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二、男爵ホテル

 フェンネルが支配人を務める《男爵ホテル》は、官庁がすぐ近くにある駅前まで来て、噴水のある広場を通り抜け、真っ直ぐ南へ進んでいった先、もう少し行き過ぎるとスラム街の入り口に着いてしまう――そんな際どい場所に存在する。こぢんまりとした六階建てのそれは、フェンネル曰く「何の取り得もない一地方の小さな市」であるここではかなり有名なホテルらしい。その理由は、普通のホテルと違う特徴的な点――男娼館としての顔も持っているからだ。むしろ大抵の客は男娼目当てでやってくる。ここで働く従業員は男性が五十人ほどで、若い人も初老の人も綺麗な顔をしている者が多い。そしてその半数以上が老若男女問わずに相手をする男娼だ。一方女性はたったの十三人で、まだ学生のような若い人もいれば孫がいそうな年齢の人もいる。その中間くらいの年齢が一番多く、中には醜い顔を持つ人が二人いた。

 外はプールつきの広い庭が専属の庭師によって整備され、半地下の貯蔵庫にはたくさんの食糧があった。中は一階にフロント、娯楽室、食堂があり、二階から五階に客室が集まっている。そして六階は支配人のフェンネル、それからアンゼリカとベルガモットという名前の高級男娼が住む個人の部屋が存在していた。関係者以外は立ち入り禁止のため、このホテルのエレベーターは五階までしか上がらない。六階は五階にある階段のところに鍵のかかった扉で仕切られている。

 初めて私がここに訪れたとき、フェンネルはまず私に真新しい服と個室を与えてくれた。服は黒いリボンタイがついた真っ白なブラウスにフランネルの青い半ズボン、個室は六階に残っていた一室で学習机もベッドも猫脚バスタブが置かれたシャワールームもある。それらは孤児院育ちの私にとっては驚くほど立派なものだった。

《男爵ホテル》の全てを案内し、従業員に私を紹介した後でフェンネルは言った。

「棗。お前は明日から僕に従って働かなければいけない。今まで育ってきた孤児院とはきっと勝手が違うだろうが、ここで宿と飯にありつくために必要なことを教えてあげるよ」

「はい。よろしくお願いします」

 私が返事をすると、彼は微笑んで頭を撫でくれた。手つきは優しく、もし父親がいたらこんな感じだったのだろうかと一瞬思った。

 その日は食堂で夕食を与えられた。仮にもホテルの食堂で出されるだけあって、孤児院で食べたどの料理よりも豪華で美味しかったのを覚えている。食後にはキャラメルアイスクリームという今までに食べたことのないものを味わった。

 翌日から私は自分の仕事を覚え始めた。お茶の淹れ方、掃除や洗濯の手伝い、花瓶の水を変えるなどという簡単な雑用が主だったため一通りのことは三日ほどで覚えることができた。従業員、料理人、庭師は誰一人として支配人のフェンネルに逆らう気など到底ないらしく、子供の新参者である私を無条件で受け入れてくれた。

 新しい生活は孤児院にいたときよりも不自由することがなく、また幼い私にとってはかなり刺激的だった。十一歳の誕生日を迎えるよりも先に、男女の肉体的な交わりと男同士のそれを目の当たりにしたのはなかなか衝撃的だったと言える。《男爵ホテル》では私を含め、女性の従業員が客から手を出されることは一切ない。しかし例外として――あくまで合意の上だが――客の妙な嗜好に付き合わされる形として、客と男娼の交わりを眺めさせられたり、ベッドにうつ伏せた客の背に向かって男娼と一緒に鞭を振るったりしてはチップを受け取ることがたまにある。これも最初こそ刺激的かつ衝撃的な体験だったが、二回目が過ぎるとあっさり慣れてしまった。

 客と男娼の行為が終わりに近づく頃合いは、大抵の者がおよそ人間のものとは思えない――さながら獣のような悲鳴を上げた後だからすぐにわかる。けれども私には肉体的な交わりがこれほど彼らを夢中にさせるのは何故なのか全くわからなかった。

「性欲は子孫を残す本能から起きるものだと学びました。でも男の客はもちろん、女の客も子供が作りたくてここに来ているわけではないでしょう? それならば一体どうして皆あんなことをするのですか?」

 そういった行為を四回ほど目の当たりにして、幼心に疑問を覚えた私はフェンネルにそう質問した。すると彼はひどく複雑そうな顔をして口を開いた。

「気持ちいいことが好きなんだよ、ここに来る客はね。僕達はそれを商売としている」

「あれは気持ちのいいことなんですか?」

「いずれお前も自然と知ることになるだろうけれどね。いいかい、棗。食欲、睡眠欲、性欲――この人間の欲求には全て快楽がついてくるものなんだよ。例えば棗は美味しいものを食べることや綺麗な寝床で眠ることは気持ちいいと思うだろう」

「はい。それはわかります」

「つまりはそれと同じなんだよ。ここに来る客は誰も彼もが性欲を満たして気持ちよくなろうとしてるのさ」

「…………」

 彼の説明は概ね正しいような気がしたが、私を完全に納得させるほどではなかった。けれども「これ以上こういった話を追求されるのは面倒だ」と言いたげな表情をしているフェンネルを見て、私はそれ以上彼に質問するのをやめた。結局私は単純に、自分自身がまだ性行為を経験したことがないから理解できないのだと自己完結させた。


 

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