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十六、水葬

「ねえ、どこに行くつもりなの」

 夜になって通用口を出たところで、後ろから声をかけられた。鼻にかかったようで高く、どこか甘えるような声。もう覚えてしまったサントリナのそれに振り返る。

「お客様は正面玄関の方から出てください」

「質問の答えになっていないわ。こんな時間に寒い外に出るなんて何か特別の用事なのね?」

「夜を歩くだけですよ」

「へえ、なかなか詩的じゃない。あたしもついていくわ」

 サントリナは私にその場で待つように言い、高級そうなコートとマフラーを身に着けて戻ってきた。

「お母様は許したのですか」

「ちょうど寝酒を飲んでいるところだったから、許可なんてなくても問題ないわ。朝までに戻ればいいのよ」

 私は仕方なく彼女と連れ立って夜を歩くことにした。

《男爵ホテル》を出てすぐエンプティに足を踏み入れると、サントリナが不快そうな顔で私の袖を掴むようになった。私は気にせず歩き続ける。

「嫌な匂いがする……。ここってスラム街? どうしてこんなところに来るのよ。もっと綺麗な場所を案内してくれるかと思ったのに」

「嫌なら今からでも帰りますか?」

「そんなことは言ってないわ」

 サントリナの口振りは気丈だったが、時折地面に倒れたままの人を踏んだりふらついた足取りの人が倒れ掛かってきたりしては悲鳴を上げた。身体が震えていたのは寒さだけが原因ではないだろう。

 いくつかの似通った路地を抜け、階段を上がったところで明かりが一つもない荒廃した資材置き場のような場所に出ると、そこに一人の少年が古びた木箱に座っていた。ジュースか酒か、紅色の液体を壜から飲んでいる。相手は私達に気づくと壜を木箱の上に置いてこちらに近づいてきた。月明かりが差し込んで少年の顔がはっきり浮かび上がる。ハーツイーズだ。

「棗がサントリナを連れてくるなんて予想外だった」

「あたしのこと知ってるのね」

「そりゃあ有名だからな。母親が」

 最後の付け足しに釈然としていないようだが、サントリナは嬉しそうだった。私の袖から手を離すとハーツイーズに近づいていく。

「あなた、こんな暗がりでもわかるくらいに綺麗な顔をしているわ」

 皮肉な笑みを浮かべたハーツイーズはサントリナのマフラーを掴み、いきなり触れるだけのキスをした。一瞬驚いた表情を見せたが、もう一度ハーツイーズが顔を近づけると彼女は自分から唇を重ねた。二人はお互いの背中と腰に手を回してキスを繰り返している。私は足音を立てないようにしてこの場を去ろうとしたが、ハーツイーズが目敏く見つけた。

「おい。どこに行こうとしているんだ」

「どこに行っても私の自由でしょう」

「戻れよ。蝶が薔薇から離れるな」

 その言葉に昨夜見た夢の内容を思い出した。私がそのまま足を止めていると、ハーツイーズに抱かれたままのサントリナが不満そうに言った。

「ねえ、どうしてあの子を呼び止めるの。あたしの方が楽しませてあげられるわよ」

「…………それ、誓えるか? お前が棗よりも俺を楽しませることができるって」

 私に向けられていたヘリオトロープの瞳がサントリナを見下ろす。すると彼女は高慢な笑みを浮かべて深く頷いた。

「ええ。あなたになら誓ってもいいわ」

「そうか。それはよかった」

 刹那、サントリナの身体が飛んだ。地面に倒れた彼女は呆然としていたが、自分の鼻孔から流れてきた血に触れてようやくハーツイーズに殴られたことを理解したらしい。さっきまでの媚びるような表情を顔から消して狼狽し始める。

「な、何……どうしていきなり――」

「俺を楽しませることができると言ったのはサントリナだ。誓ってもいいんだろう」

「あなた、女に暴力を振るうの?」

「くだらないことを言うな。人間なんて男も女も老いも若いも関係なく、人間だろうが。どうして男は殴っていいのに女は駄目なんだよ。それに俺と棗はいつもこうして仲良く遊んでいるんだぜ」

