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国一番の悪徳領主に転生したが、中身が渋沢栄一なので、搾り取った税を全部返したら領民にガチで怯えられた件  作者: 藍田 算


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大陸は、回りはじめる

 国境の草原に、三つの席が据えられた。


 百年ものあいだ、両の国が血を流し合ってきた草の上である。その草を刈り、地を均し、白い天幕が張られていた。天幕の下には、削り出しの長い石卓が一つ。その卓を挟んで、三人の王が向かい合っている。


 ヴェルダン王ラインハルト三世。マルデン王ヴィルヘルム四世。そして北の魔王国スヴァルトの王、フェンリル。


 剣を交える以外の理由でこの三人が一つの卓を囲むのは、大陸が始まって以来、初めてのことだった。


 渋沢は、王たちの卓から一歩退いた場所に立っていた。


 当主でも王でもない。この卓を組み上げた一人の商人として、そこにいるだけだ。手には算盤も帳面もなかった。あるのは、これまで一つずつ回してきた信用の、その到達だけである。


 草原の四方に、三つの国の民が集まっていた。麦の俵を積んだ南の荷車。鉄を満載した北の荷車。値を付け合う声が、卓の周りをぐるりと囲んでいる。石の神殿の奥でも、玉座の間でもなく、荷車と値付けの声に囲まれた市の只中で、その調印は交わされようとしていた。


 卓の脇には、武人たちが並んで立っていた。


 革鎧のアイゼンブルク卿。その隣に、白いものの増えた髭の老武人がいる。ファルケンハインだ。かつて開戦を叫んだ武勲門閥の顔役が、今日は剣を鞘に納めたまま、武人としてこの卓を見届ける側に立っていた。


 「儂は、まだ得心がいったわけではない」ファルケンハインは低く言った。「獣と卓を囲むなど、儂の父が見たら墓を蹴破って出てこよう。……だがな」


 老武人は、北の荷車から鉄を下ろす角のある者たちを見た。


 「あの鉄で、この国の子が鍬を持つ。奪えば来年には奪い返される。あの男の申すことは、どうやら本当らしい。儂は見届ける。武人として、この目でな」


 ボルツが、渋沢の斜め後ろで柄に手を置いたまま、ぼそりと言った。


 「あの爺さんが、あそこまで言うとはな」


 「時代が、変わるのですよ」渋沢は静かに笑った。「剣の一番の使い手が、剣を使わぬ道を認めた。それが、今日という日です」




 書記官が、羊皮紙を広げた。条文を読み上げようとした、その時である。


 「——お待ちを」


 人間の側の列から、白い祭服が進み出た。武神アレスの大神官ヒエロニムスだ。錫杖を石に突き、荘重な声を張った。


 「畏れながら、王よ。この調印は、武神の御名を穢すものにございます。獣と糧を分かち合うなど、この大陸を穢れで満たす所業。大神殿は、断じて認めませぬ」


 声は揺るがなかった。だが、その声に頷く者は、もう一人もいなかった。


 ラインハルト三世が、石の椅子から鷲の目を向けた。


 「大神官。そなたの神殿の帳に、蛇の刻印の剣が納められておった。北の兵に流された剣と、同じ型だ。合同市を焼こうとした剣とも、同じだ。余の前で、まだ穢れを説くか」


 大神官の白い眉が、震えた。


 「あれは……あれは、武具の献納にすぎませぬ。神殿が武神に剣を捧げるは、古よりの慣わしにて——」


 「その剣が、両国に火を点けて回った」王の声は低かった。「余は武神アレスの国の王だ。武を尊ぶ心は、そなたに劣らぬ。だが、余の民を焼くための剣を捧げる神を、余はもう神とは呼べぬ」


 大神官は、何か言い返そうと口を開いた。だが、言葉は出てこなかった。


 彼の背後で、若い神官が一人、そっと列を離れた。かつて渋沢の行いを見て信仰の壁を越えた、オズヴァルトの流れを汲む者だ。武勲でなく行いを見る神官は、もう神殿の内側にも育っていた。大神官の説く穢れは、その神殿の内側からすら、支えを失いつつあった。


