方が論理的ではなくなる、という《グレートリセット》の呪いは確実に作用している。ただ『着火』という結果自体は得られるので、コンロは普通に機能している。
洗ったコメを土鍋に浸して、火にかける。燃える火も若干生き物っぽく揺らめくが、その程度のことで怯む主婦はいない。
最初は中火で10分くらい、そのあとに弱火にして15分、火を切った後にも15分むらしの時間を入れる。それで土鍋焚きご飯の完成だ。
あとおかずは、と少し考えた冬夜。そこで目に入ったのは味噌汁の出しに使った鰹節。
「よーし、ダシ巻き卵でも作るか」
だんだんと調子が出てきて、自然と鼻詩が漏れる。
電気の供給持続が難しい冷蔵庫は、その機能がかなり退行して氷冷蔵となっている。魔法で氷を作ることができる人が多いので、逆にエコではあったりする。冷蔵庫から取り出した卵も、市内の養鶏業者から出回ってる新鮮なやつだ。
割合に高級品な卵を奮発して3つほど割り、ボールでカシャカシャと溶いているときに、背後に足音がした。
半身で振り返ると、そこに目を擦っているあの幼女の姿があった。
腰ぐらいまである銀髪が、寝癖で無残なまでにぐしゃぐしゃになっている。着ている服は、冬夜の貸したTシャツ。サイズが大きいのでTシャツだけでパンツまですっぽりと隠れている。
「朝食れふか」
「…腹空かせたまま追い出したりはしないよ。もう少しでできるから待ってて」
チビガリの冬夜よりも頭ひとつは背が低い。
7、8歳というところだろうか。
お茶を入れたコップを置いてやると、うぐうぐと素直に飲み始めた。
「おかわり!」
そのお茶で調子が戻ってきたらしく、御代りを要求してくる。大酒のみは、寝覚めで喉が渇くものだ。そんなことも知らず、ため息をつきながら冬夜はお代りを注いだ。
七瀬家の食事は、台所が狭いことから居間のちゃぶ台ということになっている。
幼女は並べられた朝食の品々を、物珍しそうに凝視したり匂いを嗅いだりしている。手を合わせていただきますした冬夜が食べ始めると、おっかなびっくり彼女も食べ始める。
最初に食べたご飯の味のなさにしかめつらになったのも束の間、冬夜を真似てだし巻き卵に手を伸ばし、フォークで口に運んだ。もしものために並べておいたが、案の定、幼女には箸の習慣がないようだった。
そのふわふわの卵を口にした瞬間、幼女はてきめんに顔を輝かせた。
ご飯はいまいちそうだがだし巻きは気にいったようだ。小さい口をフル稼働でもぐもぐとさせつつ、味噌汁にも口をつける。ダシの猛烈に利いた味噌汁は芸術的な美味さになる。鼻を抜ける濃厚なダシの香りに幼女は驚きつつ、それを美味なるモノと認識したようだった。
躾ができているのか、食べ方は上品である。
食べ終わった後の「ご馳走様でした」は、よく分からないままにしぐさを真似てくれた。
そうして朝食が終れば、冬夜は学校に行かなくてはならない。手早く洗い物をかたずけて、幼女の方を見た彼は、ご満悦な様子でおなかをさすっているその様子に少しだけほっこりとする。
一緒に家を出てもらうつもりだったが、よく考えたら下手をするとそのまま学校まで着いてきそうな予感を覚える。家を見渡して、盗られて困るようなものもないなと思った冬夜は、
「家に帰りたくなったら、いつでも出て行っていいからね。お隣に鍵預けとくから、となりのおばさんに挨拶だけしてくれればいいから」
その言葉にきょとんと見返してくる幼女。
分かっているのかそうでないのか。いささか以上に不安になるものの、彼にはゆっくりしている時間もあまりなかった。
まあお隣に注意して見ててもらえばいいか、と。
幼女の頭を撫でてから、冬夜は自宅をあとにしたのだった。