三、人間関係
《男爵ホテル》で働く男は、フェンネルを含むほぼ全員が私に優しく接してくれる。彼らのうち大半は時折ドロップやマシュマロといった菓子類を与え、他の男娼数名は自分が客の相手をするときに使う化粧道具を「使ってみろ」と言っては分けようとする。化粧に興味のない私が断ると、それでも強引に紅を唇や目尻に塗ってきた。
「ああ、やっぱり似合うよ棗」
「今まできみ以外に黒髪を見たことがなかったけれど、黒髪には紅の色がよく映える」
そう言ってくる男達の声や表情からは悪意が感じられず、私に紅を塗ってきたのはからかいなどではなく単純な好意なのだと理解できた。嫌いではないが、人から指を差されることが多い私の黒髪を褒めてくれているようで嬉しい。しかし化粧のことだけは、私からすればひどくどうでもいいことだ。
「こんなの似合いませんよ」
鏡の前に連れて行かれると、そこには唇や目尻が赤く染まった滑稽な顔の私がいた。化粧をした自分の顔はどうも好きになれない。だから私は彼らから解放されるとすぐに水で紅を洗い落とした。けれども時々飽きもせず私に紅を塗ってくる男は今でもいる。
また《男爵ホテル》で働く女は、半数以上が私を嫌っていて、ほんの数名が私を可愛がってくれる。私を嫌うのは醜い顔を持つ者や中年の女で、彼女達はどうやら容姿と若さに――決して私の容姿が恵まれているわけではないのだが――コンプレックスを抱いているようだった。私を可愛がってくれるのは若くて容姿もそれなりに整った者か年長者だ。
「支配人や男娼達に気に入られているからって調子に乗らないでほしいわ」
「なんであんな黒い髪の孤児なんか拾ってきたのかしら」
私を嫌っている女は決して表立って行動を起こすのではなく、私にぎりぎり聞こえる声で囁き合うことが多い。彼女達の掃除を手伝う際は一番汚れているものを押しつけられたが、それくらいは気にならなかった。
「何か言いたいことがあるならはっきり言ったらどうですか」
一度私が醜い顔の二人に向かってそう言ったとき、彼女達は顔を赤くして怒りの形相を浮かべ、その場を去っていった。太った体型と相まって、まるで赤蕪のようだった。けれどもあまり意味のない囁き声や嫌がらせは今でも続いている。
「あなた、本当に度胸があるわねえ」
「気にしなくていいのよ。彼女達はただ僻んでるだけなんだから」
私を可愛がる女はくすくす笑いながら慰めなのか感心なのかよくわからないことを言う。若い女は街での買い物を私に付き合わせ、自分達が着る服の他に私の新しい服を選んでくれたり、私の小遣いでは手が届かない本や星座早見盤を買い与えたりもしてくれた。年長者の女は男達と同様菓子類をくれるほか、自分の娘が成長して見向きもしなくなったが捨てられずに保管していたぬいぐるみやオルゴールなどをくれる。
「ありがとうございます。大切にしますね」
私が何かを貰って礼を言うと、決まって彼女達は小動物の相手でもするように私を撫で回し、抱きしめてきた。彼女達が纏う香水が鼻に突き、しばらくされるがままでいると私にまでその香水が移ることがよくあった。
十一歳になる頃には、私はもうすっかり《男爵ホテル》に慣れた。そして仕事や勉強をする必要がない日の夜は、外に出歩くことを覚えた。ホテルの人間は客の迷惑にさえならなければ特に何も言ってこない。誰かに教えられたわけでもないが、きっと私は孤児院から脱走した夜のことを忘れられずにいたのだろう。
あのとき、私は昼間息を潜めていたものたちの囁きが聞こえていた。草蔓の伸びる音、澄んだ露が零れ落ちる音、野良猫の忍びやかな足音。それらを包み込む深い闇は、気を抜いていると吸い込まれてしまいそうだった。店や住宅の窓から差し込む明かりが路上に落とす自分の影さえもが、見知らぬものに見える夜の世界。夜を歩くのは私にとってこの上ない楽しみとなっていた。