 「わたくしは……」大神官の声が、初めて掠れた。「わたくしは、武神の時代を、守りたかっただけでございます」


 「守るべきものを、間違えたのだ」ラインハルト三世は静かに言った。「下がるがよい。そなたの錫杖は、もう戦を呼べぬ」


 白い祭服が、ゆっくりと後ろへ退いた。牢へ引く縄も、打ち据える鞭もなかった。ただ、時代が一つ、その背中を静かに追い越していった。


 渋沢は、退いていく大神官の背を見送った。勝ち誇る気は、微塵も湧かなかった。あの人は、武勲を神と信じた最後の一人だった。その信じたものごと、時代に置き去りにされていく。哀れではあっても、嗤う相手ではなかった。




 北の側でも、一人が進み出ていた。


 狼の目をした将軍、スコルである。フェンリル王の前に立ちはだかり、腕を組んだ。


 「王よ」スコルの声は、絞り出すようだった。「もう一度だけ、申し上げる。施しの次は、隷属だ。今は対等の商いに見えても、鉄を売る道に慣れたその時、我らはもう鉄なしでは生きられぬ。首根を、握られる。俺は、二度は同じ轍を踏ませぬ」


 その言葉に、嘘はなかった。渋沢は、それを聞いて胸を打たれた。


 (この将軍の恐れは、的外れではない。この人は、かつて実際に裏切られた。その冬に、子を失った)


 フェンリルが、ゆっくりと立ち上がった。二メートルを超える偉丈夫が、擦り切れた古い外套のまま、忠臣を見下ろす。


 「スコル。お前の言葉を、我は忘れぬ」


 王の口から出たのは、片言の南の言葉ではなかった。北の重い言葉だった。渋沢の隣で、若い通訳がそれを南の言葉へ移していく。


 「一度、我らは信じて、飢えた。お前の子が、その冬に死んだことも。我は、忘れぬ。……だがな、スコル。見よ」


 王は、草原の民を指した。麦を受け取る角のある者たち。鉄を引き取る人間たち。両の民が、卓の周りで肩を寄せ、値を付け合っている。


 「合同市で、剣が振るわれた時。我らの民は、剣を取らなんだ。人間を守って、立った。お前が守ろうとした、その民が、だ。お前は民を守るために剣を望んだ。だが民は、剣を捨てるほうを選んだ」


 スコルは、何も言えなかった。


 「お前の忠を、我は疑わぬ。だが、将軍としてのお前の役目は、今日で終わる」フェンリルは静かに続けた。「戦のない国に、戦の指揮官は要らぬ。これは、お前が守った民が、選んだことだ」


 スコルの組んだ腕が、ゆっくりと解けていった。狼の目が、麦を受け取る自国の民を、長いあいだ見つめている。


 やがて、彼は王に背を向けた。憎しみの言葉も、捨て台詞もなかった。ただ、自分が守りたかったものに、自分の道が敗れた——その痛みだけを背負って、歩き去ろうとした。


 その前に、スコルは一度だけ、渋沢を見た。


 渋沢は、深く頭を下げた。


 「あなたの恐れは、正しかった。だから私は、貸しを作らぬ商いにしました。あなたが守ろうとした民を、私も飢えさせたくないのです。それだけです」


 スコルは、答えなかった。だが、その狼の目から、凝り固まっていた古い不信の色が、ほんの少しだけ薄れていた。彼は草原の人混みの中へ、静かに消えていった。




 書記官が、改めて条文を読み上げた。


 三つの国の民が、互いの品を、国境を越えて商う。ヴェルダンの藍と織物。マルデンの穀物と岩塩。そしてスヴァルトの鉄。国境にかけていた重い関税を下げ合い、代わりに増えた交易から、三つの国がともに潤う——関税同盟が、大陸の規模にまで広がろうとしていた。


 フェンリルが、卓の上の羊皮紙を琥珀の目で見下ろした。


 「算盤の男。一つ、問う」王は言った。「我らには、貨幣がない。紙の金も、蔵の金貨もない。あるのは、鉄だけだ。それで、どうやってこの卓に加わる」


 「鉄で、十分でございます」渋沢は言った。「まず、鉄そのものが担保です。確かにそこにある鉄は、どんな紙よりも確かな価値です。その鉄と、こちらの食料を、同じ場で同じ時に交換する。貸し借りは、生まれません」


