000 プロローグ
したんじゃない。
落ちていた。
「いらっしゃいませ」
甘いお菓子の匂いと、上品な紅茶の香りと、
透きとおる澄んだ声が出迎えた、友人に連れられてはじめて入った洋菓子店。
そのひとは、他のお客さんの買ったものを箱詰めしながら、振り返って顔をあげた。
オレの皮膚の温度は一瞬で2℃上がり、
オレの心の温度は3℃くらい上がった。
このお店の店員さん。
きれいなひとだ――ちょっと年上かな――オレより、三つか四つは上だと思う。
白い肌。
髪を後ろの高い位置で結んでいて、きれいな首と背中がのぞいている。
ざっくりしたニットの服に、お店のエプロンが似合っている。
その人と目が合った瞬間だった。
べつになにかをしようなんて気持ちはなかった。ひとつもなかった。
だけど――だから、ある意味これは不可抗力というか、事故みたいなもんというか――
「お待たせいたしました。――はい。ありがとうございました」
そのひとのまわりだけ、淡くやわらかい光であふれているように感じた。
客がそのひとからお菓子の箱を受け取り店を出ていく。
客を見送るうしろ姿やしぐさ、その表情に目を奪われた。
店長さんらしき40代くらいの女性に何か話しかけられたそのひとは、声を出して笑った。
歯をみせてくしゃっと笑う。
お客さま対応中のときの上品で優しい表情から、気どらない表情への変化。
世界中で一番きれいなピンクとホワイトを集めてきて作ったような、柔らかそうな肌。
楽しそうに輝く瞳。
つやめく唇。
透きとおる声。
――パステルカラーの笑顔だった。
目が離せなかった。
透明感と、存在感は、同時に成り立つってことを知った。
「こんにちは。――おともだち? ひょっとして、彼がワトくん?」
そのひとが、オレのとなりに立つ友人に声をかけてきた。
淡いピンクのオーラが見えて触れてしまうような、柔らかい雰囲気と存在感。
「はい、そうです。今日はホワイトデーのお返しの買い出しにつき合わせてます」
セーロクがそのひとの挨拶にそう答えた。
顔見知りっぽい。親しげな口調。セーロクはこのお店にちょくちょく立ち寄っているって聞いてたけど。
しかし――
どうしてくれる。いきなり自分の名前を呼ばれて、オレは柄にもなく固まっちまったぞ。ろくに返事もできてない。
「義理チョコ? 本命?」
続けてそのひとはセーロクにたずねる。
「義理チョコです。部活の女子マネージャーの二人に、オレやワトも含めて陸上部男子からのお返しってことで」
「そっか。――ごゆっくりとご覧になってくださいね」
その人は柔らかくほほ笑むと、カラフルなタルトやプリンやショートケーキが並ぶショーケースの向こうへ行ってしまった。
胸がドキドキ鳴っている。
額には汗が浮かんでいる。
3月13日。まだ寒い季節だけど、店内に暖房はたぶん入っていない。
店の外は寒かったから、オレもセーロクも上着を着ていた。
オレは、愛用のグレーのパーカーを脱いで腕に持った。
「で、なににするんだ」
オレはそれらの動揺を気づかれないように平静を装い、セーロクに質問した。
「マカロン。オレはホワイトデーのお返しはここ何年かずっとマカロンにしてるんだ。美味しいし、きれいだしね」
「マカロン。食ったことねぇな。聞いたことはあるけど」
「ここに並んでるよ」
セーロクが示した個所に、マカロンという名のお菓子が色とりどり、並んでいた。
木苺のピンク。
ミントの水色。
レモンの黄色。
抹茶のみどり。
ラベンダー色。
チョコレート。
形もかわいらしいが、色もきれいだ。たしかに、これは女子に贈れば喜んでくれそうだ。
「マカロンもいろんなお店のを食べ比べてみたけどね、やっぱりここのがいちばん美味しいんだ。この6色を二つずつ入れて12個。それを二箱。それでいいね?」
「いいと思うよ」
オレはセーロクとそんな会話を交わしている最中も、あの人のことを盗み見ていた。
可愛いのに美人だ。
上品な顔立ちなのに、親しみやすそうな表情。
店内に、店員さんは計4名。
店の奥の方は買ったものを食べることができるテーブルがいくつかあって、そっちの方にひとりと、レジにひとり。それに店長さんと、あのひと。
あのひとは、ショーケースのところが定位置らしく、次の女性客――常連客っぽい――にお菓子の説明をしていた。
「なぁ、セーロク。あのショーケースのところにいる店員さん、前からいる人なのか?」
オレはたずねた。
「そんなに前からじゃないよ。去年の夏ごろからじゃなかったっけ。田中愛さん。19歳。パティシエ目指してたことがあるらしくて、お菓子のことにはプロ並みに詳しいよ」
――愛さんっていうのか。
19歳。オレと二つしかかわらない。
すっごい大人っぽいのに、同じ10代なのか。
「オレのこと、あのひとに、なにか話してたのか? オレの名前知ってたけど」
「オレがワトと歩いてるとこを見かけたことがあったらしくて、その話が出たときに話した。幼なじみで同じ陸上部にいるって」
「なるほど」
オレはそれだけ聞くと、ショーケースの方へ近づいた。
「――こちらの6種類のマカロンを二つずつ入れて12個入りにしてもらっていいですか?」
オレは愛さんにそう話しかけた。
近くで、彼女の声を聞きたかったのだ。
「こちらのマカロンですね、かしこまりました」
言葉は丁寧なのに、自然に気さくな印象を与える声色。
社交的なひとが持つ天然の雰囲気というか、相手をリラックスさせるような口調だ。
「それを二箱お願いします」
「12個入りを、二箱ですね。ありがとうございます」
間近で見ると、一段ときれいで可愛い。
漂っている洋菓子の甘い香りの中で、どのスイーツよりも甘くおいしそうに見えるそのひと。
……食べたら、きっと甘くておいしい。
オレはやけにリアルな夢の中にいるような感覚で、そのひとからマカロンの入った箱を受け取った。
「はい」
「どうも」
わずかに彼女の指先が触れた。
なにかがオレを走り抜けた。
胸の動悸が強まった。
「また、来ます。見てたら、食べてみたくなりますね。美味しそう」
オレの言葉に、そのひとは嬉しそうにほほ笑んだ。
「気に入ってくれて、良かったです。またのおこしを、首を長くして待ってるね」
なにかをしようってつもりは全然なかった。
もちろん、恋なんてするつもりはまったく。
だけど――
溶けていくバタークリームに足元から沈んでいくかのように――
オレは、恋に落ちていた。