夜の市街には私と同じくらいか、やや年上の子供達が歩いている。身体の大きな子は、しばしば身体の小さな子を襲う。ポケットに入れているものを取り上げ、殴ったり蹴ったりして怪我を負わせている光景を何度か見かけた。そのうち小さな子達が家に泣きながら逃げ帰ると、大きな子達だけになる。小さなナイフや剃刀を携帯する彼らは、時折集団になって老人や弱々しい大人までも襲っていた。
私はそんな身体の大きな子達を避けるように夜を歩いていたのだが、あるとき集団の彼らに見つかってしまった。
「見ろよ、あいつ。黒い髪をしてるぜ」
「本当だ。あんなの見たことない」
「まるで悪魔の子だな」
「おい悪魔。ポケットにあるもの全部出せよ」
たちまち取り囲まれた。私は手を出される前に、すかさず正面に立った少年に思い切り頭突きをした。鼻を砕かれた彼が仰け反って悲鳴を上げると、他の仲間は一瞬浮き足だったがすぐに殴りかかってきた。私はナイフや剃刀を持つ子から順番に殴り、蹴り、頭突きを繰り返した。殴る場所は目元、顎、鳩尾を、蹴る場所は股間と脛を重点的に狙う。途中で服を少しだけ破かれたが気にしない。しばらく乱闘していると、身体の大きな子達は逃げ出した。
「逃げよう! あいつは危険だ!」
「やっぱり悪魔の子だ!」
時折よろめき、お互いにぶつかり合いながらも彼らは一目散に走り去っていった。
その後ホテルに戻るとフロントの女性従業員――私を嫌っている者だ――はこちらを見て顔を強張らせたが、何も言うことなくすぐに視線を逸らした。エレベーターや階段では誰かと遭遇することなく六階まで上がると、ちょうど自分の部屋に入ろうとしているフェンネルがいた。彼はドアノブから手を離し、驚きの表情を浮かべて私を見つめた。
「一体何があったんだい」
「外で身体の大きな子達と喧嘩をしました」
「相手は何人?」
「四人です。最初はあちらから声をかけてきて、最後もあちらから逃げていきました」
「そうか」
フェンネルは肩を竦めると私を部屋に招き入れた。そして服を脱ぐよう言いつけ、下着姿の私を椅子に座らせて治療を始めた。ふと近くの鏡に目を向けると、左の目蓋は青く腫れ上がり、手足の至るところには紫色の痣や細長い切り傷が散らばっていた。唇の端からは血が顎まで伝い、上から流れていた鼻血と途中で混ざり合っている。指で顎を撫でてみると、すでに赤黒い血は半ば固まりかけていた。腫れや痣に触れると、そこだけ熱を持っていることがわかる。
「まったく、棗はお転婆だな。いずれはなかなかの女傑になりそうだ。……痛くないのか?」
「痛くありません」
そう返した後で、孤児院での出来事を思い出した。今と同じような会話を職員相手にしたことがある。かつて同じ部屋で学び、遊び、眠ったあの仲間達は今頃どうしているのだろう。よく喧嘩をしていた少年はともかく、あまり接点のなかった少女達はもう私のことを忘れているのかもしれない。あるいは誰かに引き取られて、私のように新しい生活に身を置いているのだろうか。
「はい、終わり」
ぼうっと考え事をしているうちに、フェンネルは手際よく治療を済ませていた。彼は私の髪を軽く梳きながら左頬にキスして言った。
「さっさと眠りなよ。愛してる、棗」
「ありがとうございました、フェンネル。おやすみなさい」
自分の部屋に戻り、寝間着を着てベッドにもぐり込む。今自分が寝転んでいるのは孤児院にあった古くて安っぽいシーツを使った硬いベッドとは違う、上等なシーツを使った柔らかいベッドだと改めて実感した。目を閉じてしばらくすると、懐かしい孤児院時代の夢を見た。孤児院にいたときのことを夢で見たのは、後にも先にもこのときだけだ。