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八、旧友

 日曜日の朝、私は珍しく寝坊した。

 昨夜もいつものようにプールの近くにある揺り椅子に座り、星座を眺めていた。いつもと違ったのは、そのときはなかなか眠くならず、つい東の空がぼんやり白くなるまで起きてしまったことだ。そのまま起きていようと思ったのだが、部屋に戻った途端急激な睡魔が襲ってきてベッドに倒れ込むようにして眠ってしまった。

「棗。そろそろ起きなよ」

 フェンネルに揺り起こされ、時計を確認すると十時を過ぎていた。慌てて私は着替えて朝食を済ませるとホテルを後にする。もう少し早いうちに起こしてくれてもよかったのにと思わずにはいられない。

 いつもなら徒歩で二十分かかる教会までの道のりをこの日は半分ほどの時間で駆け抜け、なんとか十時半から開始する礼拝に余裕を持って間に合った。教会の横手から人々が集まっている正面の広場へ出る。敷地に足を踏み入れた私に向けられる視線は、あまり穏やかなものではない。わざとらしくこちらを気にしながらひそひそと小声で会話する人々が見たくもないのに視界に入ってくる。同じ学校の生徒とその親らしき大人も何人かいた。

 教会に来る人達の大半は《男爵ホテル》に住む私を疎ましく思っている。穢らわしいと言いたげな視線を人々は容赦なく向けてくるが、私は孤児院にいたときからの習慣で特に信仰心を持たないまま日曜の礼拝だけは欠かさず通うようにしていた。

 入り口で聖書を写した紙を手渡され、階段を上って礼拝堂の扉をくぐった。一番後ろにある席の右端に座った私の近くだけ、ぽっかりと穴が開いたように誰も座ろうとはしない。やがてほとんどの席が埋まった頃、私以上に人々の視線を集める人が入ってきた。市長と、市長夫人の二人だ。ハーツイーズの姿は見えない。夫妻はにこやかな表情で周囲に挨拶と会釈をしながら席に着いた。ぎこちない笑みを浮かべ、あるいは何か言いたそうな顔で挨拶や会釈を返す人々の心情を二人は理解しているのだろうか。

 その後賛美歌や聖書の話が滞ることなく、いつものように礼拝は終了した。足早に教会を後にした私はホテルを通り過ぎ、南へ向かって歩いているうちにエンプティへと辿り着いた。

「あ、お前――」

 ある程度の雑踏を抜けたところで、不意に横から声をかけられた。私はその声をかけた人物に肘を掴まれる寸前に身体を反転させた。背後に回り、膝の裏を蹴り飛ばす。後ろに重心が傾いた相手が尻餅をついた瞬間、屈んで相手の両脇に腕を入れた。そのまま両腕を絡め、頭と顎を掴んで固定する。このまま力を込めて首を捻れば、恐らく相手は簡単に死んでしまうだろう。周囲を行き交う人々はわずかにざわつき、私達二人の周りを避けるように人の流れが変わった。しかしそれだけだ。当然誰も声をかけてきたり、助けようとしたりはしない。エンプティでは人の命さえそこらの汚物と変わらない価値だ。ふと足元を見ると、相手が持っていたらしい透明な淡いクリケットグリーンの瓶が転がっている。石畳の上に広がるその飲み物は、ドクターペッパーだ。

「ちょっと待てよ。お前、棗だろ? 俺だよ」

 焦った声に聞き覚えがあり、両腕を抜いて相手の正面に回った。柘榴石(ガーネット)の瞳と左目の下にある泣き黒子を見て、彼がかつて私と同じ孤児院にいたヒソップだと気づく。私から見れば、同級生の少年達よりも骨格が完成に近いその風貌は限りなく大人のようだ。

 私が孤児院を脱走したとき彼は十二歳で、その後はこの市内に店を構えるパン屋の主人に引き取られてつつがなく生活しているらしい。二年前に偶然ここを歩いている彼と再会して以来、私達はエンプティを訪れるとたまに顔を合わせることがあった。

