六、放課後
放課後になると私はいつものように一人で校舎を出て、通学路にある薬屋を訪れた。朝、登校前にフェンネルから薬を買って帰るように頼まれていたからだ。黄ばんだ窓掛け越しの光で薄らと明るい店内に入ると、まず目を奪われるのが扉から入ってすぐ真正面、レジスターが置いてあるカウンターの後ろにある壁だ。様々な薬を入れた桐箱が整然と収められた壁は全体が抽斗となっている。
「こんにちは」
「いらっしゃい、棗。今日は何のご用かしら」
白衣を着た女店主の桃葉が退屈そうにしていた表情を一変させた。桃色の長い髪がさらりと腰で揺れ、鮮やかな口紅をつけた唇が弧を描く。珍しく客は私以外一人もいない。カウンターから身を乗り出すようにした彼女は確か今年で二十七歳だが、その表情や仕草はまだ清純な少女のようだ。しかし私は桃葉が《男爵ホテル》の常連客で無類の男好きだと知っている。彼女が清純だとはもちろん本気で思っていない。
「薬屋に薬買うこと以外の用事があるんですか」
「ここに来る客の男は半数以上、薬じゃなくて私を目的に来ているのだけど」
桃葉は常に柔らかい笑みを崩さない美人だ。端麗な容姿と豊富な経験で大抵の男はすぐに陥落してしまう。そのうえ彼女は《男爵ホテル》にいる美しい男娼だけでなく、下種な顔つきの男だろうと父親と言ってもいいほど年の離れた男だろうと選り好みすることなく相手をする。媚びなければ物品を貢がせることもない。そのためこの薬屋には客だけでなく、娼婦を買えない男や桃葉の魅力に取りつかれた男までもが訪れる。
「桃葉、私はこれでも女ですよ。あなたの好きな男ではありません。以前、女はただそこにいるだけの存在だと言ってたでしょう」
「ええ、わかっているわ。可愛い子ね」
桜貝のように整えられた爪を持つ手が伸び、私の頭を撫で回す。手を退ける気も言い返す気も起きず、私は鞄に入れておいた紙切れを取り出して薬の名前を一息に読み上げた。桃葉はすぐにカウンターの後ろにある抽斗を次々に引いて薬を袋に詰めていく。あれだけの数を一度聞いただけで記憶し、間違えることなく薬を取り出せるのはさすがだ。
白魚の手から包みを受け取り、支払いを済ませる。
「毎度ありがとう」
微笑んだ桃葉は不意に私の項に手を伸ばし、引き寄せた。パロットグリーンの瞳に自分の顔が映ったのを見ていると、左頬に柔らかいもの――彼女の唇が押しつけられる。唇の感触が離れると、左耳に甘い声の囁きが入ってきた。
「棗。これからもうちをご贔屓にね」
「はい。……あなたも《男爵ホテル》をご贔屓に」
桃葉の唇からは鮮やかな口紅が少し落ちて、わずかに元の色らしいオーキッドピンクが見えていた。なくなった分の紅は私の左頬についているのだろうと手で覆う。口紅を塗り直そうとしている桃葉に会釈をして、店を出た。
涼しく心地よい秋風に吹かれながら《男爵ホテル》の門を通り、客が入ってくる正面玄関ではない裏の通用口へ向かう。
「あっ、姉さん!」
突然明るく弾んだ声が聞こえてきた。声がした庭の方を向くと、庭師見習いとして働く柚子丸がホースで水遣りをしながらこちらに手を振っていた。近くに植わっている鈴懸の木が葉陰を落とし、彼の柔らかなハニーブラウンの髪は斑のようになって見えた。
「おかえりなさい」
「ただいま、柚子丸」
私が立ち止まると、水遣りを終えた柚子丸はホースをずるずると引きずりながら駆け足で寄ってきた。彼の師匠――《男爵ホテル》専属庭師のワームウッドは近くにいない。
十三歳の柚子丸は私のことを「姉さん」と呼んでいるが、当然実際は姉弟どころか親戚ですらない。赤の他人だ。ただ二年前――私が学校に通い始めて一ヶ月経った頃――に彼がワームウッドに連れられてきた日から、何が琴線に触れたのか知らないが私を姉のように慕っているという事実はある。
「姉さん。どうして左頬を隠してるの?」
私は無言で左手を退けた。するとヘイゼルの瞳を持つ大きな目が一瞬丸くなり、柚子丸は少しだけ不機嫌そうな表情になった。
「それ、またあの薬屋の人?」
「はい」
「駄目だよ。少しは抵抗しないと。ぼくの知ってる靴磨きの子があれに気に入られていたけど、よく靴を磨かせてくれる客だからって好きなようにさせていたらついにはズボンの中に手を入れられたんだって。男好きの範疇を超えてるよ」
柚子丸はどうも桃葉のことが苦手なようだった。
「平気ですよ。私は頬にキスされるだけですから」
「そのうちあの牝犬は姉さん相手にもつけ上がるよ。姉さんは女だけど、外見がちょっと男の子っぽいから」
「そうですか?」
「そうだよ。背丈はぼくよりも高いし、痩せているから胸が目立たない。着ている服だって半ズボンばかりで、スカートを履いたところなんて見たことないよ。どうせならもっと髪を伸ばせばいいんだ」
私の髪は幼い頃から毛先が肩に触れない長さにしている。今までにも色んな人から「もっと伸ばせばいいのに」と言われてきた。私は自分の毛先を軽くつまみ、微笑んでみせた。
「肩にかかる以上に長いのは鬱陶しくて好きじゃないんですよ。手入れにも時間がかかりますから」
「とにかく、薬屋の人には気をつけてよ」
言いながら柚子丸はホースの口から滴る水でハンカチーフを濡らすと、それで私の左頬をごしごしと擦った。私は目を閉じて、しばらくされるがままでいる。
「……柚子丸、何か甘い匂いがしますね?」
「うん」
紅色に染まったハンカチーフをしまうと、柚子丸は私に唇を重ねてきた。先ほどから漂っていた蜜のような匂いが強くなる。彼が舐めていたらしいドロップが甘ったるい唾液と一緒になって私の口内へと入ってきた。
「ドロップですか」
「親方がくれたんだよ。まだあるから、それは姉さんにあげる」
「ありがとうございます」
その後柚子丸がまだ物欲しそうな表情でこちらを見ていたため、私は彼に触れるだけのキスをして頭を撫でてやってから別れた。