十三、ナイトウォーカーと冬期休暇
冬期休暇を迎えて最初の火曜日、珍しいものを見かけた。
フェンネルから頼まれた買い物のため、昼食後に桃葉のいる薬屋へ向かっている最中ふと駅の方を見て足が止まった。半日に十本に満たない本数の列車が通るだけの駅はいつも静かで、特に取り柄のないこの市に訪れる物好きもそうそういないと考えれば当然のことだ。しかし私は珍しいことに駅舎からぞろぞろと人が出てくる光景を見た。確かに長距離列車が停車する時刻だが、普段ならばほとんど誰も降りてこないはずだ。
私が薬屋に入ると、男性客と談笑していた桃葉はすぐに気づいて微笑んだ。そして客と軽くキスをして何事かを囁いてから私を手招きする。カウンターに向かっていく私とは逆に、カウンターに寄りかかっていたその男性客は今私が出てきた扉に向かった。すれ違う瞬間ちらりと見えた男の手には何か板らしきものが握られているようだった。
「いらっしゃい、棗」
「桃葉。近々この市で何か催し物でもあるんですか?」
後ろで扉が閉まる音を聞きながら私は訊ねた。不特定多数の男を相手にしている彼女なら何か知っているような気がする。
「あら、知らなかったの? 実は有名な歌姫が公演を開くことになっているのよ。官庁近くの公会堂でね。私は別に興味ないから行くつもりはないけれど、確か公演は明後日から二日間のはずよ」
「初耳です。それで人があんなに来ていたんですか」
「もう三十代後半らしいけれど、ずっと安定した人気を誇る歌手だもの。皆彼女の歌を聴きたくて集まってくるのよ。きっと《男爵ホテル》に初めてのお客さんが増えるんじゃないかしら」
そう言われて私は先週から従業員が慌ただしく電話の応対に追われていたことを思い出す。あれは予約の電話だったのだろう。フェンネルが最近妙に上機嫌だったのは客が増えるからということかと納得する。
「でも、従業員の半数以上が男娼であることをその人達が全員知っているとは限りませんよね。必ずしも指名しろと言うわけではないですけど」
「言われてみればそうかもね」
宿泊施設なら《男爵ホテル》以外にも市内にまだ三件はある。けれども男娼館も兼ねている《男爵ホテル》ほど広い庭を持ってはいなかったはずだ。
桃葉曰く「有名な歌姫」の名前を聞いたが、全く知らなかった。名前すら知らないなんてちょっと異常だと言われたが気にせず私は注文する薬の名前を告げた。在庫があるヴィックスドロップも忘れない。
「いつもありがとう」
「いえ、こちらこそ」
いつも通りの社交辞令を交わし、薬の包みを受け取ろうと手を伸ばす。けれども包みに手が触れる寸前で桃葉が指を絡ませるように握ってきた。そのまま引っ張られ、不意を突かれた私は抗うのを忘れて前のめりになり、カウンターに胸をつけて右腕を伸ばしている体勢になった。桃葉はいつもの柔らかい微笑を顔から消し、薬の包みをカウンターの上に置くと空いた右手で私の顎を持ち上げた。
「なんですか」
「あなた、何か変わった?」
「髪が伸びてきたので昨日切ったばかりです」
「そういうことじゃないのよ。ただ、以前会ったときと何かが違う……」
しばらく難しそうな表情で私をじっくり舐めるように見つめていた桃葉だったが、ようやく何かに気づいた様子で「なるほどね」と笑った。
「棗、女になってるわ」
「私は元々女ですよ」
「うん、そうよね。わかっていたつもりだったけど今思い知らされた気分だわ」
「そろそろ手を離してもらえませんか」
「離してあげるから、そこに座って」
彼女が目で示したのは客用として置いてあるソファーだった。頷くことで手を離してもらった私はソファーの端に腰を下ろす。
「そんな行儀よく座らなくていいの。横になって、靴を脱いだら脚を伸ばして」
言われた通りにするとソファーの横幅が私の身長に合うことがわかった。いい具合に肘掛けのところに頭が乗ると、投げ出したつま先が反対側の肘掛けにぎりぎり届かない。傍らに立った桃葉の手が私のソックスガーターを外して靴下を脱がせた。丁寧に畳んでソファーの下にそろえていた靴の中に入れる。
「今こうして見ている限りでも少年のような棗も、とうとう女になってしまったのね」
そう呟く桃葉の目は、確かに私を見ているが私ではない他の何かを見ているかのように思えた。その手が脚を這うように撫でてくるのを見て、私は訊ねた。