「ああ、やっぱり棗だな。相変わらず強い」

 ドクターペッパーの瓶を急いで拾い上げるヒソップ。中身はほとんど流れてしまっていたように見えたが、まだ三分の一ほど残っている。

「お久しぶりです。それから、すみませんでした」

「いや、俺もこんなところでいきなり腕掴もうとしたのは悪かったよ。お前の黒髪みたいに珍しい髪色だったら、後ろ姿で気づいてくれたかもしれねえな」

 彼は苦笑して肩を竦めた。青紫色をした短髪は項から耳にかけてやや乱雑に立ち上がり、前髪は眉にかからない長さで昔からずっと変わらない。彼のような青系統は赤系統と同様、金髪や銀髪に次いで一般的な髪色だ。だから後ろ姿だけで判断するのは難しかった。実際に私も声を聞いて正面に回るまで彼がヒソップだと気づかなかったのだから。

「それはそうと」

 ヒソップは飲み口から底まで伝ったドクターペッパーの滴を舌で拭うように舐めた後で、思い出したように言う。

「最近エンプティでよくハーツイーズを見かけるようになったぜ。お前、知ってたか?」

「いいえ。学校の教室以外では会うことがほとんどありませんし」

「相変わらずやりたい放題だ。仕事にあぶれた娼婦や浮浪者、十五に満たない孤児にまで散々暴力を振るった後に抱く。中にはハーツイーズ相手に腰振って銀貨一枚を渡された男もいるそうだ」

「ヒソップはどうしているんですか?」

「……気になるか」

 ヒソップは片頬を歪めるようにした。足を動かし始めた彼に恐らく目的地などはないとわかりつつも、私はその隣を歩く。

「まあ、俺はこの界隈でやたらと綺麗なプラチナブロンドの美少年が視界にちらっとでも映ったらさりげなく逃げるようにしてる」

「美少年相手に逃げるんですか」

「誰も彼もがそういう嗜好を持つと思うなよ。それにしてもちょっと気になるな。棗とハーツイーズ、どっちが強いか」

「……どうでしょうね」

「お前、まるで他人事だな。でも俺は棗の方が勝ちづらい相手だとは思うぜ」

「勝ちづらい相手ですか」

「ああ」

 頷いたヒソップは足を止め、突然私の右手を取った。そして小指を掴んだかと思うと、それを思い切り後ろに捻る。徐々に力を強めながらしばらくそうしていたが、じっとその様子を眺める私を一瞥した後で手を離した。

「だって棗――痛みを全く感じねえからな。痛覚っていうのは喧嘩の際隙になるものなのに、お前にはそのつけ入るための隙がない。痛みが感じない奴相手にする喧嘩は勝ちづらいんだよ。今だって骨が折れる二、三歩前まで捻ったのに眉一つ動かさねえ」

 私は自分の右手を見つめた。ヒップに小指を捻られている間、皮膚が引っ張られて伸びるような感覚はあった。けれども痛いとは思わなかった。そもそも私は痛いと感じたことがない。どれだけ記憶の海を探ってみても、何かにぶつかったとき、殴られたとき、蹴られたとき、転んだとき、衝撃は感じても、本来ならば誰でも感じる痛みというものを経験した覚えがない。

「そう言えば昔、痛いとはどんな感じなのかとあなたに訊いたことがありましたね」

「懐かしいな。そのときは馬鹿にしてるのかと思って力いっぱい棗を殴ってみたけど、口を切って流血しながらきょとんとしてるだけで、結局俺一人が職員にお仕置き受けて終わりだった」

 どこか遠くの方で犬の吠える声や赤ん坊の泣き喚く声が聞こえる。道端で蹲ったまま動かない痩せこけた老人に躓きそうになり、ヒソップは表情を歪めることなく舌打ちをしてその老人の背を強く蹴った。それまで動かなかった老人は悶え、咳を繰り返した。痛いから、悶えるのだろう。私にその感覚はわからない。痛いと感じることが不快で、恐怖を思わせ、時には死んでしまうほどのショックを与えるものだという知識しか知らない。

