表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/21

十一、酩酊

「棗。帰るぞ」

 ハーツイーズに促され、椅子から立ち上がると眩暈がひどくなった。喉や顔だけじゃなく、全身が熱を持っている。椅子を掴んだまま立っていると、ハーツイーズはルイボスから何か透明な液体が入った壜を受け取っていた。私は彼に引きずられるように建物を出たが、果実酒のせいで足が思うように動かない。視界に入るもの全てが揺れているように見える。今は冷たい風だけが心地いい。

「しっかり歩けよ。喧嘩は強いくせして、酒にはこんなに弱いのか」

「……今日、初めて飲みました」

「ふうん。……おい、地面に座ろうとするな。こんなところで眠ってしまえば、犯されるだけじゃなくばらばらにされて骨までしゃぶられるかもしれないぞ」

 私の身体は勝手にその場に蹲ろうとする。けれどもハーツイーズが私を力尽くで起こした――と、同時に胃の腑が震えたようだった。思わず両手を口元に持っていく。

「吐きそうなら吐けよ。ここなら道端で吐いても問題ない」

「どうすればいいんですか。私、吐き方を知りません」

 気持ちが悪いのは確かだ。ただ私は嘔吐した経験がないため、いつまで経っても胃の中から上がってこないものを吐き出す術を知らない。ハーツイーズは軽く舌打ちをすると、「口を開けてろ」と言って私の髪を掴んで下を向かせ、お辞儀をさせるようにした。そして右膝で私の臍の上辺りを勢いよく蹴り上げた。貫かれるような衝撃に一瞬息が詰まると同時に何かが逆流してくる。喉の奥で熱い塊になったそれはすぐに酸っぱいペースト状のものとなって口から溢れ出た。ハーツイーズが背中を撫でてくれる間、私は胃の中身をすっかり吐き出すことができた。

「終わったな。これで口を漱げ」

 ハーツイーズがルイボスから受け取った壜の中身はただの水だった。それで口を漱ぐと、気分はさっきよりもずっとよくなっていた。まだ身体は熱いが、眩暈も軽くなっている。

「親切なんですね」

 彼はうるさいと言いたげな表情で私の手から壜を取り上げた。それから私達はエンプティを出て、それぞれ帰る方向に別れた。私はいつものように通用口に向かおうとして、ふとプールに目が行った。枯葉がいくらか浮いているが、誰も入るわけがないにも関わらず水はまだ綺麗なままだ。きっとあそこに飛び込めば呼吸が止まりそうになるほど冷たいのだろう。酒で熱くなった私の身体には、それくらいがちょうどいいかもしれない。

 私はよろめきながらもプールのすぐ傍に近づいて、ここに来るまでに脱いでいた黒いピーコートを軽く畳んで足元に置いた。水面を覗き込んで両手を入れると、心地よい冷たさと波紋が広がる。もう少し、肘まで浸けてみようと思って身を乗り出した瞬間後ろから強い突風が吹いて――私は水の中に落ちた。このプールでは何度か泳いだことがある。泳ぎは苦手ではないが濡れた服が手足の動きを妨げて、そう深くはないはずの底につま先さえ届かない。もがいていると大きな水音が聞こえ、急に楽になった。誰かが身体を支えてくれている。自然と顔が水面から出て、目を開けた。

「馬鹿! こんな季節に何をやってるんだ!」

 目が合った相手は、ベルガモットだった。何故ここにいるのだろうかと不思議に思いつつ、私は手を伸ばして彼の濡れた真紅の前髪をかき上げた。精悍な顔立ちのベルガモットは琥珀色の瞳を持つ目をつり上げ、怒っている。

「お前、酒を飲んだのか」

 酒の匂いを敏感に感じ取ったらしい彼は溜め息をつき、私を横抱きにしてプールから上がった。声を張り上げて他の従業員にタオルを持って来させる。大きなタオルで私を包むようにして、自分もある程度の水気を拭い、また私を横抱きにすると通用口からホテルの中に入っていった。その頃になってようやく私の頭は、あの大きな水音はベルガモットがプールに飛び込んだ音で、彼が私を助けてくれたのだと理解した。幸いフェンネルや客と一度も遭遇せず六階にある私の部屋に辿り着いた。

「珍しいな、棗が酒を飲むなんて」

「同級生に誘われた先で、半ば無理矢理……」

「もう誘われても飲むなよ。それにしても随分弱いんだな、お前」

 ずぶ濡れの服を剥かれた私は同様に服を全て脱いだベルガモットに引っ張られ、二人で入るには窮屈なバスタブに入った。徐々に水嵩を増す湯船の中、ベルガモットは両膝を立て、その間に私が収まっている体勢だ。均整のとれた骨格で弛みがどこにもない彼の硬く引き締まった――何人もの客に触れられてきたのだろう――腹筋の感触が、今は私の背中にある。最初はまだぼんやりする頭でされるがままだったが、やがて頭の中でふと疑問に感じ始めた。

