一
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ショートホームルームの時間にもなると、クラスに人影はほとんど見あたらなくなる。ただでさえまともに授業を受ける人数は少ないのだ。ましてショートホームルームの時間まで律儀に残る人数は推して知るべしだろう。私を含め四人しかクラスにはいなくなった。担任の教師はわざとらしく溜息を吐いて、あんなクズには絶対になるな、といつものセリフを吐いた。私たちが教師の言うところの「クズ」にこのことを言わないと知っているから言えるセリフだ。マトモというレッテルによって色分けされた人間と同じ人種であるというアピールにしか過ぎないが。
特段連絡らしい連絡はなく、五分ほどで――何もなくとも五分は拘束されるところに純血の日本人らしさが窺える――ショートホームルームは終わった。現実から逃げ帰るように教室を後にする教師へ、私を除いた三人の小集団が小声で聞こえぬよう陰口をたたく。在日に言ってやろうか、あの教師、きっと死ぬよな。
机の横に下げたリュックへ教科書類を詰める。置き勉をして教科書が無事であることはまずない。幸いにも私はいつも持ち帰るから被害にあったことはないが、被害にあった人の教科書たるや散々な物だった。詳述することすらしたくないほどに。
思いつつも学内において暴力事件が発生しないことはまさしく不幸中の幸いで。途中で学校から抜ける人は大抵外で何かしら暴力に携わってはいるのだけれど。学内で行う暴力には限度があるが、外での暴力は無限大であるという主張なのだろうか。
教室後部のドアからリノリウム張りの廊下に出る。廊下を中心にして両脇に教室が並ぶため、廊下に直射日光が差すことはない。そのためか夏にもかかわらず随分ひんやりとしており、冷房も付いていないのに教室と遜色ない涼しさだ。廊下に人影は少ない。それはもう突き当たりにある姿見に映った私の姿を見ることが出来るくらいに。
姿見をやり過ごすと階段がある。古い校舎だ。二次大戦が終わったあと直ぐに作られたのだ。建て直しがされているとはいえ風格という名のボロさを隠し切れないでいる。ひびの入ったコンクリートには水滴が付いて、蛍光灯は肺病患者のうわごとみたいに明滅する。滑り止めは積極的に滑落を狙っているかのような摩滅具合だ。用務員の努力も虚しく高い位置にある磨りガラスは曇っていて、既に壁の一部にも見えた。
降りてからの昇降口へと向かう廊下で後ろから声を掛けられる。振り返れば殷がはにかみながら走ってきた。撫でつけられたオールバックがてかてかと輝きどことなく機械的な雰囲気を醸し出している。だからといって恐ろしさはあまりない。顔立ちにまだ幼さが残っているからだろう。かかとを履きつぶした上靴がぺたぺたと音を鳴らす。だらしなくズボンの裾を引きずり、案の定私の手前で転けた。学ランがはだける。
「一緒にさ、帰ろうぜ!」
埃を払いながら立ち上がり、転けたという事実を打ち消すように殷は言う。廊下に他の人はいないが二階にも聞こえていると思う。それ以前に教官室へ届いているけど。不純異性交遊だとか難癖を付ける教師が移民系の暴動に巻き込まれて入院している今、咎める人がいないことは何からかは知らないが助かることだ。
「ヘルメット持ってきてるの?」
「当たり前。しかもピンク色。恥を忍んで買いに行った甲斐があったってもんよ」
私は下足箱ではなくリュックからビニル袋に入れた下靴を取り出す。下足箱に靴を入れないのは教科書と同じ理由だ。入学したてのころ、それで手ひどい目にあった。以来私は下足箱を信頼していない。
駅前と同じでレンガ敷きの地面を歩く。急な傾斜の付いた坂を少し下ると正門だ。鉄製の門はひと一人分開かれている。サイドカー付きのバイクが通れる程度に門を押し開いた。
門を出ると直ぐに、滋賀県から流れてくる琵琶湖疎水のために橋が架かっている。夏の日差しに照らされる欄干はすでに触れそうもない。こんがりと焼き上がってしまう前に、葉桜が茂って影の出来ている下り坂へと急ぐ。登校時は上り坂ばかりだが、下校時は逆に下り坂ばかりになる。