「桃葉。客が来たらどうするんです」
「問題ないわ。さっき出ていった客に閉店の板をかけてもらったから。鍵はかけていないけど誰も入ってはこないわよ」
男が持っていた板、あれが閉店を示すため扉に掲げるものだったらしい。
「女に興味はないんでしょう、あなた」
「ええ、もちろん。そういった興味はないわ」
「なら何故」
「けど関心がないわけではないの」
「…………」
膝を撫でていた手が滑り込むように私の脚の間へと入ってくる。
「相手はどこの誰?」
「ハーツイーズですよ」
「ああ、市長の息子ね。暴力的でいい噂は全然聞かないけれど、あの少年ほど綺麗な子は見たことないわ」
「ええ」
「私も何度か寝たことがあるの」
「そうでしょうね」
桃葉は軽く溜め息をついて、下着の中にまで入れて動かしていた手を抜くと今度は私のシャツを脱がせにかかった。私は全体の力を抜いて目蓋を下ろす。
「棗ったら、全然反応しないじゃない」
「こういう身体なんですよ」
「本当? それ、なんでもっと早く私に言わなかったの。……どうせなら今からでも、男が喜びそうな嬌声の上げ方を教えてあげるわよ」
「教わったとしても演技なんて得意ではありませんから結構です」
そのとき、うつ伏せた私のシャツを引き剥がすように脱がせ、中の肌着を捲った桃葉の息を呑む気配が感じられた。そこに隠れて存在していた蝶に彼女の手が触れる。
「これはいつから?」
「彫ったのは半月ほど前です」
「そう。……ああ、ハーツイーズも刺青を彫っていたものね。影響されたのかしら」
「わかりません。桃葉にはないんですか?」
「ないわよ。自分の目で確認してみる?」
私が答えるよりも先に、桃葉は白衣とその下に着ていた服を次々に脱いでいった。やがて毛細血管が薄ら青く透けて見える、私のものとは比べ物にならないほど大きな乳房が目の前にどっしりと浮き上がる。立派な胸に引き寄せられる視線をその他に向けるも、男を虜にする彼女の身体はどこにも刺青を彫っていない。私が目の前の柔らかい乳房を撫でていると、桃葉が両腕で私の頭を囲むと胸に強く押さえつけてきた。窒息しそうになって顔を上げ、パロットグリーンの瞳に映し出された自分と見つめ合う。
「棗、私の可愛い友達。ついに女になってしまったのね」
桃葉は時折抱きしめたまま私の頬にキスをして、その言葉を繰り返した。顔は微笑を浮かべているものの、どこか悲しそうに見えた。彼女は私を見ながら一体誰に思いを馳せているのだろうか。他の少女よりも少年性を見出せる、まだハーツイーズと関係を持っていなかった頃の私なのか。それともかつての自分自身なのか。そこまで考えたところで私は思考を放棄し、本繻子のような桃葉の髪を梳いた。
「そろそろ帰りなさい」
桃葉が私を解放したのはそれから十分が過ぎてからだった。時計は三時を示していた。緩慢な動きで服を着るその表情を見たところ、どうやら元の桃葉に戻っている。服を整えた私はソファーから立ち上がり、カウンターの上に置きっぱなしになっていた薬の包みを持って薬屋を出た。外の取っ手には『閉店中』と素っ気なく書かれた板が紐でぶら下がっていた。
ホテルとは反対の道を進んで、ヒソップが引き取られたパン屋に足を運ぶ。扉を開ければ焼き立てのパンやバターのいい匂いが鼻をついた。以前客が少ないと嘆いていた彼の言葉が嘘かと思うほど、店内は見慣れない人々で混雑していた。きっと歌姫の公演を見るためここへ訪れた人だろう。見ると養親だけでなくヒソップもカウンターの内側に立ってスチール製のレジスターを打ち、列を成す客が注文した商品を袋に入れていた。彼が私に気づいたのは、前の客が二人になってからだった。軽く手を振ってみると彼の口元に弧が描かれた。
「蜂蜜風味の三日月パンとシナモンシュガーのマフィンを一つずつ」
「特別におまけで胡桃入りのベーグルもやるよ」
「ありがとうございます。久しぶりに来てみれば珍しく繁盛しているようですね」
商品を袋に入れながらヒソップは苦笑を浮かべる。
「まあな。閑古鳥が鳴くよりはずっといいが、毎日がこうだとさすがに疲れる」
「この後時間ありますか?」
「あと三十分したらな。どこかで時間を潰していてくれ」
「わかりました」