 するとサントリナは精一杯相手を蔑むような表情を作り、立ち上がった。コートの汚れを気にしながら、ハーツイーズから三歩ほど離れたところまで後退する。

「ハーツイーズ。自分が誰に手を出したかわかっていないようね。あたしは明日から公演を開く有名な歌姫の娘よ。このことをママに言えば公演は中止にできるし、そうすればあなたの両親はすごく困るでしょうね。今なら誠意を込めて謝って……それから、靴でも舐めたら特別に許してあげようかしら」

 しかし脅迫めいた言葉も挑発的な眼差しもハーツイーズにとってはちっとも堪えないらしく、彼はサントリナの言葉をうるさそうに聞きながらズボンのベルトを外していた。それを見たサントリナはどう解釈したのか、幾分か表情を和らげた。

「言っておくけど、あたしはこんな臭くて汚い場所は嫌いなの。どうせならホテルの――」

 ぶん、と風を薙ぐような音が聞こえた次の瞬間、サントリナが短い悲鳴を上げて倒れた。すぐに起き上がろうとはせず両手で右目を覆って悶えている。ハーツイーズが鞭のように振るったベルト、その金具が直撃したらしい。目は急所だから相当の痛みだろう。どれほどの痛さなのだろうか、と気になるが私にはそれを想像することができない。

「誰か! 誰か医者を呼んでよ! 助けて! 右目が見えないわ……っ」

 ようやくハーツイーズが危険な少年だと気づいたらしい。サントリナは右目を手で覆ったまま叫び、ハーツイーズから距離を取った。けれどもエンプティではどれだけ助けを呼ぼうと善意ある一般市民が訪れていない限りは無駄だ。この市では常識であるそのことを知らないサントリナは必死に声を張り上げていたが、さらにハーツイーズからベルトを振り下ろされ、金具が頭に当たってまた悲鳴を上げる。彼女は震える足で立ち上がり、私の方に突進してきた。

「棗!」

 私は黙ってサントリナを抱き止める。右目を覆う手の下からはどろりとした血が流れていて、ムスクの香水よりも鉄錆じみた匂いが彼女から強く漂っていた。血だけでなく涙や鼻水に塗れた顔はぐしゃぐしゃで、あの鋭角的な美しさはどこにもなかった。見るとハーツイーズは冷笑を浮かべ、ベルトをズボンに巻き直していた。

「あなたのせいよ!」

 突然サントリナが叫んだ。怯え切っていた表情から一変した彼女の顔は見たことのない怒りに歪み、マラカイトグリーンの瞳は私を睨みつけている。

「あなたがあたしを嵌めたのね? こんなに恥をかかされたのは生まれて初めてだわ! 絶対に許さない!」

 血で汚れていない左手で私を押し退け、そのまま殴りかかってきた。だがまともに殴り合いの喧嘩などしたことがないのか彼女の腕力は弱い。片手しか使えていないということもあるのだろうが、それにしても殴り方が下手だ。サントリナは今まで殴り合いをしない代わりに自分の社会的地位を権力として振り翳していたのかもしれない。ハーツイーズとは全然違う。

 私が左頬を殴るとサントリナはまた倒れる。口の中を切ったのか歯が折れたのか、彼女の口からはみるみる血が溢れ出してきた。しばらく蹲ったまま動かなかったが、不意に弾けるように立ち上がった。震えているのは寒さでも恐怖でもなく、怒りが原因だろう。

「いい気にならないでよ、棗。今日のこと絶対に後悔させてやるから!」

 言い捨てると同時に走り出す。しかしその姿は私からそれほど離れていないところで急に体勢を崩し「えっ?」と素っ頓狂な声が上がり、それは絹を裂くような悲鳴に変わって遠のいた。直後に硬いものがぶつかり合う音が断続的に響き、あっという間もなく次は沈黙が訪れる。

