ss 女教師 平岩郁枝
陵北中学2年B組担任、平岩郁枝(28)は、何枚目かの答案用紙を採点し終わったとき、その検算の消し跡さえ見受けられない綺麗な用紙の端に『100点』と赤ペンで走り書きして、それでも足りずに花丸までおまけした。
「抜き打ちで満点取るとは、なかなかやるじゃないの」
なんとなくそんな高得点を取りそうな面子を思い浮かべながら、その回答者の蘭に目をやった平岩は、才媛のマストアイテムと信じるオーバルのメガネをわずかにずらして、記入された名前を思わず二度見してしまった。
そこに書かれていた名前には、性格のよく表れた細い繊細な文字で、『七瀬冬夜』とある。
「七瀬…?」
意外な回答者に、臙脂色を刷いた唇をわずかに歪めた後に、ペンを放り出して沈思する。職員室の天井を見上げて、何度か椅子の背もたれをぎしぎしと鳴らせてから、彼女の出した結論は『カンニング』であった。
引っ込み思案で根暗そうなチビメガネ……いやいや自分の教え子をくさすわけにはいかない……を頭に思い浮かべて、その成績が年間を通して低空飛行を続けていることを勘案する。
わりと難しめの設問を選んだつもりであったし、なにより事前準備をあえてさせなかった抜き打ち、不意討ちのテストであった。生徒の現在の自力を測りたくて行ったけっこう嫌がらせに近いサプライズであったのに、まさか100点の答案用紙を見ることになろうとは思いもしなかった。
それがこともあろうに、成績に難のある生徒から飛び出したという異常事態。
あまり迷うこともなく、その生徒が何らかの方法でカンニングしたのだと推察した平岩は、答案を返却するホームルーム後に、彼を指導室に呼びつけることにした。
本来ならば答案の返却時に、満点を取った生徒の日頃からの不断の努力を称賛して、『教師の心象がよくなった』というガソリンを教え子たちのやる気のエンジンに注ぎ入れてやりたいところではあったのだが。カンニング疑惑のある相手を誉めるわけにもいかなかったので、なんともそっけない返却となってしまった。
少し難しい顔をしていたからか、生徒たちはテストの平均点が悪かったのではと勘繰っていたようだが、まあそういう尻に火のつく方向でモチベーションを底上げするのも悪くはなかろう。そう思うことにする。
そうして職員室ではなく生徒指導室に、七瀬冬夜を呼びつけることとなった。
生徒たちのざわめきが、より悪い成績を出しただろう弱者を見つけてネガティブな勝ち組反応を示したのは気になったが、どうもこの七瀬という根暗なチビメガネ……もとい、『小柄でおとなしめな生徒』だ……が、一部のクラスメイトに『いじめ』らしきものを受けているという噂は耳にしている。
そういうあまり建設的ではない生徒たちの動きは気にはなっているものの、責任追及の絶対的弱者である教師には、首を突っ込むべきでない話であるので極力聞こえない振りに徹している。
パイプ椅子に腰を下ろして数分、といったところで、くだんの七瀬が入室してきた。
これからいろいろと聞かねばならないことに憂鬱になりつつも、相手のいつもと変わらぬ俯き加減の顔と冴えないビン底メガネに、やや気持ちが落ち着いてくる。まあこいつなら多少きついことを言っても黙り込むだけで面倒もないだろう、そんなことを考えていた。
席に着かせて、開口一番に……いやこの場合は『手っ取り早く』が正しいか……いきなり本題へと切り込んだ。
「…どうして呼び出されたのか、心当たりはない?」
「………」
問いに、七瀬は少しだけ思案するようにしてから、ふるふると首を振る。
ちっ、面倒くさい生徒だ。
「今日のテスト、クラスで満点はひとりだけだったの。それなりに難しい問題も入れてあったから、ここはよくやったと誉めてあげたいところなんだけど……それまでのあなたの取った点数を客観的に見るとどうしても、こうね…」
「………」
「うーん、なんていったらいいかしら。ちょっと言いにくいんだけど…」
「…カンニングを疑われているわけですね」
婉曲な表現を選ぼうと言いよどんでいると、ズバッと直球が返ってきた。
相手から口にされて少しほっとしつつも言葉を継ごうとしたところで。
「じゃあ、それでいいです。0点で」
そんなことを言い出した七瀬に、思わず彼女は口をつぐんでしまった。
その言い草は、カンニングしたことを認めたというよりも、問答する時間ももったいないと突き放すような、自分の評価などもうどうだっていいと自暴自棄になっているような、そんなニュアンスであることを彼女は正確に読み取った。
えっ? なに、わたしが教育者として見限られた?