「それにしても棗は運がよかったよな。孤児院脱走なんて成功したところですぐ野垂れ死ぬか飢えに耐え切れず戻ってくるかだと俺は思っていたんだが、まさか拾って養ってくれる奴がいるとは思わなかっただろ」

「そうですね。感謝すると同時に物好きな人だと思いましたよ」

 私は五年前のことを思い出す。つまり、初めてフェンネルに出会ったときのことを。

 フェンネルはあのとき言っていた言葉の通り、五年経った今でも私を捨てることなく、育ててくれている。周囲からどれほど疎ましい目や好奇の目を向けられようとも、私にとってはあの《男爵ホテル》が家で、支配人のフェンネルが家族だ。

「棗」

「はい」

 適当に路地を歩いてからエンプティを出る手前で、ヒソップはドクターペッパーを飲みながら私の肩を掴んだ。そのままやや強引な力ですぐ近くの壁に私を押しつけると、唇を重ねてきた。そして口に含んでいたドクターペッパーを全て私の口に移した。さくらんぼ味だ。強い炭酸と薬品じみた風味に噎せそうになりつつも、なんとか飲み下す。思わず閉じた目を開けると、至近距離のヒソップは笑みを浮かべていた。まるで、檻の中に閉じ込めた子犬を見つめる独占欲と愛おしさが入り交ざっているような顔だった。私はヒソップが初めて見せたその表情に若干戸惑いながらも彼の顔面に手を当て、退ける。

「何するんです」

「こうやって口移しで飲ませるっていうのが、俺の学校で流行ってるんだ」

「ドクターペッパーなんて飲む人の気がしれません」

「子供の味覚だな。美味いのに」

「柚子丸と同じようなことをするんですね」

「誰だよ」

 わずかだが、ヒソップの声が低くなった。

「前に話しませんでしたか? 《男爵ホテル》専属の庭師がいて、彼が三年前見習いを連れてきて一緒に仕事をしているんです」

「庭師の見習い? そいつ、同級生か?」

「いえ、学校には通っていません。彼は十三歳ですよ」

「ガキじゃないか。お前年下好きだったのか?」

「どうしてそうなるんですか。柚子丸は弟みたいな存在です」

「弟と今みたいなキスをするのかよ。しかも俺や孤児院の連中よりも付き合いが短い奴をよく弟だなんて言えるな。棗にその気がなくても、その柚子丸ってガキの方はどうかわからないぜ」

「…………」

 ヒソップの口元は笑っているが、器用なことに目は睨んでいる。私が黙っていると彼は再び唇を重ねて舌を入れてきた。お互い口の中にまだドクターペッパーの味が残っていて、さらにべたついた。苦しくなってきた呼吸をやり過ごしていると、ヒソップの右手が私の服の中に入ってきて、脇腹を撫でた。その手が胸元に上がってきたところで唇が離れる。

「不感症相手に欲情できるんですか、ヒソップ」

「どうだろうな。けど、俺はうるさく喘いだり注文してくる女はどうも好きになれない。そういう尻軽よりは棗の方が好感を持てる。ちなみに訊くがお前、まだ処女か?」

「ええ。柚子丸を含め、ホテルの人達からたまにキスされることはありますが、結局そこまでですよ。無反応な女を抱こうとする物好きはいません」

 しばらくしてヒソップは小さく溜め息をつくと、私の腹や胸をまさぐっていた手を離した。その顔はついさっきまでの男の本性を剥き出しにしたものではなく、孤児院での昔馴染みのものに戻っていた。

「……それ、治らねえのか」

「自分で触れることはもちろん、他人に触られることも今まで滅多になかったんですけど……これはもう治らないものなのかもしれませんね。それに、痛みを感じないことと同様治そうとしたことすらないんですから。私はいっそこのままの体質でいいと思っているんですよ」

