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十九、逃亡

 ハーツイーズやフェンネルが言っていた通り、サントリナを殺害した犯人はエンプティに住む四人の男女となった。その他にも削がれたサントリナの死肉を食べたと思われる住人も複数捕まったことも新聞に載っていた。けれどもエンプティは住人が少し減ったくらいでは何も変わらない。相変わらず腐臭と暴力といかがわしさで満ちている。

 そして歌姫が去った後、この衝撃的な事件に食いついた新聞記者達はしつこく《男爵ホテル》に入り浸っては話を聞こうと躍起になったが私達はそれをいないものとして自分達の仕事を続けた。やがて年を越えて冬期休暇が終わり、私がまた学校に通い始める頃には記者の姿は見えなくなった。冬期休暇が明けてすぐの頃は学校でもサントリナの死は生徒が話題にしていたが、それも半月と経たないうちにすっかり忘れ去られていった。



 突然ハーツイーズが学校に来なくなったのは、二月の上旬が過ぎた頃だった。最初は風邪でもひいたのかと思って特に気にしていなかったが、欠席が三日以上続くとさすがに違和感があった。次第に同級生達は教室の中心にある空席を指差しながら、熱病に罹って治療が長引いているのではないか、一人旅にでも出かけたのではないかと口々に噂をし始める。噂を新しく作り出す者、既存の噂のうちどれかを本気にする者と、学校の生徒は大きく二手に別れた。私を含めた少数派はどちらでもなく、ハーツイーズのことをあまり考えないようにしている。

「なあ、棗」

 ハーツイーズの欠席五日目の放課後に話しかけてきたのはセージだった。あの日以来私やハーツイーズと口を利くことがなくなっていた彼の不安そうな目を見て、私は質問されるより先に返した。

「ハーツイーズのことなら何も知りませんよ」

 セージは一瞬驚いた表情を見せた後に小声で「本当に?」と訊ねた。

「嘘をついて何か私の利益になることがあるのですか」

「…………昨日、心配だったからハーツイーズの家に行ったんだ。いつもなら家族で出かけていても家事使用人が対応に出てくるはずなのに誰も出てこなかった」

「確かにそれは不思議ですね。でも、私には関係ありません」

 そう答えるとセージはしばらく黙っていた。やがて彼はポケットから取り出した四つ折りの紙を開いた。何かのチラシらしいそれを私の机に置く。

「なんですか、これ」

「拾ったものだけど、余所で開かれる幻燈会のチラシだよ。ハーツイーズを誘おうと思っていたんだ。冬期休暇のときのこと、ちゃんと謝っておこうと考えていたから」

「それを何故私に」

「多分、ハーツイーズは俺と一緒に行ってくれない」

「私となら一緒に行くと思うのですか?」

「ハーツイーズが一番に姿を見せる相手は、きっと棗だ」

 セージはチラシをそのままに、友人達と一緒に教室を出ていってしまった。折り目がついたセピア色のチラシには大きく『星空の幻燈会』と見出しが書かれていた。今夜から一週間後の夜、八時から九時までやっているらしい。場所はここから東に向かう列車の終着駅、そのすぐ近くにある埠頭。内容は星座の神話が一度につき四話。このチラシを一枚持っていくだけで十六歳以下が二人、それ以上が一人入場できて、ラズベリーのリキュールが振る舞われるらしい。私はチラシを再び折り畳み、鞄の中に入れて席を立った。

 夜になり、私は財布とセージからもらったチラシをコートの内ポケットに入れて市街地の路地を歩いた。このまま一人で幻燈会が開かれる場所に行ってみようかと考えが浮かんだが、駅に行ったとしてもこの時間はもう貨物列車が通過するだけだろう。それでも私の足は自然と線路沿いの道を目指していた。