「何故ベルガモットは私とお風呂に入っているんですか。ここは私の部屋ですよね」

「教えてやるよ。俺が助けてやらなかったら、あのまま棗は溺れ死んでいてもおかしくはなかった。それに素面の俺は今お前以上に身体が冷えている。ほら見ろ、この唇。見事にチアノーゼだ。こうなってしまえば少しでも早く風呂に入るべきだろう。もしもこのまま風邪でもひいてみろよ。支配人にさっきの件を話して、二人仲良く怒られたいのか?」

 そう言われると反論ができず、上を向いて嘆息する。今日はやたら男の身体と接触する日だ。ハーツイーズにルイボスにベルガモット。やがて私の肩が浸かるまでになると、ベルガモットが蛇口を捻って湯を止めた。

「さっきから気になっていたんだが」

「なんですか」

「右手の小指、どうしたんだ」

 何が、と思って右手を見ると小指の爪がなくなっている。今の今まで誰にも言われなかったから忘れかけていたが、ハーツイーズにナイフで剥がされたことを思い出した。

「……午後の授業を空き教室で過ごしているとき、ぱらっと剥がれ落ちてしまいました」

「へえ、なんとも脆い爪だったんだな。痛いか?」

 私が首を横に振ると、ベルガモットは大きく息を吐いた。

「こっちは見ているだけで痛くなってくるんだがな」

「見なければいいでしょう」

「あと、腕にも変な切り傷があるじゃないか」

「これも午後の授業を空き教室で過ごしているときにできました」

「その空き教室は一体何がある場所なんだよ」

「古いストーブ、大きな円卓、三脚の椅子、回転しなくなった天球儀、それから木製の本棚に資料と小説と詩集が少しずつあるだけです」

 私が答えると、何かが面白かったらしい背後のベルガモットがくつくつと笑った。それ以上は興味がなくなったのか彼が質問してくることは何もなかった。お互い十分に身体が温まると、まだ酒気が抜け切っていない私にバスローブを雑に着せてベッドの上へ放り投げ、ベルガモットはさっさと部屋を出ていった。面倒見がいいのか悪いのかわからない人だ。放り投げられたことと全身が軽く跳ねたことが原因で再び眩暈を起こした私は、しばらくそのまま仰向けになっていた。

「姉さん。ぼくだけど、今入ってもいい?」

 徐々に迫ってくる睡魔に目を閉じようとしたとき、不意に外から柚子丸の声がかかった。彼がこの階まで上がってくるなんて今までは一度もなかったはずだ。何の用だろうか。

「どうぞ。鍵は開いていますよ」

 部屋に入ってきた柚子丸は辺りをきょろきょろと見回しながら私のいるベッドの脇に立った。彼の冷たい手がそっと額や首に触れてくる。

「さっき従業員の人から姉さんがプールに落ちたって聞いたよ。大丈夫?」

「ええ。お風呂にも入りましたから」

「でも、まだ気分が悪そうに見える」

「学校帰りに飲んだ酒が原因ですよ。プールに落ちたのも、今気分が悪そうに見えるのも」

「……そう」

 睡魔に抗おうとして、つい不機嫌な声色になってしまった。柚子丸は少しの間どこか拗ねた表情で沈黙していたが、不意に膝を床につけて私と視線の高さを合わせた。そして私の左腕を手に取り、掌や手の甲に自分の鼻を何度も擦りつけ、次第には指を舐め始める。まるで子犬のようだ。これが左腕でなく右腕だったら小指のことをベルガモット以上にしつこく訊かれていただろう。やがて柚子丸の右手がバスローブの中に入ってきた。冷たい手が腹に触れた瞬間身体が震えた。彼の手はやけにゆっくりとした動きで私の脇腹から胸へと滑っていく。ベッドに上がると撫でていない方の胸に唇をつけてきた。吸いつくことも舐めることもせず、ただ唇で触れるだけだ。

 以前エンプティでヒソップが言っていたことを思い出しつつ、私は柚子丸からの接触を拒まずに受け入れた。左手で柚子丸の柔らかな髪や耳を優しく撫でてやると、それまでの自分がしていることに罪悪感を抱いているような彼の表情は少しだけ和らぎ、私の太腿を両脚で挟んでくる。力いっぱい抱きしめられ、少しだけ眠気が飛んだ。

「姉さん」

「なんですか、柚子丸」

「ごめんなさい」

「謝る必要はありません」

「うん。……でも、ごめんね」

 珊瑚色をした唇が近づいてきて、私は何も言わずそれに自分の唇を重ねた。舌を入れられると思ったが、予想に反して彼の唇は啄むようにしただけですぐに離れた。

「姉さん。眠たいなら、眠っていいよ」

「あなたが退屈になるでしょう」

「ぼくはもう十分だから。ありがとう」

 そう言った柚子丸はさっきよりも明るい自然な顔になっている。実際の弟というのは彼のように愛らしい存在なのだろうかと思いながら、私はバスローブの紐を結んでいる柚子丸の頭を撫で回し、それから目を閉じた。

「おやすみなさい、姉さん。ゆっくり休んで」

 離れたところから柚子丸の声が聞こえ、続いて扉の静かに閉まる音がした。

 幸いなことに私もベルガモットも風邪をひくことなく、フェンネルに私が飲酒した結果プールに落ちた出来事も知られることはなかった。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