九、ナイトウォーカーと刺青
秋が駆け足で過ぎ去り、あっという間に冬が訪れた。喋るたびに口から出ては消えていく白い息を見ていると、自分達が今確かに生きていることを実感できるから、冬は寒いけれど嫌いじゃない。
今朝はいつもより早く登校し、コークスを入れたブリキのバケツを持って教室に入った。まだ私以外の生徒は一人もいない。窓の桟に霜が降り、昼間の賑やかな人の気配がない薄暗い教室は静謐そのものだった。
寒い朝はなかなかベッドから離れがたく、ほんの少しでも遅くまで暖かいホテルにいたいのだが何しろ今日は私がストーブ当番だ。皆が暖かい教室で過ごすためには多少の早起きも必要になる。やがてストーブの中でコークスが燃え始めると、炎が燻って煤を舞い上げ、独特の匂いが教室に立ち込めた。一度教室を出て水道に向かい、ストーブの上に置くケトルを水で満たす。校門の方を見ると、マフラーや手袋で防寒した何人かの生徒が登校する様子が見えた。水の入ったケトルを教室に持っていき、ストーブの上に置いてからもう一杯のコークスをくべる。手についた煤を机に擦りつけていると、近づいてくる何人分かの足音が聞こえてきた。
「あ、おはよう棗。早いね」
今日二番目に早く教室に入ったのはマジョラムだった。その後ろからメリッサとジャスミンも姿を見せる。
「おはようございます」
「おはよう。そっか、今日はあなたがストーブ当番だったのね」
「それにしても明かり、つけなさいよ。もうすっかり冬だからまだ暗いわ」
彼女達が登校したのを皮切りに、この明かりのついた教室の中だけでなく隣の教室や廊下からも賑やかな声や足音が聞こえるようになった。同級生達が次々に現れる。ついさっきまでの、私しかいなかった教室の静謐さはどこかへ消え去ってしまった。ストーブの熱が教室を暖めたことでガラス窓が曇っている。気づけばケトルの中からは湯が沸く音が聞こえていた。
午前中の授業が終わり、昼食を終えると後はどうしようかと悩んだ。午後の授業は私にとって出席しても意味がないに等しいものばかりで、だからと言って早退してしまうのもなんとなく気が引ける。今の季節は暖かい図書室で読書をするのが一番無難な時間潰しになるが、今日は下級生の授業で使われる予定のため入ることができない。
昼休み終了間近になり、私は適当に廊下を歩いていた。外よりは寒くないが、教室よりは暖かくない廊下を一人、静かに歩く。どこか空いているところを求めている最中に始業のベルが鳴った。気にせず上の階に行き、ちょうどよさそうな教室がないか確認していると、突き当たりの方にある空き教室から新米の若い男性教師と一人の少年が出てきた。よく見ると少年は同級生のセージだった。ハーツイーズと一緒にいることが多い彼は、三年生の中では一番背が高い生徒で教師と並んでもほとんど身長差がない。彼らは私に気づくと過剰なほどに驚いた。
「きみは、えっと……」
「棗だよ、先生」
セージが教師に耳打ちする。
「ああ、セージの同級生……三年生だね? こんなところでどうしたんだい。もう授業が始まっているんだから、早く教室に戻りなさい」
「お二人こそ、何の用でこちらにいらしていたのですか?」
「あ、それは……」
「俺が先生に進学の相談してて、この教室にいい資料があるのを教えてもらったところなんだよ」
動揺を上手く隠せていない教師に対し、セージは慣れたように嘘をついた。その空き教室に進学についての資料がないことを私は知っている。私は「そうですか」とだけ言って、彼らに背を向けて階段を下りた。途中、手洗い場に身を隠して二人が通り過ぎるのを確認してから、再び階段を上がって彼らが出てきた空き教室へと向かった。鍵は開いている。耳を澄ましても中から物音は聞こえないが窓が曇っていた。
「入ります」
念のため一言断ってから扉を開けて足を踏み入れた。真っ先に目を奪われたのは同級生のハーツイーズだった。古いストーブがコークスを燃やし、十分に暖まっている教室の中心に置かれた大きな円卓の上――今日着ていた瑠璃色のトレンチコートを広げた状態で背に敷き、仰向けに眠っている。白のドレスシャツは貝釦が全て外され、中の袖がない肌着は胸元まで捲れ上がっている。七分丈になっているフレンチベージュのズボンは前が開いてはいないものの黒いベルトが抜き取られ、同色の革靴や靴下と一緒に床に落とされていた。コークス独特の匂いよりは弱いが、《男爵ホテル》で何度か鼻についた体液の匂いがする。ここで何が行われていたのかは容易に想像がついた。思えばあの教師とセージは、薄らとではあるが汗をかいていた気がする。円卓の高さは私の腰がある位置と変わらない。行為に及ぶには申し分ない場所だったのだろう。