 サントリナは私達がここに来るまでに上ってきた階段から落下した。

「棗」

 ハーツイーズがいつの間にか私のすぐ後ろに立っていた。左手にはあの木箱に置いていた壜が握られている。いきなりキスをしたかと思うと口の中に舌を入れてくる。抗おうとしたが力の強い彼からは逃れることができずに諦めた。彼の舌からはルイボスのところで飲んだ柘榴の果実酒と同じ味がした。

「下りてみようぜ。血は踏むなよ」

 ハーツイーズがズボンのポケットから取り出したマッチを擦り、それを明かりにして私達は慎重に階段を下りていった。三十段はある長い階段だ。その一番下でサントリナの死体が転がっていた。一目見ただけでもほとんど原型を留めていない頭やそこから広がる血の海を見れば彼女がもう生きていないことくらいわかるだろう。何より私達が絶えず吐き出す白い息が開いた口から出ていないのだから。手の指は変な方向に折れ曲がり、露出した肌は擦り傷だらけだ。目は開いたままだが右目は血で汚れてよくわからなかった。

「ふん。やっぱり死んだか。初めて見たときから長生きしそうにないと思っていたけれど、実際目の当たりにしてみると随分呆気ないな」

「そう言うハーツイーズも長生きしそうには見えませんね」

 ハーツイーズは鼻で笑うと血の海を踏まないよう跳び越えた。私もそれに続いたところ、まだサントリナの死体を眺めていた彼が訊ねた。

「これ、どうする」

「どうする、とは」

「このまま置いておくつもりか」

「駄目なんですか? なら――」

 私はここから近いところに存在する水路を思い出した。流れているのは決して澄むことのない泥の色に濁った汚水で、空き壜やブリキの缶などが泡や油などと一緒に浮かんでいる。時折野菜や果物の皮、卵の殻なども見かけたが、それらは次に水路を通る頃にはもうなくなっていた。エンプティなら汚水に浸かったものだろうがそれくらい平気で食べる住人もいるからだ。わざわざ水路に捨てられる残飯を狙う者もいる。

「近くに水路があることですし、水葬はどうでしょう」

 ハーツイーズは一瞬きょとんとしたが、ふっと口元を緩めた。

「なかなか面白いことを考えるな」

 そう言って、死体の首に巻かれたマフラーの血がついていないところを掴んで引っ張り始めた。ゆっくりと死体が動き出す。目で促された私も黙って彼を手伝った。ずるずると血の跡が伸びていき、死体の首は軽く吊り上がる形になって揺れる。カシミアらしいマフラーはしなやかで伸縮性があり、途中で千切れたりしないだろうかと思ったが私達はそのまま死体を水路の傍まで持っていくことができた。呼吸を合わせ、私とハーツイーズは右足で死体を水路に落とした。派手な水音が響き、波紋が広がる。死体は完全に沈むことなく、ちょうど仰向けになった顔が水から出ていて、醜く腫れ上がった顔が今だけわずかに美しさを取り戻しているようだった。強い腐臭を放つ汚い水路の中に浮かぶ死体。それにも関わらず、私は水葬されたばかりの死体にひどく惹かれて見入った。もちろんこれは正しい手順で行われた水葬ではない。だがそんなことは関係なかった。

「棗。もういいだろう」

 水路から離れようとしない私の腕をハーツイーズが強引に引っ張った。彼は水葬という私の提案を「面白いこと」と言っていたが、どうやら実際目の当たりにしてそれほど魅力を感じなかったらしい。

「ハーツイーズ。あなたが死んだときには、私が水葬してあげますね」

「馬鹿馬鹿しい」

 私達は水路を振り返ることなく他愛のない話をしながらエンプティを歩き回った。やがてある程度の時間が過ぎ、別れの言葉もなく自然と自分達の家に帰った。


 

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