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七、男娼

 通用口からホテルの中に入ると、真っ直ぐ執務室へと向かう。扉をノックしてから開けると、一人机に着いて仕事をしていたフェンネルが顔を上げて私に微笑んだ。

「棗、今帰ったのかい。おかえり」

「ただいま」

 初めて出会ったときと変わらない、狐のような愛嬌と狡猾さを併せ持つ笑顔だ。彼のその表情は三十代半ばとは思えない子供っぽさと老獪さを同時に感じさせる。

 執務室はフェンネルの仕事に関する最低限必要なものだけが置かれている。事務机と書棚、応接用の円卓とソファーはどれも落ち着いた色合いでやたらと華やかな趣向のものは一切ない。庭の様子が見える窓は閉まっていた。

「この薬はどこにしまっておきましょう」

「ああ、それは他の従業員にさせるよ。棗は六階に上がってアンゼリカの部屋に温かいお茶と洋梨を運んでくれるかい。彼、朝から喉が少し変だと言ってたんだが……」

「指名されたんですか」

 フェンネルは頷く。

「そう。今夜」

「風邪のひき始めかもしれませんね。ヴィックスドロップは?」

「ちょうど切らしているんだ」

「なら私がもう一度薬屋に行って買ってきましょうか」

「いや、あれは今在庫が切れていると桃葉から聞いたのが昨日だ」

「そうですか……」

 道理で今日渡された紙切れにはヴィックスドロップが記されていなかったわけだ。《男爵ホテル》では従業員のための薬を補充する場合、桃葉の薬屋で購入する。その際よく効くことで有名なヴィックスドロップを必ず一缶買っておくのが通常だった。蜂蜜と薬草の味がするそれは他の店で売っているものよりも薬っぽい辛さも苦さも控えめで、代わりに執拗な甘さの中にすうっとした清涼感がある。

「売れっ子が風邪というのは経営に響くから、どうにか防ぎたいものだよ。しかし今はもう九月の終わり。この時期はどうも風邪になりやすいからな」

 フェンネルはぶつぶつ言いながら椅子から立ち上がり、私の手から薬の包みを受け取った。すぐに私は執務室を出ると食堂の厨房に入った。仕込みをしている料理人の邪魔にならないよう隅でケトルを火にかける。水が沸騰するまでの間、貯蔵庫から取り出した洋梨を果物ナイフで切ることにした。まだ洋梨の季節には早いが、アンゼリカのため今日買ってきたばかりなのかもしれない。

 皮を剥き、食べやすい形に整えた洋梨を皿に並べ終えたところでケトルの注ぎ口から湯気が立ち始めた。茶葉を入れたティーポットにケトルの湯を注ぐ。砂糖とミルクのポットも盆に載せると、厨房を出てエレベーターに乗り込んだ。一度五階に出て階段を上がる。アンゼリカの部屋の前で足を止め、ノックをした。

「棗です。お茶を持ってきました」

「入って。鍵は開いてるよ」

 どこか眠たげな声が聞こえ、私は扉を開ける。アンゼリカはソファーに横たわっていた。ついさっき昼寝から起きたばかりという様子だ。本来なら今の時刻は従業員がまだ忙しなく仕事をしているはずだが、今日は彼だけ特別に休ませているらしい。

 昼間働く際はいつも邪魔にならないよう項で結んでいる髪が、今は眩い金色の輝きを孕みながら肩にかかっている。長い睫毛に縁取られた青金石(ラピスラズリ)の瞳がこちらを見て、美しい微笑を浮かべた。それだけで心臓を鷲掴みにされた気分になる。