「……………」
ハーツイーズが目を覚まさないのなら、いっそのことここである程度時間を潰してもいいかもしれない。本棚には資料だけじゃない、普通の読書に向いた書物も数冊置かれている。それにストーブのおかげで廊下よりずっと暖かい。そんなことを考えながら、私はそっとハーツイーズに近づいた。普段はここまで近づいて彼を注視することなどなかったから、初めて見るような気分でもあった。
プラチナブロンドは決して珍しくないが、彼の髪は星の輝きを孕んでいるようで大舞台に立つ女優が持つものよりもずっと美しい。長くて量の多い睫毛も同じ色だ。細身だが無駄のない筋肉がついていて貧弱そうには見えない。まるで引き絞った弓の弦だ。バターを塗った陶器を想わせる肌にはところどころ強く吸われたのだろう痕があり、まだ乾いていない唾液でぬらぬらと光って艶めかしい印象を与える。しかし単純に艶めかしいだけでなく、加虐的なものまでもが存在を主張していた。
ハーツイーズの首には黒い薔薇が咲いている。シャツの貝釦が開き、肌着も襟ぐりが広いためその刺青はよく目立っていた。どこか不吉さを感じさせる黒い薔薇が左右に二輪ずつ咲き、そこから棘が生えた蔓が彼の首をうねるように一周している。天鵞絨のような黒い花弁も、針のように鋭い棘も、近くで見ればかなり腕のいい彫り師に頼んだのだろうとわかった。袖口のボタンが外され捲れ上がって晒された両手首と靴下を履いていない両足首にも見える、まるでブレスレットやアンクレットのように一周する刺青も同じだ。
この刺青は一体どこの彫り師に彫ってもらったのだろうか。市内に彫り師がいると聞いた覚えはない。ひょっとしたら余所で彫ってもらったのかもしれないと考えていると、突然何の前触れもなくハーツイーズの目が開いた。ヘリオトロープの双眸が私の顔をはっきりと映す。
「ハーツイ――」
自然と名前が口から出ようとしたが、ふと机に突いていた右腕に違和感を感じた私は彼から視線を移動させた。違和感の正体は、右腕の肘と手首の中間辺りに突き刺さったナイフだった。冷たく、薄い刃物が肉の中にある血管を切り裂いてそこから血が流れ出る。ナイフの柄を握っているのは、ハーツイーズの右手。いつの間にかズボンのポケットから取り出したそれを私の腕に突き刺したらしい。
「――あ……」
赤い一筋がぽたりと円卓に落ちた雫に変わるのを見て、私の身体はようやく反応した。右腕を引くことで刺さっていたナイフを抜き、踵を返して扉へと急ぐ。しかし扉に手をかける寸前で背後から足払いをかけられた。いつの間に円卓から下りて間合いを縮められたのかはわからない。両手を床に突いたと同時に左肩を掴まれ、私は仰向けにされる。そして馬乗りになったハーツイーズにそのまま両手首を掴まれ、床に押さえ込まれた。
「何、逃げようとしてるんだよ」
もしかしたらこれが、ハーツイーズが直接私に向かって言った初めての言葉かもしれない。そうぼんやりと思っていると、ハーツイーズは訝しげな表情で私の右腕をしげしげと見つめた。まだ血が流れている感触のある、肘と手首の中間辺り。
「変だな」
「何がですか」
「棗、お前は俺がナイフを刺した瞬間無反応だった。刺されたことに気づいたのも変に遅かった。普通だったら痛みで刺さったと同時に悲鳴を上げたり、顔を歪めたりする。それなのにお前は――まるで痛覚がないみたいだ」
「…………」
追究するような眼差しに私は思わず横を向いた。
「おい。本当なのか」
顎を掴まれ、正面に向き直された。
「……ええ。本当に、あなたの言う通りですよ」
同級生も教師も知らない。このことを知っているのはヒソップのような孤児院での馴染みを除けばフェンネルと桃葉くらいだ。ハーツイーズの目はわずかに見開き、その瞳はまるで今にも零れ落ちてきそうな紫水晶だと思った。彼は左手の人差し指と中指を、私の傷口に埋めた。思っていたよりも深い切り傷ではないらしい。やや長めの爪が傷口の中にある肉を抉るように引っ掻く。
「……これだけじゃわかりにくいな」
まだ若干疑わしげに呟いたハーツイーズは、私の右手を掴んだ。そして先ほどのナイフを取り出し、鋭利な切っ先を小指の爪と肉の間に潜り込ませた。ほんの少しだけ背筋がぞっと冷えたような感覚があったが、単純にナイフの冷たさが原因だろう。やはり痛みらしきものは感じない。ハーツイーズがそのままナイフを動かし、ぱらっ、と小さな紙切れのように私の小指から爪が剥がれ落ちた。爪を失った跡は、そこだけ他と違う血の色に染まっている。
