二
二
この街は平衡状態にある。移民と純日本人のぶつかり合いが最も激しかった時期は教科書に載る程度に風化した。教科書は云う。移民一世と純血の日本人の対立と、今ある暴動とを比べよう物なら昔の方が酷かったと。私はそれを知識としてしか知らない。当然だ、生きていない時代を肌で感じろという方が酷という物だから。その争いは血なまぐさく、白昼堂々死者が多数出たそうだ。今の暴動も死者は出る。だが、そこにイデオロギーや何かを突き動かす類の熱は存在しない。身を焼く炎は今や別種の物となってしまった。不満のはけ口として手段が目的化された世界は、変らず続いていく。その世界を外側から見つめたとき、内部の変化など何の専門家ともしれぬ知識人の云うとおり、一見何も起こっていないように見えるだろう。あるいは極相林としての世界とも見る人がいるかもしれない。
私が何をして、何をしなくても、きっと外側の人間からはありふれた人生だと思われるだろう。枠の外側というのは元来そうであるように思える。どれほど精巧に出来ていたとして、それが小説であるならば人はどこか冷めた様子で、やっぱりな、その一言で全てを達観したつもりになるのだ。そう感じる。諦観ではない。肌の感覚として知っている。いつか大人になったとき、青臭かったと思い返す日が来ることは、多分やってこない。同じような連続の中で、だらだらと寿命を食いつぶすか、あるいはそれと知らぬうちに暴動の中で死ぬだろう。昨日の暴動でさえ死ぬきっかけとしては十分すぎるのだ。死は常に内側へと渦巻く力線であり人が抗うには強すぎる。太陽が眩しいから、という理屈は創作の中だけではないのだ。
バイクは中華街へと向かっている。修辞的に中華街と言い表すだけであって、もちろんそこに住むのは日本人で、区別するなら大陸の血脈にあたるかどうかの違いだ。あるいは中華系の思想を継ぐ者、あるいはファッションとして大陸の匂いを表そうとする人々。街の外観が中華街とそれ以外でそう違うことはない。ただ、雰囲気が違った。駅前や学校の近くとは決して同じ場所だとは思えない。水面に映し出された世界のように、似て非なる模造品のようだ。『ここでは着物を脱いでください』と『ここで、履き物を脱いでください』。いつだったかマス目の大きいノートに書いてあった文章を思い出す。全く馬鹿げた例文ではあったが今の情況も十分に馬鹿げている。
殷がこちらを見た。バイクの速度は既に歩く速度よりやや速いだけとなっていた。漫然と絵の具をかき混ぜていただけのような景色が、急に焦点を結び始めたように思える。思索の海にたゆたううちに目的地へ到着したようだ。ヘルメットを外して久しく吸っていなかったと思える外気を吸い込む。生ぐさい臭いが鼻についた。中華街ではいつもそうだ。路地裏の吐瀉物とごみ箱から顔を覗かせる生ゴミ、中身がまだ少し残っているビール瓶、コンドーム。週に何度かの清掃で一目ではそれと知れぬように隠蔽されたゴミは、代わりに臭いで自らの存在を訴えかけているようだった。サイレントマジョリティ、という言葉が頭に浮かんで、知らず一人苦笑する。殷がそれをめざとくみとめ、
「こっちに美味いコーヒーを淹れてくる店が」殷は路地に面したカフェを指さした。「あるんだけど」
多分何度も練習したのだろう。目の前を指してこっちもないだろう、小説のセリフみたいに気障な調子で云う。きっとコーヒーはブラックで、ハードボイルドな探偵はそれを啜りながら横目に調査対象でも見ているのだ。執念深い追跡とあばらの折れるアクション、安っぽいロマンス。けれど残念ながら私はコーヒーをブラックで飲めない。砂糖とミルクをたっぷり入れても笑われないような店だといいな、小声で呟いてみると、殷が眩しそうに目を細めた。彼のこういう時の顔が私は好きだった。というよりも、こういった虚飾の取れた無防備な表情を見るのが好きだった。年相応でなくともそれが自然であるようならば何でもいいと考えているのかも知れない。
