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 序


 友達と帰らなかったことを後悔した。一緒に帰ったからといってどうなるわけでもなかっただろうが。

 駅の裏手にある地下道を通って改札横へ出ると、そこは戦場だった。既に血も流れている。泡立つ熱気が肌を撫でた。夏の日差しだけが問題ではない。まとわりつく熱は生きているようで、浮き上がる汗の中にさえも潜んでいるようだった。この熱は感染する。耳を聾する声にめまいがした。まるでアラブのテロリストのようにスカーフで顔を隠した中高生が、大陸系の移民を襲っていた。制服を着た集団は手に金属バットや鉄パイプ、木刀に特殊警棒といった出入り用も甚だしい武装で身を固めている。悲鳴や怒号をかき消すように笑い声が木霊して駅前のロータリーに響く。

 いつもなら客待ちのために何台も止まっているタクシーの姿が見えない。暴動が始まったのを見て場所を移ったのだろう。対して動くことの出来ない店はできるかぎり被害が来ぬよう息を潜めている。入り口にはクローズと書かれた板が掛けられている。ガラス張りのカフェはカーテンを引いている。本屋にいたっては客がいないことをいいことに閉店を装っていた。駅ビル二階のレンタルビデオショップは店員が数名外へ出て、手すりから眼下の暴動を傍観している。時折顔を見合わせるのは飛び火するかどうかの話し合いかもしれない。

 移民の一人がよろめいて体勢を低くした。手で頭を覆っているが、そこへ無情にも高く掲げられた特殊警棒が振り下ろされる。骨の割れる音。ロータリーの地面からレンガ敷きの地面へと血が流れてきた。移民は動かなくなった。浮世絵風のイラストがプリントされているTシャツに赤が上書きされて、元は何が描かれていたのか判別できなくなる。倒れ伏した体を包み込むように流れ出した血に、移民は沈んだ。口元のわずかな呼吸が血の中で独り言のようで虚しい。倒れ込んだ移民を何人もの制服が蹂躙する。返り血を浴びた制服を顧みもせず、逆に制裁を加えてやったという愉悦に身を委ねて次なる獲物へ中高生は駆けていく。彼らは幼い狩人だ。殺しのアマで暴力のプロだ。理性の枷とか知性の檻は、今この場で必要とされない。脳幹で思考しているのだろう。きっとそうだ。そして暴動が終わると何食わぬ顔で血に濡れた制服を着替え、テロリストの面を脱ぐ。理性の枷を嵌めて知性の檻に帰るのだ。そこに幼い狩人はいない。草食動物がいるだけとなる。

 周囲に止める人間はいない。皆遠巻きに見つめるだけでキルゾーンであるロータリーの中へ踏み込む者は誰一人としていない。たぶん誰かが警察を呼んだだろう、気休めにそう思って各々の目的地へ向かう。私だってそうだ。警察に連絡したところで、純血の日本人が電話口に出れば鎮圧と称して暴動に参加し、大陸系の人間が出れば同じく鎮圧と称して中高生を虐殺しにかかるだろう。だから、連絡はしない。中高生が飽きるか大陸系の移民が仲間を率いて逆襲し始めればじきに全ては終わる。

 暴動と正常の境となっているアスファルトとレンガ。できるだけ離れて歩いているところへ、

「お前もついでに死んじまえ」

 声よりも威圧感。殺気と呼んでも差し支えのないそれを前に、振り返らず前へ一歩踏み込む。地面に敷かれたレンガの砕ける音がする。振り返ると今しがた私のいた場所に釘バットが振り下ろされていた。思い切り振り下ろしたせいでレンガの隙間に挟まって、釘バットは引っこ抜けない。釘には赤い物が付着している。いくつかひしゃげているところを見ると、バットの戦績が見えるようだ。鉄さびの匂いが鼻をついた。バットを抜こうとしながらも上目遣いでこちらを見る目は幼い。何か喚いているが声が大きすぎて言葉として認識できない。声からしても中学校に入り立て、そんな印象を受ける。彼が中学一年生とすれば私とは五年の開きになる。つい数ヶ月前は小学生だったのに。世も末だ。普通なら目上の、五年も離れている人間に襲いかかる奴なんていないだろう。だが、暴動の熱気は人を内側から焦がしてしまう。火傷をした場所から、遠い昔の有識者が憎しみだとか負の連鎖だとか呼んだ何かが、全身へと広がってゆく。