「ふうん。嘘じゃないみたいだな」
「他の誰かにも、同じようなことを?」
「ああ。爪を剥いだら大人の男でもうるさい悲鳴を上げる。泣き叫ばなかったのはお前だけだよ、棗」
ハーツイーズは自分の指についた血を私の唇に塗りたくり、艶然と微笑んだ。
「痛みを感じないって、どんな気分なんだ?」
「……私からも言わせてもらいますが、痛みを感じるとはどんな気分なんです?」
言い終えないうちに私は右手でハーツイーズの顎を下から殴打した。一度頭を仰け反らせた彼の右手が私の髪を掴んで持ち上げた――かと思うと床に強く打ちつけられる。三回ほど続けて後頭部に激しい衝撃を感じて、ようやく髪から手が離される。鳩尾を拳で突かれ、息が止まりそうになった。靄のかかった思考がはっきりする頃には下半身が寒く心許ないことに気づいた。私の靴はソックスガーターで留めていた靴下と一緒に離れたところに置かれ、半ズボンと下着はまとめて右足首に引っかかっている。
「ちょっとだけ、意識が飛びかけていたな。それにしてもお前が喧嘩慣れしてるのには驚いたぜ。大人しそうな顔してるくせに」
ハーツイーズは笑って、私の両膝の裏に手を入れてぐいっと持ち上げた。そこでふと何かを思い出したように動きを止める。
「そう言えばお前とはまだ一度もこうして遊んだことがなかったな」
「ええ。そうですね」
「棗の家ってあの《男爵ホテル》なんだろ。だったら、もう経験済みか?」
「男娼に手を出していいのはキスまでです。支配人に拾われて特別扱いされている私も例外ではありません」
次の瞬間、私の中で何か薄い膜が破れるような初めての感覚があった。未知の圧迫感だ。まだ身体の力が抜けている私は、ハーツイーズが口の中に舌を入れてくると同時に目を閉じた。最中、何度か身体を揺さぶられたり顔や腹を殴られたりする衝撃はあったが、意外にも首を絞められることはなかった。
「おい、目を開けろよ。まさか眠っているんじゃないだろうな」
しばらくして頬を強く打たれた。唇の端が切れた気がする。中に出された感覚はなかったが、下半身が怠い。目を開けると、不機嫌そうなハーツイーズの顔がそこにあった。
「終わりましたか」
「お前、不感症か」
「不満なら今後は私以外の女か男を相手にしてください。……昼休み、二人も相手にしていたようですが」
「セージの奴、女の身体が無理で一度俺が相手をしてやってからは時々抱かせてくれって言ってくるんだよ。あの教師は単純に十代の男となら誰でもいいらしい。見ていたのか?」
「ちょうどこの教室から新米の教師とセージが一緒に出てくるのを見ました。あなたは本当に淫靡な人ですね」
ハーツイーズは私から離れると服を整えながら、せせら笑うように言った。
「痛みも快楽も感じないなんて、人間じゃないみたいだ。一年生の頃だったか、誰かが棗のことを悪魔みたいだって噂しているのを聞いたぜ。髪と瞳の色が黒ってだけでそんなことを言われるのは随分理不尽だろうけど、痛みも快楽も感じない身体だなんて――本当に、得体の知れない悪魔みたいだな。淫靡な俺の方がよっぽど人間らしいだろ」
何かを言い返そうという気すら起きず、私は溜め息をついて下着と半ズボンを上げた。太腿まで届く冬用の靴下をソックスガーターで留めていると、不意にハーツイーズが私の前髪を掴んで後ろの扉に押しつけてきた。
「言っとくが、俺は不感症だからって遊び相手から外すつもりはないぜ」
「……奇特な人ですね」
「それは皮肉か? それとも褒めているのか?」
前者ですよ、と私が答えるより先にハーツイーズが唇を重ねてきた。口の中に入ってきた舌が傍若無人に動いていたかと思うと、切れていた唇の端を噛まれて血が流れる。お互いの吐息が感じられるほどの距離で向かい合ったまま、そっと優しく左頬を撫でられた。
「棗みたいな奴は初めてだ。どうして今までお前のことを知ってやれなかったんだろうな。これからはもっと同級生らしく、仲良くしようぜ」
「…………」
折っていた右膝を勢いよく伸ばすように彼の腹を蹴ると、油断していたのかハーツイーズはそのまま背中から床に倒れて咳き込んだ。痛いのかどうかはわからない。けれどもその顔は何故か笑っているように見える。
「ハーツイーズ」
「なんだよ」
「あなたの、その刺青はどこで彫ったんですか?」
この質問が予想外だったのか、彼はきょとんとした。そしてすぐに薄い笑みを浮かべると、ドレスシャツのボタンを一番上だけ外して首回りの黒薔薇を見せつけるようにする。
「気になるか」
私は黙っていたがハーツイーズはそれを肯定を捉えたらしい。
「教えてやる。放課後、一緒にエンプティへ行こうぜ」