十五、非日常
「お疲れ様、棗。夕食が終わったらもう休んでいいよ」
ロビーのテーブルを拭き終わるとフェンネルが声をかけてきた。
「さすがに男娼を指名してくる初見の客はいなかったようですね」
「まあね。それでも客室はもうすっかり満室。こんなこと初めてだ」
フェンネルは包帯を巻いた私の頭をじっと見つめていたが、どうしてこうなったのかと訊ねることはなかった。ハーツイーズが来ていたことから大体の事情を察したのだろう。
その後私は食堂で夕食を済ませ、すぐにでも休むため自分の部屋に向かおうとしたがそれは叶わなかった。エレベーターで五階まで上がり、仕切りの鍵を開けようとしたそのとき思いがけずサントリナに捕まったからだ。
「ちょっと。棗」
「……なんですか」
「彼は誰なの?」
彼、と言うのが誰を表しているのかすぐにわかった。
「同級生のハーツイーズ。市長夫妻の一人息子ですよ」
「何それ。市長の息子なら、どうしてママとあたしが自分の両親と話しているときに同席していなかったのよ」
「必ず同席しろとは言われていなかったんでしょう。あなたが母親の隣にいたのは無理矢理引っ張り出されたからなんですか?」
「それは、違うけど……」
若干不満そうだったサントリナはすぐにまた口元に笑みを浮かべた。
「あなたは知らないと思うけど、あたしには同年代でも役者として有名な知り合いが多くいるの。でも、彼ほど綺麗な容姿は見たことない。こんな田舎にいるのが不思議なほどだわ。あたしやママが口添えしてあげたら、すぐにでも首府の大舞台で拍手喝采を浴びる存在になれるわよ」
「きっとそうでしょうね」
「…………ねえ」
サントリナは首を斜めに傾げ、私との距離を縮めた。お互いの吐息が感じられそうになり、強くなったムスクの香りに私が一歩下がると彼女も一歩踏み込んできた。背中に鍵の開いていない仕切りが当たって、追いつめられる。サントリナはすぐ横の壁に右手をついて意地悪そうな微笑を浮かべた。自分が優位だと信じている者の顔だ。
「ハーツイーズだったかしら。彼、素敵ね」
「ええ」
「あなたとあたしだったら、絶対にあたしの方がいいわよね」
一体何が「いいわよね」なのか、訊こうとしてやめた。
「そうかもしれませんね」
「へえ。ちゃんと弁えているのね。ひょっとして棗、女性の方が好き? 今この状況に興奮していたりするのかしら」
私は首を横に振って溜め息をついた。
「言っておきますが、私とハーツイーズはただの友達です。恋人ではありませんよ」
「あら、そうなの」
意外そうに目を瞬かせ、サントリナは満足そうに微笑んで頷いた。
「それじゃ、おやすみなさい」
彼女はそれだけ言うと後はもう用はないとばかりに踵を返し、客室へ戻っていった。私はいつも以上に疲れた心地で六階に上がる。
「あ、棗。お疲れ様」
「お前どうしたんだ、その頭」
ちょうど廊下で談笑していたアンゼリカとベルガモットに声をかけられた。《男爵ホテル》が誇る見目麗しい高級男娼二人が並んでいる様子は息を呑むほど絵になる。五年かけて慣れてきたはずの私もこのときばかりは気が抜けていたのか、しばらくぼうっと二人を見つめて返事が遅れてしまった。
「ハーツイーズが柚子丸を殴ろうとして、それを庇ったらこうなりました」
「でも治療を急いでいたのはきみよりもハーツイーズの方だったけれどね」
おかしそうに笑うアンゼリカとは対照的に、ベルガモットは苦虫を噛み潰したような顔になった。彼は包帯を巻いたところを危なげな手つきで撫でる。
「殴っただけでこんなことになるのか。末恐ろしいな、あいつ」
「今でも十分恐ろしい少年だけどね」
「殴ったと言っても素手ではありませんよ。流行りの腕時計を巻いた手の甲で殴られました。それに血も軽く流れただけです」
それを聞いて二人は顔を見合わせ、苦笑した。
「まあ、早くベッドで横になれよ。俺達も今夜はすぐに眠る」
「おやすみ、棗」
「はい。おやすみなさい」
今夜は外を出歩く気も星座を眺める気も起きないため素直に頷いておく。二人と別れて部屋に入り、シャワーを浴びるとさっさとベッドにもぐり込んで目を閉じた。
不思議な夢を見た。
