五、ナイトウォーカーと学校
「棗。来月からは学校に通えるよ」
フェンネルがそう言ってきたのは、私が《男爵ホテル》で働き始めて二年目の夏のことだった。それまでは従業員の中で大学を出た人に勉強を見てもらっているだけだったが、九月からは私もちゃんとした学校に入学できるとのことだった。
入学してしばらくは、教師も他の生徒も私のことを気にしているようだった。教室で席に座っているとき、廊下を歩いているとき、図書室で本を読んでいるとき、カフェテリアで昼食を取っているとき、登下校の道を歩いているとき、いつも離れたところから余所余所しい囁き声と視線を感じていた。
「ほら、見て。あの女の子だよ」
「本当だ。髪も瞳もあんなに黒いなんて」
「あれが《男爵ホテル》で働いている子だって……」
「案外地味な女じゃないか」
黒髪に黒い瞳という、それだけで人目を引く珍しい容姿に加え、どこから知れ渡ったのか私が《男爵ホテル》の人間だと学校中に広まったことが原因だった。だから私は極力目立つことを避け、大人しい生徒でいようと努力した。幸い私と喧嘩をしたことのある少年達は一人もこの学校にはいないようだった。そして自分から喧嘩を売らず、何か不愉快なことを言われて笑われても無反応でいると、次第に周囲は私のことを髪と瞳の色だけが変わっている地味な生徒と認識するようになった。
早くも三年生になった私は、来年の六月に卒業する。卒業後は進学せずに《男爵ホテル》で正式な従業員として雇われることが決まっているため、そこまで勉強に励む気は起きず昼間は惰性で過ごしていた。あまり出席する必要がないと思う授業は最初から受けず図書室に忍び込んで読書をするか、中庭の泉水に足を浸したり運動をしたりする。今日もそのつもりで中庭に訪れたのだが、残念なことに先客がいた。
前方にある緑の茂みが風もないのに揺れて、葉擦れの音を立てている。校舎の壁際に立つ私からはちょうど何も見えないが、時々聞こえてくる声からして二人以上の誰かがまぐわっているのだとわかった。これは特に珍しいことではない。早ければ一年生のうちから、休み時間に空いた場所でそういう行為に及ぶ子がいるのだから。やはり異性間で行われることが多いものの、時には同性間でも行われている。噂では教師と生徒とですることもあるらしい。
「――ハーツイーズ……」
不意に艶っぽい、潤んだ女の声が聞こえた。続いてその声が断続的に喘ぎ始める。聞き覚えのあるような気がするから同級生かもしれない。聞き間違いでなければ、相手はハーツイーズ。彼も私の同級生だが名ばかりで、今までまともに会話したこともなければ目を合わせたことすらない。あちらも私が同じ教室にいることをほとんど意識していないだろう。
市長の一人息子でありながら、ハーツイーズは他人を暴力で服従させることを好む学校一の問題児だ。威圧感を与える鋭い目つき以外は文句なしに美しい少年だが、その美しさは身体の様々な箇所に彫られた刺青と相まって加虐的な色に染まっている。彼は老若男女問わず誰にでも暴力を振るう。加えて淫靡な性分らしく、校内外でも男女問わず派手な肉体関係を持っていた。それは強制的なものだったり合意の上だったりした。せめてもの長所や救いと言えば授業中は大人しいということや、成績優秀ということくらいだろう。そんな大勢の人から恨まれても当然な彼が肩で風を切っていられるのは、市長の息子という社会的地位と圧倒的な喧嘩の強さが原因だ。ハーツイーズ自身は当然だが、彼の両親にも少なからず問題がある。あの市長夫妻は息子の所業を知っていながら、二人とも相当な子煩悩でハーツイーズの好きにさせているのだ。しかしハーツイーズは家庭内でも好き放題やっているのかと思えば、予想外にもそれは違った。以前駅を通りかかったとき、プラットホームで列車を待つ三人を見かけたことがある。そのとき余所行きの服を着たハーツイーズはいかにも育ちのいいご令息然とした表情と物腰で、両親に対しては従順な態度でいることを私は知った。恐らく彼は家庭内での従順な態度で溜まった鬱憤を外で晴らしているのだろう。
「…………」
このまま何も見なかった――聞かなかったことにして図書室にでも行くべきかと踵を返したとき、少女の悲鳴が上がった。思わず私は再び茂みの方へ向き直る。何かを殴るような音が二回繰り返され、それまで喘いでいた声は啜り泣きに変わった。さらに耳を澄ましているとぴたりと声が止む。その代わり地面を手足でばたばたと叩く音が聞こえてきた。茂みの揺れがひどくなり、私の目にも白い下着を足首に引っかけた左足が見えた。近くを舞っていたアゲハ蝶が慌てた様子で離れる。すると突然茂みの中にいる一人が激しく咳き込み、荒い呼吸を整えた。どうやら彼女はハーツイーズに殴られ、首を絞められたらしい。
「人によるけれど、最中に首を絞めれば中の締めつけが強くなって快感が増すんだよ」
確か《男爵ホテル》の男娼がそんなことを言っていた。彼はどういうわけかよく指名してくる男性客からは首を絞められ、また女性客からは首を絞めてほしいと頼まれるらしく、なかなか首の痣が消えないことを悩んでいる。手加減を誤れば大事になるが、ハーツイーズは慣れているうえ確実に相手が気絶しないよう痛めつけることが得意だ。問題はないだろうと考え、私は足音を立てないようにして図書室に向かった。
昼休みにカフェテリアの四人掛けテーブルで友人達と食事をしていると、後ろから声をかけられた。
「隣、座ってもいい? 他に席が空いてなくて」
振り向くと同級生のマジョラムが昼食のトレイを持って立っていた。その左頬に貼られた白いガーゼ、わずかに襟元から覗く首の痣、後ろで一本の三つ編みに結んだ紫色の髪についたわずかな砂を見て私は一人納得した。中庭でハーツイーズに抱かれていたのはマジョラムだったらしい。
「あらマジョラムじゃない。座りなさいよ。今日は欠席かと思っていたわ」
「朝からいなかったものね。そのガーゼはどうしたの?」
私が答えるより先に、向かいに座っていたメリッサと彼女の隣にいるジャスミンが口を開いた。曖昧に微笑んだマジョラムが伺うようにこちらを見てきたため、私は頷いて隣の空席に彼女を座らせる。腰を落ち着ける寸前、私が軽く髪についた砂を払ってやると身を強張らせた。
「砂、ついていましたよ。もしかして転んだんですか?」
「えっ……あ、そうなの。ありがと、棗」
私が嘘をつきやすい状態にすると、やや焦っていたようだったマジョラムはやけに明るく笑いながら遅刻の理由を喋った。
「実は今朝、ぎりぎりの時間に起きちゃって。それで慌てていたからかな、家を出てすぐのところで転んだの。左の頬だけ段差のところに打ったから病院まで行って、治療してもらったんだ。それで遅くなっちゃった」
メリッサとジャスミンは鵜呑みにしたようで、笑ったり心配の言葉をかけたりしていたが、本当のことを知っている私は何も言わなかった。途中で私が中庭でのことを見ていたとマジョラムに悟られたらどうしようかと思ったが、よく考えてみれば私にとっては特に利益にも不利益にもならないことだ。
普段は大人しく控えめな少女であるマジョラムが学校の中庭でハーツイーズと及んだことは合意だったのか強制的なものだったのか、デザートのオレンジを食べながら一人でしばらく考えていた。