植え込みを跨いで歩道へ上がった。見え隠れするペットボトルや吐瀉物。植え込みは未熟なアンブッシュ。隠蔽するには少々たけが足りない。殷は、バイクを停めてくる、と路地の裏へバイクを押していった。彼の姿が路地に消えると同時にカフェの中から男三人が外へ出てくる。一人は突き飛ばされた格好で、その後ろに二人が続いた。
罵声はない。だからまだ殷は気付いていない。突き飛ばされた男がジャケットを払って溜息を吐いた。不思議と芝居じみている感じはなく、己という人間のステータスを全て把握しているようで、どこか超然としている風にも感じられた。顔を上げた男の顔に涼しい笑みが浮かんでいた。それが気にくわないのだろう、後から出てきた二人が男に云う。
「ヘラヘラ笑ってンじゃねえよ、お前、嗅ぎ回ってンのは知ってンだよ、あんまりふざけてっと――」
「人聞きの悪い。私はただ何か不審な点があったんじゃないかと聞いただけだよ。隠すことが無いのならそう云えばいいだろう」
子供を諭すような口調は彼らを世界から切り離していた。生徒と教師のロールプレイ。二人組は私がすぐ側にいることさえ気付いていないように見える。カフェの中でのやり取りは知らない。いつの間にか男の話術によって、私の認識は『二人』から『二人組』へと平均化されて個性を失っていた。外部からの観察ですら男たちは己を失っているのだ。男は二人組のそう高くない沸点を見事に操っているように見える。あとはこんな三下なんかじゃなくもっと上位の人間を引っ張り出せば目論見を達成できる、そういう雰囲気が男からは漂っていた。
場の空気が僅かに振動する。暴動前の雰囲気とよく似ていた。体から発せられる怒気は現実に干渉するということを、私は今まで生きていた中で学んでいた。二人組が男へ躍りかかる寸前、
「イルマさん、待った?」
殷が路地の奥から歩み出てきた。こちらの情況など全く気付いていない声は、張り詰めた緊張を弛緩させるに十分な力を持っていた。二人組の拳から力が抜ける。今まさに行使されようとしていた両手が、ばつが悪そうにポケットへ入れられた。顔を横へ背け、誰かに対する言い訳が二、三語聞こえた。
「待ってない」
殷の方へ向き直って私は云う。これで暴力の気配は完全に消え去った。
「あれ、お前ら何やってんの?」
何も知らぬ素振りの殷へ二人組は、こいつが、と男の方を目で見やった。男はそれが合図のように懐へ手を伸ばして紙片を殷へ突き出した。
「私は一応こういう者で」
紙には名前と所属が書き記してあった。月刊パラドクス/編集部長/森屋。連絡先のアドレスはありふれたドメインだった。
森屋と名乗った男は私と殷の顔を交互に見る。彼が浮かべた笑みからは『好印象』という言葉以外出てこない。嫌味のない笑顔を浮かべることができるのは一種の才能だろう。ただ、二人組にはあまり通用していなかったが。男性には効果が薄いのかもしれない。
「少し事件を調べていてね。この前亡くなった子のことを探っていると、どうも大陸系の少年グループに当ったっていうわけ。それでここまで来たんだけど……」
語尾を濁して二人組を見た。居心地悪そうに二人組は体を揺すった。
「こいつらが何か迷惑をかけたようなら謝ります。すみませんでした」殷が殊勝に謝っているところ見るなど思ってもみなく、私は少なからず驚いた。深々と下げられた頭はどのような思いで地面を眺めているのだろう。「お前らも謝れ」
「すみませんでした」
ふてくされたユニゾンが響く中、私は黙って男を見た。