いささかの動揺がすぐに怒りに還元されて、彼女は態度をより強硬なものへと変化させた。
「…べつにカンニングしたなんてことを決め付けているつもりはなかったんだけど。その言い方だと、先生の誤解が原因みたいに思われているのかしら」
「…あの、そんなつもりは」
「いいでしょう、ここで確認してみましょう」
人間としての底を見透かされたような不安を大人気ない怒りに替えつつ、彼女はいったん職員室の自分の机に行って、一枚の用紙を取って再び指導室に戻った。
「試しにこれを、ここで解いてみてくれないかしら」
持ってきたのは、去年受け持っていたクラスで出したことのある小テストだった。同じぐらいの時期のものなので、あのテストが解けるのならこれだって問題なく満点を取れなければおかしかった。
用紙と鉛筆を渡された七瀬は、戸惑ったようにこっちを見てきたけれども、教師としての威厳を持って目だけで跳ね返した。
鉛筆を手でくるりと一回転させた七瀬は、テストを解き始めた。
待つこと1、2分であっただろうか。本来ならば制限時間15分の小テストをすっと差し出してきたので、しばらく待つつもりであった彼女は、「えっ」と少し間抜けな声を漏らしてしまった。
見れば、小テストの解答欄はすべて埋まっている。
「………」
解答のまとめを慌てて持ってきて答え合わせをすると、たしかに全問が正解している。さすがに言葉を失った。
「もう帰ってもいいでしょうか」と、多少あきれ返ったふうの七瀬が席を立とうとしたので、慌てて彼女も席を立った。これだけの解答力を身につけるために、目の前の小柄な生徒がどれだけの努力を費やしてきたのか……その結果を浅慮な担任に踏みつけられていまどう感じているのかを想像して、彼女はほんとうに慌てていた。適切なフォローをしておかないとこの失態が父兄にまで広がってしまうかもしれないのだ。
「ま、待ちなさい!」
「………」
腕をつかんでいた。
学生服の中の腕の肉が想像よりもふにゃふにゃしていることに違和感を覚えつつも、いまは言い訳優先とばかりに今度は肩をつかんで無理やりにこっちに向かい合わせた。
間近にビン底メガネがきらりと光る。
なにこの漫画に出てくるようなメガネは。
完全に向こう側の目が見えないとか、どんだけ度がきついのか。
「ごめんなさい、気分を悪くしてしまったかもしれないけど、先生も…」
こういうときは、互いの目をしっかりと合わせなくては伝わるものも伝わらないと、そのビン底メガネのつるを持って、ぱっと取り去った。
そうしてそこに現れた顔に、彼女は言葉を失った。
「…先生?」
不安げに掛けてくる冬夜キュンの声に反応できない。
心臓がバクバクと暴れて声を出すこともかなわない。
まさかこの世にこんな絵に描いたような眼鏡ギャップが存在するとは! しかもなにこの女が嫉妬に狂いそうなくらいの愛らしさは。美少年! 否、これが男の娘とかいうやつか!
忘れていた呼吸をどうにか復旧させたら、「ムハァッ」とか変な声になってしまった。
は、恥ずかしい!
「先生!」
冬夜キュンの鈴の音のように心地よい声に我に返った。
そうしておのれがいまだに冬夜キュンの肩を力いっぱいホールドしていることを、それどころかそのままハグする勢いで引き寄せていることに気がついた。
なんつういい匂いだ。
陶然としてしまいそうになるのを振り払って、ぱっと手を離した。
おそらくは若干持ち上げてさえいたのだろう、冬夜キュンの身体が少しだけ落ちて、彼は半歩よろめいた。その危うさに思わず手が伸びそうになるのを必死で制止する。
小悪魔が上目遣いにこっちの様子をうかがっている。
おちつけ、もちつけ。
そして冬夜キュンが視線で気にしているのが、自分の持ったビン底メガネであることに気づく。そのアイテムの重要性にいまなら頷くことができる。
少しだけ呼吸を整えてから、彼女はビン底メガネを本来あるべき場所にそっと収め返した。ほとんど不透過のそのメガネは、恐ろしいことに装着するや絶世の美少年を見事なまでに隠しおおせてしまった。
もしもこの眼鏡がなかったとしたら、どれだけの男女が道を踏み外すことになるのだろうか。引き寄せられる悪い虫の数を思って、唾も湧かないのに何度も喉を上下させた。
「この眼鏡は、絶対に外さないようにね」
「…はい、そうします」
胸のキュンキュンが止まらない。
「疑ったりしてごめんなさいね」
「いいえ、気になさらないでください」
ちゃんと礼儀もわきまえたいい子じゃないの。
胸のキュンキュンが止まらない。