十四、異邦人
ちょうどマフィンを食べ終えたと同時にホテルの前まで来た。通用口から入ると、フロントでは従業員が来客の対応に追われている。歌姫の公演を目的に、早くからこの一地方の小さな市にやってきた外の人々だ。
「おかえり棗、随分遅かったじゃないか。気のせいかな。シナモンのいい匂いがする」
執務室に入るなりフェンネルにそう指摘された。別に寄り道をせず早く帰ってこいと言われてはいなかったが、久しぶりに叱られたような気分だった。
「ヒソップの……孤児院での馴染みが引き取られたパン屋に寄りました」
「そうか。だが今日から数日は恐らく今までにないほど忙しくなるだろうから気をつけてくれよ。その薬は僕がしまっておくから、お前は五階までお茶を運びに行ってくれるかい」
「わかりました」
「あ、先に言っておくけど――」
踵を返した私にフェンネルが予想外の言葉を告げた。
「ついさっき歌姫が娘と一緒に来て五階を貸切にしたよ」
厨房で手渡された盆には紅茶だけでなく焼き菓子まで用意されていた。エレベーターで五階まで上がり、すぐ目の前にある客室の扉をノックする。
「入って」
短く返された声は随分と若い。恐らくは歌姫ではなくその娘だろう。客室に入ると高級そうなベロアの赤いドレスを着た女がソファーに座り、鑢で爪を整えていた。橙色にも見える明るい茶髪は前髪を軽く切り揃えて他はまとめて結い上げている。十代後半くらいだろうか。化粧もしている様子から大人っぽく見えるが身長は私と変わらないようだ。
「あら。あなたみたいな子がここで働いているの?」
私に気づいた彼女は驚いたように訊ねた。それから黒髪と黒い瞳に興味を持ったのか、じっとそのマラカイトグリーンの瞳で見つめてくる。
「はい。棗といいます」
「いくつ?」
「十五歳です」
テーブルに置いたティーカップに紅茶を注ぎながら答える。シャワールームの方から水音が聞こえるのはきっと歌姫が入っているからだろうと考え、とりあえずはこの質問をしてくる娘の分だけ用意した。
「あたしとほとんど変わらないじゃない。あたしはサントリナ、十六歳よ」
サントリナはややつり上がった目と細く高い鼻を持つ整った顔立ちだが、そこに自尊心の高さが滲み出ている。明るい口調で喋りながらもこちらを端々に見下しているような態度が窺えた。柔らかい印象の桃葉とは違って彼女は若干鋭角的な印象の美人だ。香水をつけているのか、ムスクのような香りが漂っていた。
「随分子供っぽい――いえ、少年っぽいのね。髪は短いし、半ズボンだし、化粧も全然してないの?」
「ええ」
「十五歳にもなって何をやっているのかしら。ちょっとこっちに来なさいよ」
言われた通りテーブルを迂回してサントリナのすぐ傍に立つと、彼女はドレスのポケットから小瓶を取り出して中の液体を私の襟元に吹きかけてきた。小瓶に貼られたラベルの文字を見て、やはりこれがムスクの香水なのだと気づく。
「あたしは今までママが公演を開くたび一緒に色んなところへ行ったけど、こんな何もない地方は初めてよ」
「そうですか」
「このホテルを選んだのだってここが一番まともだと思ったからよ。たった四件しかないうえにどれも小さいわ。しかも食堂が客専用じゃなくて従業員も使うなんてどうかしてる。あたしとママの住む屋敷がある首府ではどれだけ小さいホテルでも十階はあるの。でも従業員の男はなかなか綺麗な顔ぞろいなのね」
随分と饒舌らしいサントリナは母親がシャワールームから出てくるまで私を相手に話し続けた。母親も彼女と同じ鋭角的な美貌の持ち主で、明るい茶髪とマラカイトグリーンの瞳を持っていた。胸は大きく胴はくびれ、肌は滑らかで三十代後半には見えない若々しさを放っているが桃葉には勝てないだろう。そんなことを考えながら、ようやくサントリナの話から解放された私はもう一人分の紅茶を注いで客室から出た。夜中に客からの要望で男娼との行為を見せられるときよりも疲れた気がする。
従業員の一部は私が一階まで下りると歌姫はどうだったかと口々に訊いてきた。
「シャワールームに入っているときだったので、まともに見ていません」
そう適当な嘘をついて盆を厨房に返した。フェンネルに次の仕事を言いつけられるかと思っていたのだが、執務室の中にも外にも彼の姿は見つからない。私は庭に出て、枯葉の掃除をしている柚子丸を手伝うことにした。ワームウッドはかなり離れたところの花壇に一人でしゃがみ込み、真っ赤なポインセチアの手入れをしている。
