縋る手、雨の日
第二回お題で創作の会 参加作品
お題:『強欲』
神様、私がそう願っても許してくれますか――
+ + +
「ねえ、誰に断ってトイレ使ってんの?」
手を洗っていると、入口のほうからクラスメイトの笹川さんが、切りつけるような鋭い言葉で私の心を引き裂く。
もう、何度目だろうか。覚えていないし、数えたくもない。
「何黙ってんのよ、耳ついてるんでしょ。きったない耳がさ――」
そう言って『お友達』と哄笑する。
1学期までは私の友達だった3人と一緒になって、私が俯いているのを嬉しそうに、心底気持ち悪そうに蔑んで笑っている。
奥歯を強く噛み締めた後、私は、
「……ごめんなさい」
とだけ漏らした。
「はあ? 謝ってもらっても困るんだけど? あんたが使ったくっさいトイレ、ウチらが使えないっつってんの。どうしてくれんの」
「掃除……します」
「当たり前でしょ! 言われる前にしなさいよね。あー、まじアンタの声聞いてると耳が腐るわ」
「ごめんなさい」
私が何を言っても気に入らないようで、笹川さんは悪態をついた後、『お友達』を連れて出て行った。
掃除……しなくちゃいけないんだろうか。
考えたくない。考えられない。
けれども、どうしようもない。
+ + +
「――っ。おいっ。おい野宮! 野宮佐知! 眠いんなら保健室で寝ろ」
理科の殿山先生の声で、私は居眠りをしていたことに気づく。
教室は、決して楽しい空間などではなかったけれど、窓際の一番後ろに座る私にとって、授業中は彼女たちから開放される数少ない時間だ。最近は家でも、学校に行きたくないという気持ちが私の内側で暴れて、ゆっくりと眠らせてさえくれない。
何の味もしない給食の時間を越えて、睡眠不足の私が唯一、気が緩んでしまうこの午後の時間だった。
「すみません……」
憮然とした表情の殿山先生に向けてそう言ったが、果たして聞こえたのかどうか。
それでも、先生は黒板に向かって板書を再開した。
私の視界の隅では、笹川さんたちが振り返って、口元を歪めている。
一時期は、あの醜い顔をずたずたにしてやりたい思いが私の中に確かにあったけれど、そんなことは、もうどうでもいい。
早く卒業したい。彼女たちの居ない世界に行きたい。
ただその気持ちだけが、辛うじて私を繋ぎ止めていた。
+ + +
朝ほど憂鬱な時間はない。
教室に足を踏み入れた時の、生ぬるく、絡みつくような視線の海は、いつも私を溺れさせる。
「野宮さん。何しに来たの?」
笹川さんが、はしたなく机に腰掛けて私に問いかける。
けれども答えなんてあるわけない。私は来たくて来ているわけじゃない。
この不快な海を泳ぎ切って窓際の席までたどり着いても、決して安堵はできない。
机の上ではいつもどおり、彫刻刀でずたずたに描かれた罵詈雑言が私を待っているけれど、これは前衛的なアートだと思い込むようにして、どうにか現実から逃げる。
それよりも、引き出しに入れられている不可思議な物体が、私にとどめを刺す。
今日は異臭を発する、ずた袋の切れ端のような布が押し込められていた。
ポタポタと黒い液体が座面を濡らして、濁った水たまりができている。
「野宮さーん、変なもの持ち込まないでくださーい。臭いでーす」
悪意のある銛のような笹川さんの声が、私に追い打ちを掛ける。さらにクラスメイトたちの小さな笑い声が、私を四方八方から押して潰す。
もう涙は流れない。
私からはもう何も流れない。そんなものはとうに涸れてしまった。
私のすべきことは分かっている。
びちゃびちゃなボロ布を校庭の隅に捨てに行って、それから雑巾で机と椅子と、そして床を拭く。
きっとその間もこの悪意の海の中で、息を止め続けなければいけないのだ。
どうしようもない感情を、ボロ布を握りしめることで抑えながら教室を出ようとすると、目の前に、隣の席の鷹村くんが立っていた。
無言で私の横を通り過ぎ、手にした雑巾で私の机を拭き始めた。
正直、やめて欲しい。
「あれ〜、鷹村ぁ、野宮さんのお世話してくれてんの? 何、アンタらそういう関係?」
くすくす笑う声は、鷹村くんまでをも飲み込もうとしている。
要らない。そんなことをしても、良くないほうにしか変わらないのに。
「……うるせえよ。オレの勝手だろ」
鷹村くんは低い声でそう言う。
「きゃはは、ほら野宮さん、鷹村にお礼を言いなよ。アンタのきったない汁を拭いてくれてるんだからさ。あ、隣でいつも迷惑かけてるんだから、先に謝ったら?」
そんな声を背中で聞きながら、走って教室を後にした。
+ + +
校庭の隅でうずくまって、そのままどのくらい過ぎただろう。
教室に帰ることは出来なかった。
体は冷えきって、もう震えが止まらなくなっていた。
憐れんでもらったり、助けてもらっても、結局それは笹川さんの悪意――彼女にとっては遊び心なのかもしれない――を加速させるだけだし、助けてくれた人を巻き込むだけだ。