私は支払いを済ませて店の外に出た。今日はいつもより日差しが強く、厚着さえしていればストーブや暖炉で暖められた室内でなくても平気だ。パン屋の店先に座って薬の包みを傍らに置き、パンの袋を開けると蜂蜜、シナモンシュガー、胡桃の匂いがふわりと漂う。この三つの匂いは同時に嗅いでも全く不快ではない。けれども食べる順番は考えておくべきだ。味が濃いものは最後にしなければ、他のものの味わいが薄くなってしまう。まずは胡桃のベーグル、次に蜂蜜風味の三日月パン、最後にシナモンシュガーのマフィンという順番で食べ進めることにした。
「お前まさかとは思うが、ここでずっと待っていたのかよ」
パン屋の扉が開くと同時にそんな声が聞こえてきた。三日月パンを食べている最中だった私は口の中のものを咀嚼しながら斜め後ろを振り返る。ヒソップが呆れた表情で立っていた。その左手には白い湯気を立たせる青いマグカップが握られている。
「そんなに寒くないですよ」
「いや、寒いだろ。ほら」
そう言って差し出されたマグカップを受け取ると、中にはホットミルクが入っていた。礼を言ってから何度か息を吹きかけ、一口飲む。
「蜂蜜が入れてありますね」
「孤児院にいた頃、好きだっただろ」
「覚えていたんですか」
ヒソップは笑って頷き、私のすぐ隣に座った。軽く身を寄せ合う。
「それで何の用だよ」
「あなたに言っておいた方がいいと思って来たんです」
「何を」
「私、女になりました」
靴底で小石を地面にがりがりと滑らせていた彼の動きが止まる。柘榴石の双眸がじっと私を見つめて、しばらく経ってから口を開いた。
「相手は誰だ」
「あなたが逃げる相手です」
ヒソップの目が見開く。
「ハーツイーズか。嘘だろ」
「嘘じゃありません。私がこういう嘘をつかないことはヒソップも知っているでしょう」
「なんで、よりによってあいつなんだよ」
「最初は無理矢理でした。その後も、ほとんどが無理矢理です。でも彼と喧嘩をするのは本当に楽しいから、喧嘩の後に抱かれることはもう諦めて受け入れています。私達は決して物語に描かれる恋人同士のような甘い関係ではありませんよ」
ヒソップが黙っている間に蜂蜜入りホットミルクを飲みながら三日月パンを食べ終え、私は一旦間食を中断した。残りのマフィンはホテルへ帰る最中に食べることにする。
「棗」
名前を呼ばれたと同時に肩を掴まれた。唇が触れ合い、舌が入ってくる。甘い味がまだ残っている口腔を舐められる感覚に目を閉じた。頭蓋の中には水音と息継ぎの音だけがやけに大きく響いていた。唇を離され、目を開けると私の肩口にヒソップが顔を埋めて抱きしめてきた。通行人の視線を感じるが、彼を無理に引き剥がそうという気は起きないため受け流す。一瞬だけ見えたヒソップの顔はどこか悲しそうなものだった。
「……ヒソップも、私が女になったことに傷つくんですね。何故かは知りませんけれど、あなただけじゃなく桃葉もそうでした。フェンネルや柚子丸、アンゼリカ、ベルガモットもこのことを知ったら、傷つくのでしょうか。どうして私のことなんかであなた達がそんな顔をしないといけないのですか」
するとヒソップは私の耳に口を近づけて、囁いた。
「きっと皆、お前が好きなんだよ」
「………………」
心底悪趣味だと思った。けれども思ったことをそのまま声に出すのは少し気が引けたため、私は頭の中で言葉を模索して口を開く。
「私は黒髪です。瞳も黒いです。どんなに傷を負っても痛くないですし、抱かれても快楽を感じることがありません。普通じゃないんです。色んな人から悪魔みたいだと言われました。そんな悪魔みたいな私を、どうして好きになるんですか」
「知らないのか、棗」
ヒソップは私の両頬に手を添えたかと思うと触れるだけのキスをして、真っ直ぐ視線を合わせた。
「悪魔は天使よりもずっと人間に優しいんだぜ。何せ人間を堕落させるだけの愉悦を施すんだからな。天使なんかよりも人間は悪魔を愛してしまうことも当然だと思わないか」
そのとき、店内から大きな声がヒソップを呼んだ。恐らく養親だろう。彼は舌打ちをすると空になったマグカップを手に立ち上がる。
「じゃあな。また来てくれよ」
「はい」
私はヒソップが店内に戻るのを見届けてから立ち上がった。薬の包みを小脇に抱え、マフィンを食べながら《男爵ホテル》への帰り道を歩いた。