「姉さん。有名な歌姫がここに泊まっているって本当?」
「柚子丸も興味があるんですか?」
「ううん。色んな人が同じ話題ばかり話しているから、ちょっと気になっただけ」
「本当のことですよ。私がこの目で見ました。何より先ほどお茶を運びに行きましたし」
「へえ。……そう言えば姉さん、香水でもかけた?」
「かけられました」
「誰に」
「歌姫の娘にですよ」
「よかった。姉さんが自分から香水なんて使うのは似合わないと思う」
「奇遇ですね。私もですよ」
くすくすと笑っていた柚子丸の表情が不意に、はっと強張った。向き合った私の背後に何かが見えているのかと思って振り返ると、冷笑を浮かべるハーツイーズが立っていた。今日は瑠璃色のトレンチコートではなく白いドレスシャツの上にチョコレート色のカーディガンだけを着て、細い印象のある黒いスラックスを履いていた。どんな服装でもハーツイーズが着ればよく似合っているように見えるのは、やはり彼が美しい少年だからなのかもしれない。
「何の用でここに来たんですか?」
「冬期休暇に入ってから全然会えていなかっただろ。寂しがっているかと思ってな」
「あなたは姉さんの友達じゃないくせに」
柚子丸が私のすぐ傍に近づいて、ハーツイーズを睨み上げるようにして言った。それに対してハーツイーズは至極どうでもいいものを見る目つきで柚子丸を見下ろす。
「チビ、お前は俺と棗の関係をちっとも知らないだろう。どうせ棗の性格からして学校であった出来事をぺらぺら喋るわけがないだろうしな」
「ぼくはチビじゃない。庭師見習いの柚子丸だ。もったいぶって何が言いたいの、ハーツイーズ」
「俺達はお前が思っているよりもずっと仲良しな友達なんだぜ」
柚子丸が勢いよく私の方を向いた。私が黙って首肯するとそれだけで彼の表情は傷ついたものに変わる。それから急に眉を寄せ、怒った顔をハーツイーズに向けた。
「チビが仲間にしてほしいって言うなら、考えてやってもいい」
「結構だよ。あなたがここに来た目的が姉さんへの挨拶なら、さっさと帰って」
「それだけじゃない。明後日から公演を開く歌姫がここに泊まっているだろ。両親が今のうちに挨拶を済ませておこうってことで一緒に来たんだ。今頃ロビーで会っているよ。新聞記者もいるだろうな」
ハーツイーズは話をしながら両腕を後ろに回した。彼を見上げる柚子丸は気づいていないようだが、私の目にはハーツイーズがいつも右手首――刺青が隠れない位置に巻いている腕時計を緩める様子がわかった。ガラス面がカボションカットされた月長石を想わせるその腕時計は、中流階級以上の少年少女ならほとんどが身に着けている流行りものだ。私は持っていないが、友人のものを見せてもらったところ、裏側は透けていて歯車の動きがよくわかった。見た目の繊細さに反するように結構丈夫であることも人気の一つらしい。
「ただ俺は同席する必要がないから、お喋りな両親が歌姫との挨拶を終わらせるまでここで時間を潰す必要があるのさ」
「姉さんは今忙しいんだ。あなたの時間潰しに付き合う暇はないよ」
「二人で談笑する暇はあるのにか。そんなに俺を姉さんに近づけさせたくないなら、チビが一人で相手をしてくれるのか」
ハーツイーズの言葉が終わらないうちに柚子丸の前に立った瞬間、左の蟀谷と額の境目辺りに硬い衝撃が走る。ハーツイーズが手の甲にガラス面がくるよう調節した腕時計だ。ガラスが砕けた音はしなかった。眩暈がして、そのまま地面に膝をつく。手を持っていくと殴られたところが妙に熱を持っていることと血が流れていることがわかった。
「姉さん!」
柚子丸が泣きそうな声を張り上げる。それに気づいたのか離れていたワームウッドが私達の方に駆け寄ってきた。相変わらずの無表情だ。
「姉さん、血が……。どうしよう親方」
「慌てるな。まず止血させろ」
何食わぬ顔で腕時計の位置を直しているハーツイーズを一瞥して、ワームウッドはそう言った。けれども自分の仕事にだけ専念する人柄で、他とは極力関わり合おうとしない彼はこのような出来事を対処するのには向いていない人間だ。
「ワームウッド、私は大丈夫です。自分で治療できますから、あなたと柚子丸は仕事に戻ってください」
私が立ち上がって言うと彼は異議を唱えることなく頷いて、再びポインセチアの花壇に戻っていった。けれども柚子丸はすぐに私から離れようとはせず、ハーツイーズを睨んだ。
「やっぱりあなたは最低だよ、ハーツイーズ。何が仲良しな友達だ」
