010 非日常へのいざない①
よく分からない妙な空気を感じつつ、生徒指導室をあとにした冬夜。
なんとなく視線を感じて出てきた入口を見返すと、そこには無罪証明に使われた小テストを胸に抱いた担任の平岩が彼を見送っていた。
視線が交差するなり、平岩はわざとらしく咳払いして「メガネだけは外さないように」と言葉を残して中に戻っていった。生徒指導室は職員室と中で繋がっているので、そちらから戻ったのだろう。
時間はもう5時に近い。そろそろ部活も終って帰宅しようという生徒の流れで廊下は賑わっている。その賑わいの中を泳ぐ冬夜の耳に、顔も知らない生徒たちの、取るに足らない日常会話が勝手に拾われてくる。生まれ変わったときに聴覚まで必要以上に高性能化してしまっているのだ。
そんな中に、校内で有名な肩書きが連呼されていることに気付く。
その声のほうを振り返れば、『肩書き』その人が取り巻きを連れて歩いている。生徒会長の由解明日奈と生徒会のメンバーたちだ。最上級生である3年で、実技成績トップ、座学も優等で教師連からの覚えもめでたい……そんな絵に描いたような『優等生』に、近似値的に最も近い人が会長に選ばれるのがこの学校の暗黙の習いである。
由解明日奈は道をよけて立ち止まっている生徒たちににこにこと笑みを返しながら歩いている。もうそろそろ生徒たちは下校を促される頃合いだというのに、彼女たちは昇降口を素通りして職員室のほうに向っているようだ。そちら側の廊下の突き当たりは部室棟につながっていて、生徒会室もそこにある。
高校進学時は、学校の推薦枠で天朝国の下田租界にある、王立魔術学院に進むことが決まっているという学校一の才媛、由解明日奈のビジュアル的なカリスマも相当なもので、通り過ぎる生徒たちも女子は憧れと嫉妬を、男子は気後れと思慕をもって見送っている。足の動きに合わせて躍る姫様カットの長い黒髪が艶々である。
その後ろに続く、茶毛ボブのメガネが副会長、三つ編みでひっつめたメガネが書記の人である。補足すると、メガネ率が高いのはむろんコンタクトレンズの量産技術が衰退しているからである。
むろんモブの一部として彼女たちを見送った冬夜であったが……その生徒会グループの後ろを金魚の糞よろしく着いて歩いている見知った顔に気付いて半歩後ずさってしまった。
なぜか学級委員の長谷部が、何かの備品らしき段ポールを抱えて一緒に歩いていたのだ。
「あっ…」
そう漏らしたのが早かったのはどちらであったのか。
ビン底メガネの防御力に守られて視線を外すことのなかった冬夜に対して、長谷部はあからさまに顔を背けてしまった。あのあと実技の先生に呼ばれて、きつめに叱られたらしいとは聞いている。
上昇志向の強いやつだから、おそらくは有力な上級生たちの歓心を買おうと骨を折っているところなのだろう。問題を起こした当日だと言うのに精神の図太いやつである。
長谷部が下田の王立魔術学院を狙っているのはクラスでも公然のことなので、胸を張って歩く会長の背中をちらりと見て、冬夜はああそうかと思うだけである。すれ違うときに長谷部が舌打ちしていく。
そうして彼らが歩いていくのを見送ってから、昇降口の下駄箱から靴を出そうとした冬夜であったが…。
「もー、おっそいよ~」
ぷりぷりと怒っていらっしゃる砂姫姉が腰に手をついて立っておられました。
あれ? 相手が遅くなったら遠慮なく先に帰っていいという、幼馴染のさばさばした暗黙ルールがあったはずなんだけど。
平岩の呼び出しで小一時間は遅れた冬夜は、当然ながらひとりでの下校を想定していたのだ。
しかもいつもなら、あんまり目立たない校門の外とかで本を読んでいるのに、こんな目立つ昇降口で、あからさまに待ち合いをアピールするような真似は彼女の振る舞いとしてあまり似つかわしくなかった。
しかもそこでなんで手を取るの?
