一、ナイトウォーカーの始まり
何故孤児院を脱走したのか。そう問われても簡単には答えられない。とりあえず断言できるのは、決して孤児院での生活が嫌いだったからではないということだ。あの孤児院は中流階級の人々から見ても快適とは言い難い環境かもしれないが、私達孤児を飢えさせることも凍えさせることもなく育ててくれた場所であることは間違いなかった。
幼い頃から私は同い年の少女と絵を描いたり人形で遊んだりするよりも、同い年か年上の少年との喧嘩を好んだ。元々私の中にそういう血が流れていたのか、周囲の影響で次第にそうなっていったのかどうかはわからない。喧嘩をして、職員に見つかるたび叱られてお仕置きを受けた。
「棗は本当にお転婆さんですね」
職員はよくそう言いながら、喧嘩の最中にできた私の擦り傷や痣などを治療してくれた。
「痛くはないのですか?」
「はい。痛くありません」
私がそう答えると、隣で同じように治療を受けていた一つ年上の少年が顔を歪めながら声を張り上げた。
「俺だって痛くない!」
それでも、喧嘩をすると泣くのは決まって私ではなく少年達の方だった。彼らは「痛い、痛い」と言って涙を流す。私はたったの一度もそんなふうに泣いたことがない。お仕置きのときでもそうだった。
今思い返せば、あそこは虐待やいじめなどが起きている余所の孤児院と比べればよっぽどまともな場所だった。黒髪に黒い瞳という非常に珍しい容姿の私だが、そのことで誰かが悪口を言うと、職員は自分が悪く言われたわけでもないのに怒ってその子の食事を一回抜きにした。以来、誰も私の髪と瞳の色を悪く言わなくなった。嬉しかったのを覚えている。けれども、赤ん坊の頃から引き取り手が見つからず十年間そこで生活していた私は退屈していたのかもしれない。そうでなければ脱走なんて考えつかなかったはずだ。
当時幼くてもその孤児院の中で古株だった私は、職員が夜に見回りをする時刻や子供だけが通れる抜け道などを把握していた。そして新月の夜、着替えや隠して貯めていたパン、ビスケット、水というわずかな荷物を持って計画通り孤児院を脱走することに成功した。あのとき初めて私は外の夜を歩いた。私の記憶が間違っていなければ、朝や昼以外に孤児院の外に出ることなどそれまで一度もなかったはずだ。
これが夜の世界に出るきっかけとなった。
もちろん親の顔どころか名前すら知らない孤児の私には行くあてなどなかったが、当時の私はなかなか浅慮な子供だった。根拠もなしになんとかなると思っていたのだから。
結果として、孤児院を脱走して二日で私は後悔する羽目になった。
わずかな食糧が尽きて、靴磨きのやり方すら知らない子供に食い繋ぐための仕事もないのだから当然と言えば当然だ。だが、幸い初めての無賃乗車は他の浮浪者に紛れることで成功し、初めての土地で暴漢に襲われるようなことは一切なかった。市場で人混みに紛れて果物を盗むこともできたが、それでも怪しまれることを警戒して毎日はできなかった。そうしているうちに迎えた四日目の夕方、土砂降りの雨に打たれた私は寒さと空腹で路上の隅に座り込み、起き上がることができなくなった。
「どうしたの? お前」
その声が私にかけられたものだということを、最初は理解できなかった。
「お前だよ、真っ黒な濡れ鼠。……見慣れないね。こんなところで雨宿りもせずに座っていると、風邪をひくよ」
そこでようやく私は近づいてきた若い男に気づいた。紅茶色の髪は耳にかかるくらいの長さで、葡萄のような暗い紫色をした瞳を持つ細い目。傘を差して、質素とも派手とも言えない黒い服の彼はしばらく私を無遠慮にじろじろ眺めた。多分私の髪と瞳の色が気になっているのだろう。
「もしかして、孤児かい?」
私は頷く。
「お腹が空いているだろう」
再び私が頷くと、男は微笑んだ。彼は屈んで私を傘の中に入れ、白い清潔なハンカチーフを渡してきた。
「僕はフェンネル。とあるホテルで最近支配人になった者だ。お前、名前は?」
「……棗といいます」
「棗はどうしてこんなところに座ってるんだい?」
「孤児院から脱走してきました」
「へえ。そりゃあまた思い切ったことをしたものだ」
フェンネルはけらけらと声を上げて笑う。私は彼の顔を見つめているうちに、いつだったか孤児院で読んだ絵本に登場する狐を思い出した。愛嬌と狡猾さを併せ持つ、狐。
「さては孤児院の人や仲間からひどい仕打ちを受けて嫌になったってところかな」
それは違います、と言いたかったが、ならば何故孤児院を脱走したのか別の理由を答えなければいけないと思うと億劫だったからやめた。
「自分の年齢がいくつかわかる? 学校には通っていないみたいだけど」
「十歳です。……学校には行ってませんが、その代わり孤児院にあった学習室で勉強することはありました」
私が両手で持ったままにしていたハンカチーフを取ると、フェンネルは私の濡れた髪や顔を拭ってくれた。
「じゃあ棗。よければうちに来るかい? 僕ならお前に食事も服もベッドのある個室も勉強する環境も用意してあげられるよ」
「……何をさせるつもりですか?」
十歳の私は浅慮だったが、時には人の親切を疑うことも必要だということくらいは知っていた。こんな都合のいい話を裏がないものと信じ、初対面の男に軽々ついていくほど気楽な思考は持っていない。
フェンネルは細い目をさらに細めて笑みを浮かべた。
「当然のことだが、お前は僕のホテルで働かなければいけない。けれどもそんなに警戒する必要はないさ。うちのホテルで本来の仕事をするのは専ら十五歳以上の男と決めているからね。お前はまだ十歳で、それも女の子だろう? ならば精々雑用係だ」
「…………」
「もちろん無理強いはしない。お前がここで飢えに力尽きようが肺炎になろうが、それが原因で死のうが僕にとっては何の利益にも不利益にもならないんだから」
私はしばらく黙って考えていた。
「ふふん。どうやら馬鹿な子供ではなさそうだな。まあ、結局は棗の意思で決めることだね。言っておくけど僕は一度養うと決めた子供の世話を途中で投げ出すようなことは絶対にしないよ。――お前を孤児院に預けたご両親とは違ってね」
皮肉な笑みを浮かべるとフェンネルは立ち上がった。再び私の全身に雨粒が降りかかる。彼が踵を返そうとしたとき、私の右手はそのズボンの裾を掴んでいた。