 私は壁に凭れた状態のまま天を仰いだ。ホテルを出たときは快晴だったが、今の空は薄い灰色の雲で覆われていた。太陽がどの位置にあるかわからないから大体の時刻も推測できない。

「でもそれって、つまらなくないか?」

「少なくともパートナーの方はつまらないと思うでしょうね。私自身は構いません」

「お前は性格も不感症気質だからな」

 鼻で笑ったヒソップはドクターペッパーをすっかり飲み干すと、そのまま歩き始めた。

「家に帰るんですか?」

「ああ。もうすぐ店番を任される時間だからな。棗、俺がいるパン屋で買い物しろよ。最近客が少ないんだ。もしホテルで出すパンとしてうちの商品を使うよう計らってくれれば俺は跪いて、お前の足に何度だってキスしてやるぜ。おすすめは蜂蜜風味の三日月パンとシナモンシュガーのマフィンだ」

「昔馴染みとして安くしていただけるのならいいですよ」

「しっかりしてるよな。まあ、考えとくよ」

 エンプティを出てすぐの曲がり角でヒソップと別れ、私はホテルに戻った。時計を確認すると正午を過ぎていた。礼拝に間に合うよう朝食の量を少なめにしていたため、かなり空腹になっていた私は食堂に直行した。二十人近くの客が賑わう中、柚子丸を見つけた。その隣にもう一人、老いた男が座っている。私は後ろから二人に近づいた。

「こんにちは。一緒にいいですか?」

「あっ、姉さん。もちろんいいよ。ぼくの隣に座って」

 無邪気にはしゃぐ柚子丸と対照的に物静かなワームウッドは、私を見て無言の会釈をすると自分の食事に戻った。その食事をする姿は味わっていると言うより、ただ生きるために必要な栄養を摂取するだけの機械的な動きにしか見えない。薄くはないが白髪が増えた気がするオリーブグリーンの髪を撫でつけ、肌はよく日焼けしている。日頃から仕事で外に出ているからだろう。とうに瑞々しさが失われた肌には皺が刻まれ、特に眉間の深い皺は他人の干渉を容易く許さない無愛想なものにしていた。

「今日は二人ともここで昼食なんですね」

「支配人が勧めてきたんだ。姉さんは今日遅めの昼食みたいだけど、どこに行ってたの?」

 私は柚子丸の耳元に顔を寄せて囁いた。

「フェンネルや他の従業員には内緒ですよ。――エンプティです」

 目を見開いた柚子丸の口元に人差し指を立てる。彼も周囲を窺いながら声をひそめて言った。

「本当?」

「ええ」

「……でも。姉さん、あそこは危ないから気をつけた方がいいよ」

「そんなこと、この市内の住人なら誰でも知っていますよ。私が知らないわけないじゃないですか」

「怪我とかしてない?」

 不安げに見つめてくる柚子丸に、私は大丈夫だと言い聞かせるように微笑んで頭を撫でた。気持ちよさそうに目を閉じていた柚子丸だったが、ふと何かに気づいたように目を開いて小首を傾げた。

「ところで姉さん。珍しくドクターペッパーなんて飲んだの?」

「え……?」

「あれ、違った? そんな匂いがするから、てっきりドクターペッパーを飲んだのかと思ったんだけど」

「早く食べ終えろ」

 突然、鷹揚のない低い声で言ったのはワームウッドだった。席を立った彼は、柚子丸の方を見ずに続ける。

「この後すぐに剪定をする。急げ」

「あ、はいっ!」

 静かに席を離れていくワームウッドに威勢よく返事をすると、柚子丸は急いで昼食の残りを食べ終えた。

「それじゃあまたね、姉さん」

「ええ。仕事、頑張ってください」

 ぱたぱたと走り去る柚子丸の後ろ姿を見えなくなってから、私は一人昼食を胃袋に収めた。


 

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