靴を履きかけで足を取られながらの冬夜をぐいぐいと引っ張って歩く。
男女とはいえ体格で勝っている砂姫の力が断然勝っていて、こういう場合は黙って従うしかないと冬夜もしっかりと躾けられている。
二人を知っている生徒たちから、ひそひそと話のネタにされているのが分かる。どういうつもりなのかは知らないけれども、勘違いされそうな行動は勘弁してほしいと思う冬夜であった。
(…どうしてこんなことに)
今日はいろいろと普通じゃない日だと思う。
宇宙人の幼女に新しい身体に作り変えられ、恐ろしく向上したおのれのスペックを試しながらの一日であったので、そもそも普通に過ごすことなどありえはしなかったんだけれども。
秘密と決めていた激変顔をさくっと幼馴染と担任に知られ、微妙なリアクションを誘引してしまったこともさることながら、学校生活を居心地の悪いものにしていた学級委員の長谷部に意図せず反撃を食らわせ、一瞬とはいえ実技で優位に立つことすらできてしまった。その結果激昂して自爆した長谷部は敵にしたくない教師のひとりに目を付けられて……ありていに言って、これは勝ったと言って過言ではない状況ではないかと思うのだ。
しばらくはこっちを標的にできないだろうと思うと、すうっと胸が軽くなる。
「…砂姫姉、なんで駅に行かないの」
「た、たまには町を歩いて帰ろうよ。なんかそんな気分なの!」
「歩くのめんどくさいよ…」
「い、いいから付き合いなさいよ!」
帰り道も、なぜか徒歩になってしまったし。
まあ電車でふた駅ほどだし、歩いたって知れてはいるんだけども。今日はなるべくならば早く帰りたかったとため息をつく。家に残してきた宇宙人主従のことも心配だった。
「…見られてるんだけど」
「………」
砂姫の横顔があからさまに赤い。
彼女も恥ずかしいのは変わらないみたいなのだけれども、その口元に浮かんだ小さな笑みのポジティブさだけが不明である。
たまに電気自動車が走るだけの、ほとんど歩行者天国みたいになっている閑散としたシャッター商店街に、人通りは少ない。《グレートリセット》前みたいに物が溢れてもいないから、開いている店は食品関係かリサイクルショップぐらいで……って、ああ、そういえば砂姫姉の好きな古本メインの本屋とかもあったっけ。たしかにこの道順ならその店の前を通りそうだ。
空はだいぶ暗くなってきている。秋も深くなって日が落ちるのがかなり早くなっているようだ。
街灯の数も地区によってかなり少ないので、暗くなってからの出歩きは学校では補導の対象である。治安もあまりよろしくないので、大人たちの締め付けがきついのはいちおう道理にはかなっている。
砂姫の目的地はやはり本屋だったようで、そこでしばらく並んで本を立ち読みし、肉屋さんでコロッケを買って立ち食いし……まるでデートみたいだな……寄り道をしているうちにいよいよ時間が遅くなってきた頃、ようやく砂姫の『気分』が満たされたのか帰宅の運びとなった。
ようやく解放されるめどが立って、ほっとしたのも束の間。
やっぱり今日は、いろいろと普通じゃないことが起こる日であったらしい。
「…だから公園は通りたくなかったのに」
「う、うっさいわね。これが近道だったの!」
絡めあわせた砂姫の指に力がこもる。
彼女が緊張しているのだと分かる。
「…おお、女がいるぜラッキー」
「わりと地味女だけど、オレ眼鏡大好物よ」
「ガキ連れてるぜ。…姉弟?」
なんというか予想通りというか。
ゲームとかインターネットとか、娯楽が極度に不足した昨今、暇を持て余したゴロツキが増加しているという。
行く手をふさいだ人影が腕を振るうと、ぽうっと淡い火の玉が浮かび上がる。
《火系魔法》を志した人間が最初に手にする《燐光魔法》である。可燃性ガスを集めて放電で着火する、正確には《火》でないような気もする魔法なのだけれども、結果的に火を得られるのならば分類は《火系魔法》になるらしい。学者が分類したのだからそういうことなのだろう。
その《燐光魔法》の淡い光によって、場の状況が明からになった。
ふたりを取り囲んでいるゴロツキは全部で7人。前後左右、隙なく取り囲まれてしまっているようだ。
「レイジさん《燐光》かっけー」
「ショックガンで手っ取り早く寝かしちまおうぜ。上にめっかっちまったらソッコーで持ってかれちまうしさ」
「おーい、テキトーに道ふさげ」
パリィッ。
ゴロツキのひとりがショックガン魔法を準備すると、左右後ろからも同様の放電音が聞こえてきた。
学校で学んだ魔術を躊躇なく人間相手にも向けることができる手合いは、ほんとうに性質が悪い部類で、対魔術訓練を施されている巡回の警官さえ往々にして持て余す。
魔法は誰もがその可能性を持っている。最終的に自分の身は自分で守らねばならない。そのために実技授業では『護身術』が締めで行われる。
砂姫の手にもショックガン魔法が準備された。
(…絶縁ガードさえ可能なら、相当に無茶な高圧にだって簡単にできそうだな)
冬夜もまた密かに準備を始めている。
ほんとうに今日は、いろいろと普通じゃない日らしい。