「棗だって同意したことを忘れるな。俺が治療してやるから、チビは姉さんに言われた通り仕事に戻れよ」
ハーツイーズは柚子丸を小突き、私の手を引いて歩き出した。振り返ると、柚子丸は箒を持ったまましばらく私達を見つめていた。やがて枯葉の掃除を再開する。
「従業員が使う入り口はどこだ」
「あそこの通用口です」
私が示した通用口に向かってハーツイーズは歩いていく。手を引かれる私もそれに従って足を動かす。ホテルの中に入ると、ロビーにあるソファーで歌姫と市長夫妻が向き合っているのが見えた。周囲にいるカメラや手帳を手にした人達が新聞記者なのだろう。市長の隣では嬉しそうな表情のフェンネルが、歌姫の隣では退屈そうな表情のサントリナが座っていた。
「棗。どうしたんだその傷は」
通りかかったアンゼリカが目を丸くした。しかし私がわけを話すよりも先にハーツイーズがいることで事情を察したらしい。自分の質問が愚問だったと言うように小さく嘆息する。
「ただでさえ忙しいんだ。あまり騒ぎは起こさないでくれよ」
「あんたがここの高級男娼だな。薬はどこに置いてある」
「従業員専用の休憩室にあるよ」
アンゼリカに言われた通り休憩室に向かう。そこは白い壁に囲まれた簡素な部屋で、仮眠用のベッドと二脚の椅子、円卓、戸棚くらいしか置いていない。ハーツイーズは私をベッドに座らせると自分は戸棚から薬箱を取り出した。
「あのチビ、お前の弟なのか。全然似てないな」
「柚子丸がそう呼んでいるだけです」
「ふうん。……髪を上げろ」
ハーツイーズは消毒液を含ませた脱脂綿で傷口を拭い、軟膏を塗った上からガーゼを貼るとさらに包帯を巻いた。やり過ぎなのではないかと思ったが口には出さない。それよりもハーツイーズが治療に手慣れていることが意外だった。今まで私が怪我を負ったときに治療をしてくれたのはフェンネルが多く、彼が忙しいときには自分で桃葉から教わりつつなんとかしていた。けれどもハーツイーズの手つきはフェンネルが治療するときよりも鮮やかで、桃葉と遜色がないように思えた。
「何か飲み物を出してもらえるか」
「ロビーのソファーに座って待っていてください」
休憩室を出るとハーツイーズは真っ直ぐロビーへ向かい、隅のソファーに腰を下ろした。そこは新聞記者に囲まれたソファーから遠く離れてはいるが、ちょうど歌姫とサントリナの顔が向かい合って見える位置だった。私は厨房に入って紅茶を淹れ、ハーツイーズのもとに運んだ。
「隣に座れよ。ほら、ここから歌姫とその娘の顔が見える」
別の仕事に取りかかろうと思っていたのだが、ハーツイーズに腕を掴まれた私は仕方なく彼の隣に座った。歌姫は市長夫人の話に愛想よく笑いながら相槌を打ち、サントリナは顔をこちらに向けていた。彼女は露骨に関心を示した眼差しでハーツイーズを見つめている。決して包帯を頭に巻いた私を見つめているのではないのだろう。もっとも、彼の容姿に目を奪われるのはサントリナに限ったことではない。一方でハーツイーズは何も気づいていないように装い、紅茶を飲んでいる。彼はソファーの上に右脚を立て、ティーカップを両手で持っていたがそんな行儀の悪さもハーツイーズにはよく似合っていた。
「あの女、どう思う」
紅茶を半分ほど飲んだところで、ハーツイーズは囁くような声で訊ねてきた。
「歌姫と娘、どちらですか?」
「娘の方だ」
「サントリナのことなら――母親の血を強く継いでいるのか、とても綺麗な顔をしていると思います。あなたほどではありませんが」
私の返答に喉を鳴らして笑うと、ハーツイーズは頷いた。
「いかにも周囲を見下して、調子に乗っていそうな女だな」
「そこはあなたと同様だと思います」
「俺があそこまで頭の悪そうな奴に見えるのか」
私はサントリナと会話したときのことを思い出し、首を横に振った。
「ハーツイーズは歌姫の公演、見に行くんですか?」
「行くわけない。両親は特別席で見るみたいだが、俺に強要しないから助かるよ。興味のない女の歌を聴いて何が楽しいのかわからないな。有名だからとりあえず聴くような奴の考えもわからない。どうせお前も行かないんだろう」
「そもそもチケットがすでに売り切れているでしょうから」
それからハーツイーズは一息に紅茶を飲み干すとソファーから立ち上がり、歌姫と別れた両親に付き添ってホテルを出ていった。私はフェンネルに言われてロビーに出していたティーカップ全てを厨房に戻す。サントリナは私に何か言いたそうだったが、母親に促されてエレベーターに乗り込んでいった。




