四、エンプティ
私はその後も夜を歩き、身体の大きな子と遭遇するたび喧嘩をした。ひどい傷や痣を作ることがあっても、打たれ強さだけは誰にも負けない私が必ず最後に勝った。やがて仲間にしてほしいと少年達が寄ってくるようになったが、集団よりも一人で行動することが好きな私はやんわりと断った。大抵の子は一度断れば関わらなくなったが、中にはしつこく付き纏ってくる子もいる。昼間はちゃんと学校に通える中流階級の子供で、最近覚えたばかりの酒と煙草の味を自慢げに語っていた。わざわざ手を上げて追い払うのも面倒に思い、たまになら一緒に歩くことを許可した私は彼らからスラム街のことを教わった。
《男爵ホテル》よりさらに南にあるスラム街は、誰が名付けたのか知らないがエンプティと呼ばれている。エンプティは路地が入り組み、迷路のような場所で腐臭と暴力といかがわしさの巣窟となっている。重なる屋根に覆われ、通りからは見えない路地がいくつも潜み、形の不明確な建物が不気味に犇めき合っているのだ。
この街の住人は腐った野菜や果物、死んだ野良犬の肉、黴の生えた硬いパンなどを平気で口にする赤貧の人々だ。突然現れては群衆となったり、忽然と消えて人通りが途絶えたりする。そして饐えたミルクみたいな匂いがする路地の奥は夜は当然昼でも不気味な暗さがあり、それでいて人の気配が濃厚だった。私はまだ遭遇したことがないが、時折路地から痩せ細った犬や襤褸の布を申し分程度に纏った狂人が飛び出してくることもあるらしい。
どこにでも似通ったような建物があり、戸口があり、階段があり、それでいて一つとして同じではない。初めてエンプティに訪れた人間は間違いなく彷徨う羽目になる。私もエンプティを詳しく知る少年達と同伴でなければ、絶対に迷っていたはずだ。誰かに道を訊ねたところで、一人として正確には教えてくれない。ここの住人達は考えることが面倒なのだ。最早むき出しの本能にわずかな理性が引っかかっているような状態で生きている。迷った者に手を差し伸べる気は微塵もなく、必要性も感じていない。それでいて、必ずと言っていいほど好奇の視線を向けた。
そんな怪しくて危険なエンプティの虜になる人間は少なからずいる。私に付き纏う少年達も同様だった。
「ここでは普通の街ではできない遊びができるんだ」
彼らは私にエンプティのことを教えた後でそう言った。
「どんな遊びなんですか?」
「まあ、見ててよ」
一人の少年はポケットから銅貨を一枚取り出し、握り締めた。もう一人の少年も同じように銅貨を握り締め、二人は歩きながらも辺りをきょろきょろと見回していた。やがて先頭を歩いていた少年が足を止め、何かを指差して「あれにしよう」と言った。あれ、と指差されたのは地面に座り込むまだ二十歳にも見えない若くて痩せた女だった。元は白かったのだろうワンピースは薄茶色に汚れ、ところどころが破れている。靴下も靴も履いていない素足を投げ出し、虚空を見上げていた。長い髪は油で光って不潔だが、顔立ちはそこそこ整っているように見えた。
「おいお前」
二人の少年は女に近づき、持っていた銅貨を指で弾いてみせた。途端、淀んだ沼のようだった女の目に光が宿る。
「それ、あたしにくれるの」
「やることをやったらな」
「よくしてくれたら、食べ物もやるよ」
「わかったわ」
女が頷くと、少年達はズボンの前を開けた。女は犬のような仕草で一人の前に蹲り、顔をくっつけるようにしてそれを舐め始めた。もう一人には細い指を持つ手を入れた。私はその様子を離れたところで黙って見つめていた。しばらくして彼らは女を突き飛ばし、ズボンの前を閉めると銅貨を一枚ずつ投げた。一人がポケットから袋を取り出し、中に入っていたパンを細かく千切り始める。パンと言っても黴が生えた小さいものだ。それが地面にばら撒かれると女は銅貨と一緒にパン屑を必死で掻き集め、少年達は彼女をせせら笑った。どうやらこれが彼らの遊びらしい。気にせずパン屑を掻き集めた女は、そこで初めて気づいたように私を見た。
「黒い髪なんて珍しい子ね。……あら、あんたよく見たら女の子じゃない。いらっしゃいよ。あたしはどっちでもいいんだから」
下卑た笑みを浮かべ、女がゆっくりと近づいてくる。
「きみも舐めてさせてやりなよ」
一人の少年が言ったが、私はずっと黙っていた。そして皮と骨だけに近い棒切れのような腕が伸びてきた瞬間、私は女の腹を蹴った。手を使わなかったのは不潔なワンピースで汚したくなかったからだ。見るからに体重の軽そうな女は悲鳴もなく転がり、その先にあった木箱にぶつかってパン屑を散らかした。少年達はわっと声を上げて盛り上がる。何が楽しいのかわからなかったが、ここでなら昼間でも誰かと喧嘩をしても一切咎められない場所だということを察した。
「あなた達の遊びは、私には向かないみたいです」
帰り際に私がそう言うと、それまで盛り上がっていた少年は二人とも眉を下げて俯いた。
「でも、ここは面白そうな場所ですね。教えてくれてありがとうございます」
気を悪くさせてしまったかと思って付け足すと、すぐに彼らは笑顔に戻って頷いた。それ以来私はフェンネルに黙って、昼だろうと夜だろうとやることがない暇なときには一人でエンプティに足を延ばすようになった。