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読み切り作品

毎日すれ違う名前も知らない人

作者: さわいつき

 八時五分。そろそろかと思い、視線をめぐらせる。

 人でごった返す駅の改札。いつもの時間に滑り込んできた空色の電車から吐き出される人々。いつもと同じ、馴染みの光景。

 人の波が揺れる中、ひょっこりと頭一つ飛び出ているその姿を見つけた。

 その人は右に左に揺れながら、わたしに気付くことなく進んで行く。

「今日も、会えた」

 彼が下りるのは、わたしの町。けれどわたしは今から、反対側のホームの電車に乗る。

「おーお。毎日こっそりと眺めて悦に浸っているなんて、まるでストーカーよねえ」

 隣から聞こえてくるそんな心無い言葉など無視して、階段に消えていく彼の人の姿を見送った。

「涙ぐましい努力だわね。もう二本早い電車に乗れば、遅刻なんてしなくてすむってのに」

「それに毎日付き合ってる三千代みちよも、わたしと同じ遅刻常習者のくせに」

「あたたかい友情でしょ」

「ありがたすぎて涙が出ちゃう」

 わたしが通う私立高校は、ここから電車で二十分あまり、さらに徒歩で十五分という場所にある。八時半に本鈴が鳴るから、HRとはいえ十分の遅刻になってしまう。このたった十分間は、結構シビアなものなのだ。

 入学以来ずっと、二十分早い電車に乗っていた。一ヶ月前のある日、たまたま気分が悪くていつもの電車に乗り損ね、仕方なくぼんやりとホームで過ごしていたわたしの目の前に滑り込んできた、空色の電車。人混みの中に紛れることなく揺れる頭に、わたしの視線が釘付けになった。

 線路越しではよく見ることができなくて、気分が悪かったことも忘れて、一箇所しかない改札まで慌てて駆け戻ってしまった。その後きっちり吐いてしまったのは、自分でも情けない。

「まあ、確かに背が高いし、スタイルも悪くないわよ」

 中学時代からの友人の三千代とは、高校も同じところに進むことができた。付き合いもそれなりに長いので、彼女にはわたしの好みも趣味も全て知られている。

「でもねえ。菜乃葉、背が高い人は苦手じゃなかったっけ」

 そう。実はわたしは、背が高い男の人が苦手なのだ。身長が一五〇センチちょっとしかないわたしは当然のことながら、ほとんどの男の人の頭はずっと上になってしまう。そのため、どうしても見下げられているような錯覚を覚えてしまうのだ。

 五年前に母と離婚して今は別々に暮らしている実の父の身長が、一八〇センチもあったことが精神的に影響しているのだろうとは思う。自分に厳しくて他人には更に厳しかったあの人には、優しくされた記憶なんかこれっぽっちもなかったから。成績優秀で品行方正な兄とは正反対のできの悪いわたしを、見下したような蔑むような目でしか見てくれなかったから。

「そうなんだけどね」

 本当は、自分でもよく分からない。一ヶ月前のあの日。初めて見た、名前も知らないあの人。恐らく父よりもさらに長身だと思われるあの人の、一体どこに惹かれたのか。けれど気がついたときには、目が彼を追っていた。視線が外せなくなっていた。運命の出会いだなんてありきたりな言葉では、表現することができない。そんな感情を、自分でも持て余してしまっていた。

菜乃葉なのはは、見ているだけでいいの? 告白してみたら?」

「そんなの、できるわけないじゃん。名前も知らないってのはお互い様だけど、あっちはわたしの顔も知らないんだよ。いきなりコクっても、気持ち悪がられるだけだって」

「そうかなあ。菜乃葉、可愛いから案外一発オーケーかもよ?」

「ないない、あり得ない」

 そう言いながら、心にちくりと棘が刺さるのが分かる。あの人がわたしを知っているなんて、あり得ない。わたしの告白を受けてくれるなんて、もっとあり得ない。二人で肩を並べて歩く日が来るなんて、絶対にあり得ない。だったら何も言わないで、何もしないでいれば。少なくとも毎日、顔を見ることはできるのだから。




 お腹が痛い。気持ちが悪い。吐きそう。体調不良の三本立てに、しゃがみこんだまま動くこともままならない。

 顔を上げることもできないわたしの視界には、駅を行き交う人たちの靴ばかりが映る。

 学校にいる間に始まってしまったオンナノコの日のせいで、体調は絶不調。いつも初日と二日目はこんな状態だから、そろそろかなと心の準備はしていたのだけれど、実際に来てみると想像しているよりもきつい。

「菜乃葉、大丈夫?」

「だいじょうぶ、じゃない、かも」

 三千代が気遣ってくれるのにも、蛙の首を絞めたかのような情けないほどの掠れた声しか出ない。

「どうする? お母さんに電話する?」

「だめ。たぶん今、仕込み中だから」

 母は、母の兄つまり伯父が経営する小料理屋で働いている。お店は昼の十一時からの三時間と夕方六時からだけれど、今の時間は夕方の分の仕込みをしていて多忙なはずなのだ。母一人子一人という現状で、できるだけ母に負担をかけたくはなかった。