そんなことは嫌というほど分かっているのに、一瞬でも嬉しいと感じてしまったら、もうだめだ。希望を見つけたって、その後、それより深いどん底に突き落とされるのだから。
ごめんなさい、ごめんなさい――
誰に対して、何を謝っているのかは、もう分からない。
笹川さんに対してなのか、鷹村くんなのか、それともお父さんやお母さんにだろうか。
このまま消えてなくなってしまいたいと願う、私の浅はかな考えに対する懺悔なのだろうか。
もう、私には分からない。
「雨降るぞ。戻らねぇのか」
つと振り仰ぐと、上背のある鷹村くんの姿があった。
いつから居たのかは分からない。
がっしりとした肩と長い手足、目は鋭く吊り上がっていて、名前のとおりに猛禽類を思わせる。そんな目が怖くて、私はつい視線を逸らす。
「聞こえなかったのか。戻るぞ」
鷹村くんの催促を、無視することを私は決めて、体育座りの膝へと顔をうずめた。
あにはからんや、砂をはむ靴音と微かな風がして、鷹村くんは私の隣に座り込んだ。
「……やめて、帰って」
どうにか喉から声を絞り出して、鷹村くんを追い返そうとする。
「オレの席はお前の隣だろ。お前が戻らねえんならオレもここに居る」
変わらぬ調子で鷹村くんは宣言するが、私にはうざったくてしょうがない。
語気を強めて私は言う。
「やめて! 迷惑なの!」
「知ってる。だから何だ」
「何だ、って……」
二の句が継げない。口喧嘩が得意なら、ここまでの状況に私はなっていないだろう。
「お前、先生とか親には言わねぇの?」
「…………」
「いや、すまん。オレも何も言えてない」
「…………うん。それでいい」
誰かが颯爽と助けてくれるなんて夢物語は、すでに見終えている。
そんな望みは、私には許されないと知っている。
「…………雨、降りそうだな」
「……知らない」
「雨、好きか」
「……わかんない」
どうしようもない会話だけれど、学校でまともな会話をしたのはいつぶりだろう。
笹川さんの『お友達』が私から離れていったときに、私の声は死んだ。
口から出るのは、ただの悲鳴だけだった。助けを求める声さえ出なかった。
「オレを標的に出来る奴なんてそうはいない」
鷹村くんがぽつりとこぼす。
「助けられないとしても、救いにはなりたい」
朴訥な声で続ける。
「何が出来るかは……わからないけど」
「なんで……?」
私は震える声を隠す。
「なんで、そんなこと言うの? 私が可哀想だから? 可哀想な子を助けて、僕って格好いいって思いたいの? 迷惑なの! うざいの!」
言いたくもない言葉が次々と口から漏れる。
「分からない」
と鷹村くんは言う。
「オレにも分からないけど、ほっとけないだけだ」
「なんでよ……!」
もう涙混じりなことを彼には隠せなかった。
「4月に……」
鷹村くんの穏やかな声が響く。
「前にも隣の席だったとき、お前が教科書を見せてくれた」
「……そんなことで?」
「オレは人と話すのが苦手で、言い出せなかったのに、野宮が机を寄せて、一緒に見ようって言ってくれたから」
「…………そんなの」
「そんなことだ。オレの理由なんて」
涙が止まらなかった。
まだ壊れてしまう前の自分を思い出して、仲の良かった頃の友達を思い浮かべて、ぶっきらぼうな隣の席の男子を見て、私は泣いた。
欲張ってもいいのだろうか。
もう一度、あんな春の日が帰ってくるようにと。
冷たい雨が降ってきて、私たちの肩を等しく濡らした。
+ + +
2週間だ。
表立って何かをしてくれたわけではなかったけれど、鷹村くんが静かな抗議の意思を見せるようになって、2週間が過ぎた。
悪化はしなかった。
――いや、悪化はしたのかもしれない。
ただ、私は前ほど辛くはなかった。
予想通りに笹川さんの当たりは強くなったし、直接ひっぱたかれたりもしたけれど。
私の側に誰かが居てくれるだけで、こんなにも強くなれるものだろうか。
けれど、それが怖い。
このままこの希望に縋り付いて、いつか手を振り払われたら、私はもう砕けてしまう。
もう戻って来れなくなってしまう。
だからこれ以上、欲張ってはいけない。
今の状況だって、いつまで続くか分からないのだから。鷹村くんが愛想を尽かすかもしれない。いや、きっとそうなる。
だから、期待しちゃ――いけない。
それでも私は、あの校庭の隅に行ってしまう。
鷹村くんが来てくれることを祈って、座り込んでしまう。
そして彼が来ると、胸がほころぶ。
ここはまるで教会のよう。
神様に祈るのは私。
許してください。欲張りません。
だから少しだけ、救けてください――と。
でも隣に座る鷹村くんの、何の慰めもない、けれど優しい言葉や、下手な話し口を聞いていると、それ以上を望んでしまう恥知らずな自分が居る。
彼が隣に座ってくれるだけで奇跡なのに、その手に触れたいと思う私がここに居る。
その衝動に打ち克つことが出来ずに私は、愚かしくも、隣に座る彼に縋るような言葉を口にしてしまう。
「お願いだから、私の側にいて――」
そう言って彼の手を握る私は罪人でしょうか。
――神様、私の強欲を許してくれますか。
(了)