私は自分自身が裸でベッドの上にうつ伏せているのを、上から見下ろしている。首を捻ることも鏡に映すこともなく、背中に彫られた黒い蝶がはっきりとよく見えた。どこからともなく甘い花のような香りが漂っている。ベッドの私は眠っているのか身動ぎ一つしない。それをしばらく眺め続けていると、不意に黒い蝶が私の背中から離れてひらひらと舞い始めた。蝶が離れた途端、そこからはどす黒い血が溢れ出して白いシーツを瞬く間に汚していった。それでもベッドの私は動かない。もしかしたら死んでいるのかもしれない。そう考えたときに、目が覚めた。
「…………」
完全に覚醒し切っていない頭は夢の内容を覚えている。私は思わず寝間着を上半身だけ脱いで、背中の刺青を確認した。黒い蝶が六頭全て、そこにちゃんと存在している。何故かそのことに安堵して欠伸が出た。
窓から見える空はまだ黒い天鵞絨を敷きつめていた。時計は午前四時過ぎを示している。もう一度眠るには十分な時間だがその気が起きず、私は身支度を整えると一階の食堂に向かった。そこに客はいなかったが、朝食中の従業員が数人いた。
「おはようございます」
「やあ。おはよう」
「おはよう、棗。今日は早起きだな」
「お前も今から朝食か?」
「いえ、まだお腹は空いていませんから後でいただきます。今朝は妙に早く目が覚めたので、何かすることがないかと思ってきたのですが」
「それなら厨房で必要な食材を聞いて、貯蔵庫へ取りに行けばいいんじゃないかな」
「わかりました」
厨房では朝食の準備を始める料理人が動き回っていた。私は彼らから言われた食材を手帳に記し、貯蔵庫の鍵と持ち運び用の籠を二つ持って厨房の戸口から外に出た。《男爵ホテル》の半地下にある貯蔵庫の扉を開けると階段があり、弧を描きながらさらに地下へと続いている。扉が開いても直接日光が入ってこない構造だ。いくつかの通気口で風を通しているため湿気も少なく、夏はひんやりとしていて過ごしやすい。フェンネルに拾われた翌年の夏、ここに忍び込んで涼んでいたところを料理人とフェンネルから怒られたことがある。
明かりをつけると、真っ暗な暗渠のようだった貯蔵庫が急に眩しくなった。手前の方は壜詰や罐詰などを並べた棚がある。先に行くともう少し冷えていて卵や野菜、果物などが保存されていた。私は手帳を片手に食材を籠に入れていく。一番奥まったところには密閉型の分厚くて頑丈な扉があり、そこが肉や魚を保存しておく冷凍室の入り口となっている。私は食材で満ちた籠をその場に置き、扉の横に掛けてあった厚手の防寒服を着込んで中に入った。外よりもずっと冷たい空気が満ちていて、自然と歯が震えてかちかちと音を立てる。自分の吐息が凍ってしまいそうだ。料理の知識はあまり芳しくない私にとって魚や肉はどれも同じように見え、急いでここから出ようと思うのに時間がかかった。ようやく手帳に書かれていた魚と肉を籠に入れて冷凍室を出る頃には手が真っ赤になっていた。
「よし、間違えていないな。ありがとう棗」
「この時期は皆、冷凍室に行くのを嫌がるんだ」
「今日は客も多いから食材も重かっただろう。助かったよ」
二つの籠に入れた食材を厨房へ届けると、料理人の一人がご褒美と称して温かいチョコレートにマシュマロを乗せたものを作ってくれた。マグカップに入ったチョコレートとフィグ入りシリアルの器を持って食堂に向かい、すでに従業員がいなくなった静かな席で朝食を取る。冷え切った身体がチョコレートで温まっていくのが心地よかった。私がシリアルを食べ終える頃には早く起きた客が食堂に訪れ始めた。恐らく首府の方から来たのだろう人達はどこか澄ましていて、一様に高級感を漂わせる服に身を包んでいる。
「あの子、変な髪の色をしてるわね。まるで黒いインクでもかぶったみたい」
「まあ。瞳も黒いわ」
「悪魔が人間に成りすましているのかもしれないぜ」
「昨日も見たよ。ここで働いているらしいけど、薄気味悪いな」
初見の客にとっては非常に珍しい容姿の私は無遠慮な視線に晒され、急いで食堂から出た。
歌姫の公演が目的である客はそのまま連泊して、公演さえ終われば足早に《男爵ホテル》を去っていくだろう。その後はまた普段と変わらない男娼目当ての客が足を運ぶ静かな日常が戻ってくるはずだ。《男爵ホテル》が繁盛して、フェンネルが喜ぶのは私も嬉しい。けれども一方で、早くいつもの日常が戻ればいいのにと思う気持ちもあった。