「!」

 不意に曲がり角で飛び出してきた相手と勢いよく衝突した。真っ黒なクロークを纏っていた人物と私はもつれるように倒れ込む。

「すみません。大丈夫ですか?」

 慌てて身体を起こし、まだ地面に転がっていた相手を抱き起こす。その拍子に相手が目深にかぶっていた黒い帽子が落ちて、隠れていたプラチナブロンドが輝いた。私を見上げた美しい顔は、間違いなくハーツイーズだった。思わず名前を呼ぼうとしたが、口を塞がれる。その表情は随分と疲労しているようで顔色が悪いことは暗がりでも明白だった。

「大きな声を出すな。気づかれる」

 ぎりぎり聞き取れるくらいの小さな声で、ハーツイーズは言った。よくわからないまま私が頷くと彼は手を離して立ち上がる。神経質そうな目できょろきょろと忙しなく辺りを見回すハーツイーズに、私は小声で訊ねた。

「どうして学校を休んでいたのですか」

「黙っていろ」

 そう言ってハーツイーズは私を睨みつけ、拾い上げた帽子を再びかぶる。

「もし何かから逃げているのなら、急いだ方がいいでしょうね」

「俺は何もしてない」

「――――原因は、あなたの両親ですか?」

 ヘリオトロープの瞳がわずかに揺れて反応したのを私は見逃さなかった。そのとき遠くから「見つけたぞ!」と叫ぶ野太い声が聞こえ、数人分の足音が近づいてきた。気づけばハーツイーズはすでに走り出していて、私もつられるように地面を蹴って彼に追いついた。後ろから徐々に足音と怒声が近づいてくる。道中すれ違う人がいないのは幸いだった。線路沿いの道まで出るとハーツイーズに腕を掴まれ、大きなドラム缶が積んである場所の裏に引っ張り込まれる。そこはちょうど線路が大きくカーブするいくらか手前で、列車がスピードを落とすところだった。足音が路地から出てきたようだが、私達に気づいていないのかこちらに近づく気配はない。隣で地面に腰を下ろしたハーツイーズは私と同様静かに息を整えている。目が合うと文句を言いたそうだったが、追手が近くにいるため声は出さなかった。

「あいつ、駅舎に逃げたんじゃないか」

「行ってみるか」

「ああ。お前は一応ここで見張っていろ」

 どうやら追手は三人の男で、二人は駅舎の方へ走っていった。一人がまだ近くにいるため私達は身動きができない。そのうち見張りが煙草を吸い始めたらしく、風が吹くと煙の匂いが鼻についた。何かが闇の中で光り、首を動かしてみると表示灯を点した列車が見えた。駅舎を通過する貨物列車だ。段々とこちらに向かってきている。私は自分の中に浮かんだ一つの考えを伝えようとハーツイーズの耳元で囁いた。

「ハーツイーズ。毒を食らわば皿までという言葉を知っていますか」

 彼は、私が列車の向かってくる方向を見たことで察したらしい。

「本気か」

「あなたと私なら平気ですよ」

 私が微笑むとハーツイーズは珍しく面喰ったようだった。けれどもすぐに私達は立ち上がり、線路の方へ歩き出す。やがて貨物列車がカーブに差しかかるため、スピードを落とした。連結部分が大きく開き、車体が傾ぐ。地面の震動が身体に伝わると同時に、今までにないほど集中した私はハーツイーズと呼吸を合わせて跳んだ。それぞれ連結部の冷たい梯子を掴む。一瞬の衝撃を感じた後にごうごうと強い風が髪を嬲り、体温を奪うが構わず梯子に足をかけ、貨車の上によじ登った。幸運なことに無蓋で中には木材が積まれていた。人が入る空間も十分にある。振り返るとハーツイーズはもうすでに貨車の中に入ったらしく、姿が見えなかった。私も貨車の中――木材の間に滑り込む。これからのことを考える間もなく、急激な睡魔に目を閉じて座り込んだ。とりあえず一つだけわかっていることは、私とハーツイーズは逃げ出したということだけだった。


 

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