「あ、それ果物?」

「はい。洋梨です」

「わざわざありがとう」

「喉は大丈夫ですか?」

「うん。痛みは今のところないんだけど、唾を飲み込むたび何か喉の奥に引っかかってるような違和感があるんだよね」

 控えめに主張する喉仏を細い指で撫でながら、アンゼリカは言った。その細かな仕草一つ取っても、彼の動きはとても優雅で気づけば目で追ってしまう。

 私はソファーの前にあるテーブルに盆を置き、紅茶を注いだ。アンゼリカは砂糖を一匙、ミルクを少しだけ入れてスプーンでかき混ぜた。湯気が立つその液体に何度か息を吹きかけて、形のいい唇をそっとつける。

「っ、まだ熱い」

 すぐ唇を離したアンゼリカを見て、私は彼が猫舌であることを思い出した。舌を冷やすかのように洋梨の一切れを齧ると、その柳眉を歪めた表情は和らいだ。私はアンゼリカが洋梨を食べている間にティーカップの中身を冷ました。

「……うん。飲みやすい温度になった。美味しいよ。ありがとう、棗」

「どういたしまして」

 こくこくと喉を動かし、紅茶を飲むアンゼリカ。彼は二十五歳とは思えないほどに小柄で中性的だ。身長は私と頭一つ分も差がない。美麗な顔立ちは線が細く、髪を下ろすだけで深窓の令嬢に見える。客の相手をする際女装をする一部の男娼にとって、アンゼリカは憧れの存在らしい。フェンネルはアンゼリカについて、初めてここで働き始めた十七歳のときから年を取っていないように見えると言っていた。

「棗」

 しばらく彼が紅茶を飲む様子に魅入っていると、名前を呼ばれた。返事をするより先に顎に指を添えられて、そっと軽く持ち上げられた。唇に触れた香りと冷たい感触は、最後の洋梨一切れだった。

「はい、どうぞ」

 アンゼリカの人差し指と親指でつままれた洋梨が、私の上唇と下唇を割って歯に当たった。私は口を開けて少しずつ齧る。芳醇な甘さが口の中に広がった。

「可愛いね、棗」

 空いている方の手で頭を撫でられた。なんだか躾けられた犬になったような気分だ。

「ねえ棗。きみが男だったら、いや――女のままでもいい。ただで抱かれてあげようか」

「…………」

 思わず私は洋梨を食べる口を止めて、アンゼリカを凝視してしまった。すると彼はくすくす笑って私の食べかけを自分の口の中に入れた。咀嚼したものを嚥下して、老若男女問わず虜にしてしまう微笑を浮かべる。

「冗談だよ。それに棗はそういうの、興味ないだろう」

「ええ、あんまり」

 私が答えるとアンゼリカは笑みを深め、小さく「ごめんね」と呟いた。そして紅茶を飲み終えると一旦ソファーから立ち上がり、部屋の隅にある洗面台で顔を洗うとガラス扉のついた戸棚から箱を取り出して戻ってきた。その箱の中には彼が使う化粧道具が入っている。

「今夜、客がいるそうですね」

 櫛で髪を梳かしながら、アンゼリカは頷いた。

「うん。四階の部屋に泊まった男で、年は……四十代前半くらいだったかな。すでに三回ここに来てて、僕を指名したのはこれで連続二回目だよ。職業は税理士だったかな。市内の人間ではないみたい」

「税理士って儲かるんですか?」

「さあ、どうだろう。でも僕を二回も続けて選んだってことはそれなりなんじゃないかな」

 言いながらアンゼリカは櫛を置き、箱から鏡と紅の入った入れ物を手に取った。

 私はさっさと空になったティーカップと皿を盆の上に片付け、アンゼリカの部屋を出た。階段を下りながら引き止められなかったことに安堵する。あのまま部屋にのんびり居座っていれば、恐らく私は彼から紅を唇や目尻に塗られていただろう。けれどもアンゼリカの紅をつけた美しい顔を見ることができなかったのは、ちょっとだけ惜しいと思った。



 食堂での夕食を終え、私は六階の自室でシャワーを浴びると着替えて庭に出た。すでに辺りは静かな闇に包まれ、空の星がはっきりと見える。私はプールの近くにある揺り椅子に座った。体重を預けるだけで自然と身体の重心が釣り合うところまでゆっくりと傾く。