「救急車」

「それも、だめ」

 病院に運ばれでもしたら、母に連絡が行く。結果的に母が駆けつけてくることになる。それは避けたい。何よりも、単なる生理痛で救急車だなんて、恥ずかしすぎる。

「んもー。気持ちは分かるけど、こんな状態でどうやって帰るつもりよ? タクシー?」

 それも却下。経済的に余裕があるわけではないから、そんな贅沢はできないのだ。

「じゃあ、どうするの。このままここで朝までいるつもり?」

 首を横に振ってばかりいるわたしに、三千代が呆れた口調で言う。心配してくれているのは分かるしとても嬉しいのだけれど、どうしても譲れない線というものがあるのだから仕方がない。

「さっき、薬、飲んだから。もう少ししたら楽になる、と、思う」

 日差しが夕方のそれに変わりつつある。いつまでも三千代につき合わせるのも忍びなくて、先に帰っていいよと言ったら、ものすごい剣幕で怒られた。

「わたしが、こんな状態の菜乃葉を放って行くような人間だと思ってるわけ?」

「あー。ごめん。ありがと」

 えへへ、と情けない笑顔になるのは、背中を摩ってくれている手のぬくもりが、素直に嬉しいから。こんな時、友達ってありがたいなと思う。




 ふと、三千代が息を呑んだ気配が伝わってきた。どうやら今わたしの目の前で止まっている靴の持ち主を見ているらしいのだけれど、なにをそんなに驚いているのだろう。

「気分でも悪いのか」

 聞いたことのない男の人の声。

「そ、そうなんです。友達が動けなくなっちゃって」

 三千代の声が上ずっている。どうしたんだろう。そんなにびっくりするような相手なんて、いったい誰なんだろう。

 薬が効いてきたらしくお腹の痛みが少しだけ楽になり、わたしは俯けていた顔を上げた。目の前にある靴からズボンを辿り、白いカッターシャツのさらに上まで視線を這わせる。

 背が高い人だな。そう思って見上げた先にあった、けれどあり得ない人の顔に、あ、と開いた口もそのままにわたしの体が凍りついたように動かなくなった。

「ああ、やっぱりあんただったのか」

 初めて聞く声は、想像してたものよりも少し低めの落ち着いた響きで。いつも引き結ばれている薄い唇が開いて動いているのが不思議で、目が離せない。

「え。菜乃葉のこと、知ってるんですか」

 三千代の驚いたような声に、わたしのほうがさらに驚いた。わたしのことを知っている? 一ヶ月間毎朝姿を見るだけだった、この人が?

 夕方会うことなんて一度もなかったのに、どうしてこちら側のホームにいるの?

「先月の今頃の朝にも、むこうのホームで蹲っていたんじゃなかったかな」

 まさか、あのときのことを覚えていてくれたのだろうか。

「声をかけようかとも思ったんだが、時間がなかったし、何よりも見知らぬ男からというのも気持ち悪いだろうと思って、かけそびれた」

「じゃあ、今日はどうして声をかけたんですか」

 三千代の的確な質問に、彼の人は少しだけ口元を緩めた。

 やっぱり。こんなに上から見下ろされても、不思議にも威圧感はない。そんなことを再確認しながら、わたしは返事を待った。

「あれから毎日顔を見ていたし、多分俺の勘違いでなければ」

 開けっ放しだった口を閉じ、ごくりと唾を飲み込んだ。先程まで体調不良で手のひらにかいていた汗は、いつの間にか緊張のそれに代わっている。

「あんたも、俺のことを見ていたんじゃないか、と」

「うわ。ご明察」

 三千代がぱちぱちと手をたたく。彼の言う「あんた」がどうやらわたしのことをさしているのだと気付いたけれど、まさかそんな夢のようなうまい話があるはずがないと、思わず自分の頬を抓ってみる。

「いたたたた」

 やっぱり痛い。三千代に呆れた口調で

「菜乃葉、なにしてるの」

 なんて言われても、この非現実的なまでの嬉しさの前では、取るに足らないほど些細なことだ。

「夢じゃないかと、思って」

「で? 夢だった? 現実だった?」

「現実、ですよね?」

 彼の肩が小刻みに震えている。どうやら笑いを堪えているらしい。

「じゃあ、菜乃葉、大丈夫そうだし。門限があるから、先に帰るね」

「え。ええっ? 三千代っ?」

 いきなり二人きりにされると、どうしていいのか分からなくなる。三千代の門限って、確か午後八時だったはずなのに。けれど引き止めるべく伸ばした手は一瞬遅く、空しく空気をかいただけだった。

「てことで、菜乃葉のこと、よろしくお願いしますねー」

 そう言って笑顔で走り去っていく友人を呆然と見送ったわたしの耳に、くくっと喉が鳴る音が聞こえた。堪えきれずに笑いが漏れたらしい。

「あのー」

「いい友達だな」

 楽しげな響きのその言葉に、わたしは即座に頷き返す。

「自慢の、友達です」

「こんどは、自慢の彼氏を、持ってみる気はないか?」

「え」

 差し出された手のひらとその先にある顔を交互に見つめ、わたしはさっきよりもはっきりと大きく頷いて、そっと自分の手を重ねた。

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