学校の名前が冠されている坂を下る。夏の光が葉桜に当って砕けた。道路の先に陽炎が立つ。右手に見えるテニスコートにはテニス部員の影はなくて、踏み荒らされたコートに煙草の吸い殻が落ちているばかり。破れたままに補修もされないネットが風に揺れる。テニスコートの奥にある背の高い時計は、いつかの四時で時を止めていた。
背後から重質量の物体が近づいてくる気配がした。エンジンを掛けていないサイドカー付きのバイクだ。そのバイクが何という名前か私は知らない。けれど黒光りをするそれは、おそらくアメリカにでも行かなければ到底馴染むことなどできない見た目をしている。少なくともこの街に馴染んではいない。
横付されたサイドカーに、乗れ、と殷は顎で示した。確かに座席にはピンク色のヘルメットが置いてあった。やはり不釣り合いに思う。指先で引っかけるようにヘルメットを取ると、空いたスペースに体を入れた。派手派手しい色合いのそれを被り、リュックは抱える。私がしっかりと乗ったことを確認した殷は無造作にエンジンを入れた。
瞬間、蝉の声をかき消す爆音が轟いた。思いの外防音性能の高いヘルメットのおかげで鼓膜が破れるのをあわやというところで防いだ格好だった。殷がこちらを見る。口が何やら動いているが何か言っているのかさっぱりだ。読唇術が使えるわけでなし、意味も分からずただ適当にうなずいた。小さく小脇でガッツポーズを取ったところを見ると、良い事でないのは確かのようだった。
爆音と違い意外にも滑らかにバイクは走り出した。ひび割れたアスファルトの感触がシートを通じて近くに感じる。いつもより景色が一段低いせいか異様にスピードが速く感じられる。ヘルメットは暑く汗が滲み出る。対照的に顔へ吹き付ける風はどこか異国の風のように心地よい。
歩けば長い坂もバイクだとあっという間だった。平坦な道に出るともう一つ川があって、そこへまた橋が架かっている。右手にグラウンドがあり橋の向こうは住宅地。ここも一種の境界になっている。暴動が起きても、滅多に学校の敷地内へは入ってこない。結界のようなものなのだろうか。橋を隔てて世界は違う。柳田国男かだれかが言っていた気がする。
昨日の暴動を思い出す。あの後血の海に沈んだ二人は、あの暴動で負傷した人たちはどうなったのだろうか。ニュースには『暴動が起きて多数の負傷者が出た』としか報じられなかった。一夜明け暴動の熱が去った後の駅はとても静かで、まるで時がそこで途絶してしまい、別の時空から時間を引っ張ってきて繋いだかのようだ。徒歩でしか通ってはいけないはずの地下道をバイクで突っ切りながらサイドカーで一人思う。
地下道を抜けると昨日のロータリーに出る。左手側のスターバックスで優雅な一時を過ごす人々が、私と、主に殷を見て目を開き、そして視線を逸らす。羞恥心はピンク色のヘルメットで厳重に防御されているため大丈夫。
ゆっくりと走行するバイクの本車から殷が私の肩を突いた。「あれ」
くぐもった声につられて指さす方を見ると、そこには軍服姿の少女がいた。旧日本陸軍の士官服を身に纏っている少女がロータリーに見えた。取り巻きの男たちは軍服ではなかったが、そのほとんどは皆それぞれ己の持てる最大限の礼儀を以て少女の周りにいるようだ。
少女は眩しそうに手をかざすと、何事か呟いたようだった。取り巻きの男たちはそれを巫女の託宣を聞くが如き態度をとって、それがまた滑稽で、見ている人間にシリアスな笑いを供するようであった。
「トウドウさんだ」
殷は眼を細めて言う。フルフェイス越しにでも分かった。
少女はロータリーを回ってきた車に乗り込んだ。残念ながら車種に疎いためそれが何という車かは分からなかった。ただ、やけに縦長の車だ。回転するときなどぶつからないよう細心の注意を払わねばならないだろう。
「やっぱりお嬢様は違うな」
皮肉とも感嘆ともつかない調子で殷は言う。どちらも入っているのだろう。