 夜のプールはとても綺麗だ。ホテルの明かりに煌めく水は夜空をそのまま映し、まるで小さな宇宙を想わせる。それはどんなに寒い冬の夜であっても、見るたびに私を誘惑した。じっと見つめていると飛び込んでしまいたくなる。つい先月まではこのプールを求める客が多くいたものの、残暑が過ぎ去った最近では精々誰かが足を浸している姿しか見られない。

 持ってきた星座早見盤に目を落とし、今見える星空と見比べる。

「あそこが秋の第四辺形だから……アンドロメダ座、ペガサス座。……その南が、うお座とみずがめ座――」

 椅子に揺られながら星座を眺めているうちに、瞼が重たくなってきた。突然首ががくんと前に傾き、はっとして目を開けた。どうやら転寝に入りかけていたらしい。

 このままここで眠ってしまえば風邪をひいてしまうかもしれない。私は揺り椅子から身を起こし、ホテルの中に戻った。

「おや。きみは――確か、棗といったかな?」

 フロントを通り過ぎ、エレベーターの前に立ったところで誰かが声をかけてきた。振り返ると、四十代前半くらいと思しき男が立っていた。穏やかな顔立ちで、見栄えのいいそれなりに高級そうな服が似合っている紳士だ。

「はい。何かご注文でしょうか」

 すると彼はそれまでの誠実そうな表情を崩し、どこか下卑た笑みを浮かべた。

「きみ、これから眠ろうとしていたのなら悪いけど、ちょっと私に付き合ってくれないかな。きみは黙って部屋の中にいるだけでいいんだ」

 そう言って男はポケットからやや多めのチップを取り出し、私の手に握らせた。

「わかりました」

 私は頷いて男とエレベーターに乗り込んだ。彼が泊まっている部屋では、紅で色気を増したアンゼリカがすでにベッドに腰を下ろしていた。目が合うと、彼は苦笑するように微笑む。薄々感づいていたことだが、この男がアンゼリカの客である税理士のようだ。

 税理士はベッドサイドテーブルに置かれたランプだけ残し、部屋の明かりを消した。

「じゃあ、きみはそこに座ってて。終わったら出ていってもいいよ」

 服を脱ぎ捨てながら、鼻息の荒くなった税理士はベッドからある程度の距離を置いた椅子を指差した。揺り椅子とは違って硬くて動かない、本当にただ座るためだけにあるというようなその椅子に私は腰を下ろした。

 税理士はしつこい手つきの愛撫を済ませると、中肉中背と言える身体で餌を貪る犬のごとく激しい動きを見せる。それに応じてアンゼリカの小さな口から上がる嬌声は、普段よりもずっと高くて女性のようだ。時々彼の快楽に潤んだ瞳が私を捉えた。その艶やかな青い視線がいくら絡みついてきても、私には扇情的だと思う以外何の感慨も沸かない。

 彼らの行為を見ている最中、何度か眠ってしまいそうになった。夜は外を出歩くと全く眠くならないのに、こうしてホテルの中にいると普通に眠くなるから不思議だ。それでも堪えること約一時間半、ようやく終わった。税理士はシャワールームに向かうこともなく半裸の状態でそのまま眠りについてしまったらしい。すでに寝息が聞こえている。その隣で四肢を投げ出し、仰向けになっていたアンゼリカは緩慢な動きで身体を起こした。

「お疲れ様です。喉は大丈夫ですか?」

「うん。もう部屋に戻っていいよ。棗は明日も学校があるんだろう」

 アンゼリカはベッドから足を下ろし、私の前を横切ってシャワールームに入っていく。彼の腿の内側からどろりとしたものが膝裏の窪んだところまで伝っていた。

 目を擦りながら私が部屋から出ていこうとすると、アンゼリカがシャワールームから顔だけを出して微笑んだ。

「おやすみ、棗」

「はい。おやすみなさい」


 

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