 という理屈は今考えたことなのだけれど。

 中腰になっているためちょうど良いところに頭がある。右足を持ち上げて、腰を軸にとか、そういう暴力の技術を無視した蹴りを鼻っ柱へお見舞いした。勢いのない蹴りはそれでも鼻に入ると靴底に骨が砕ける感触を与えた。ろくに重心も据えて蹴ったわけではないから、反動でよろけてしまう。顔の下半分を覆ったネイビーブルーのスカーフが見る間に赤く染まった。鮮血ではない。不健康そうな赤黒い色をしている。

 意外な暴力の反撃にうずくまる中学生をロータリーの方へ送り返すべく、中学時代まで男子に混じってサッカー部で培ったPKの技術を活かした蹴りを頭へとお見舞いしてやった。女子の体力と体格ではPKでしか活躍できなかった分、それだけに自負心も強い。私は想像する。神聖さより見る者への娯楽として供せられる、決勝戦。国立の芝は均等に刈り揃えられて靴底に心地よい。自身とボールとキーパー。それだけの世界だ。想像の観客が遠のいていく。

 左足を軸にして斜め下から突き上げるつま先が、右側頭部に突き刺さる。革靴で蹴ったために力は一点に集中せず、右足の親指の爪がめくられるような感触を受けた。中学生の髪の毛は意外に滑って眉を掠めて右足は飛び出した。一瞬遅れて顔が斜め上へ飛び出す。正確無比な物理エンジンとしての現実が音もなく猛った。顔の回転に追従するように首から下が一呼吸置いて回転し始める。地面から数十センチ上で、花開くように腕が広がった。腕と違い足は好き勝手に動き、もつれ、少し浮き上がったはいいが、体に先駆けて再び地面へと落下する。腰、左腕、胴、側頭部と順序よく落ちる様はビデオで撮ってスロー再生させたいぐらい。ロータリーに耳がぶつかって擦れ、血が出る。鼻血に続いての出血だが、蹴った側頭部及び落下した側頭部から血が出ていないのは不思議だ。頭に血が通っていない証拠なのかも知れない。日本人であることを間違った方へ解釈してしまった結果だと思って諦めて欲しい。中学生は二回目のバウンドで、ついさっき暴行されて血の海に沈んだ移民の隣に止まった。お似合いの血溜まりで共に呼吸する。独り言が二人分に増えた。

 幸いなことに他の暴動参加者は私の暴挙に気付いていない。気付かれていたら他の移民共々血の海を無期限に遊泳させられていたことだろう。泳ぐのも溺れるのも普通の海だけで十分だ。

 腰からの回転を用いた会心の蹴りで乱れたセーラー服を直す。ゴムで止めるだけの簡単なリボンが横にずれている。手のフォロースルーがまずかったのだろうか。校章の胸バッジがどこかへ飛んで行ってしまったことに気付いた。が、後の祭りだ。危険を排して再び安全区域に戻った駅側から、ロータリーには出たくない。どうせ予備はあるし購買で買っても二〇〇円だ。三つの言語に一つの通貨。移民大国になった日本が持つ最後の矜恃だと誰かが言う。

 サイレン音が近くなる。日本人か移民系か。どちらにせよ『良識ある』大人の出動によって暴動の群れは姿を消してゆく。いつの間にかロータリーには負傷者の影しか見えない。遮断機が上がってタクシーがぞろぞろと戻ってくる。器用に倒れる人を避けて定位置で止まった。血溜まりの横で客を待っている。

 いよいよ音だけのパトカーが姿を現した。参加者であると断じられる前に帰ろう。依然として救急車が到着する気配はない。パスケースから三つの言語に彩られた定期券を取り出して、私は改札を抜けた。

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