 「それは、もう、やった」


 「はい。もう幾度も、やっていただきました」渋沢は頷いた。「約束が守られるたび、信用が積もります。その信用が積もれば、次の段は、こうです。こちらが食料を先に渡し、鉄は後で頂く。合本銀行が、その決済を保証します。先に渡せる分だけ、荷は大きくなる。少量の物々交換から始めた商いが、大陸を流れる大きな川になります」


 「川が、涸れたら」


 「涸れません」渋沢は、まっすぐに王を見た。「あなたの鉄が南で売れれば、その利で食料が買えます。飢えが止まれば、南下の必要も消える。鉄が食料を呼び、食料が鉄を呼ぶ。一度回り始めれば、この輪は、誰の命令もなく、自分で回り続けます。武神の加護も、王の号令も要りません。得をし合う——ただそれだけで、回るのです」


 フェンリルは、長いあいだ、羊皮紙を見つめていた。


 やがて、鉄の腕輪をはめた大きな手が、羽根ペンを取った。


 三人の王が、順に、羊皮紙へ名を記していく。ラインハルト三世の、武人らしい鋭い筆。ヴィルヘルム四世の、疲れを湛えた穏やかな筆。そしてフェンリルの、慣れぬ南の綴りで一字ずつ刻む、たどたどしい筆。


 かつて、たどたどしい南の綴りで「鉄を、買え」と書かれた一通の書状があった。剣を握る前に寄越された、最後の商いの申し出だった。あれを書いた同じ手が今、同じたどたどしい綴りで、自分の名を、大陸を結ぶ紙に記している。


 羽根ペンが、置かれた。


 三つの署名が、一枚の羊皮紙の上に、並んだ。




 その瞬間、草原の四方で、荷車が動き出した。


 鉄を積んだ北の荷車が、南へ。麦を積んだ南の荷車が、北へ。かつて軍勢が槍を並べて進軍した国境の道を、今は荷車が、両の向きにすれ違いながら越えていく。


 開戦を告げるはずだった角笛は、鳴らなかった。代わりに、値を付け合う三つの国の声が、草原いっぱいに満ちていた。


 ラインハルト三世が、署名を終えた羽根ペンを置き、渋沢を見た。


 「男爵。そなたは、余に一度も剣を持たせなかった」王は言った。「余は武の王だ。生涯、力で国を戴いてきた。その余が、剣を一度も抜かずに、大陸を一つにした。……これは、そなたの言うた、あれか」


 「はい」渋沢は言った。「奪い合えば足りず、分け合えば余る。ずっと、そう言い続けてきました。ようやく、世界が頷いてくれました」


 渋沢の胸に、二度目の生の日々が、よぎった。


 悪徳領主の体で目を覚ました、あの朝。縄を解いた農夫の、怯えた目。広間で睨みつけてきたニケ。忘れられた藍の畑。銭を出し合った職人たち。震える指で最初の手形を書いた男。銅貨一枚を国に貸した行商人。奪い返されぬ鉄の道。——そのすべてが、この草原の一日へ、繋がっていた。


 (金は、天下の回り物。回してこそ、価値が出る)


 九十一年の生涯をかけて、渋沢が証明しようとした一事があった。道徳と経済は、両立する。奪うのでなく、生む。独り占めするのでなく、分け合う。前世で五百の会社を育て、六百の事業に手を貸して、なお言い続けたその信念を——今、剣と魔法の世界が、大陸まるごとで、頷いていた。


 渋沢は、三人の王に向かって、深く頭を下げた。それから顔を上げ、静かに言った。


 「金は、天下の回り物です。手から手へ回るうちに、麦になり、鉄になり、子の腹を満たす。回してこそ、価値が出る。それは剣でも魔法でもなく——世界を、変えられるのです」


 草原に、風が渡った。


 武神信仰の時代が、終わろうとしていた。


 力ある者が奪い、奪われ、また奪う。魔力の多寡が人の値を決める。強い者だけが栄える——そういう世界が、ゆっくりと後ろへ退いていく。


 代わりに始まるのは、循環の時代だった。汗をかいた者が潤う。分け合った者が、余らせる。角のある者も、ない者も、同じ卓で値を掛け合う。剣の強さでなく、回す信用が人と人を結ぶ世界。


 卓の脇で、ガルムが肥えた腹を揺すって笑った。


 「男爵。とうとう、大陸ひとつを商いの品にしてしまったな」総帥は指の金の指輪を光らせた。「私の合本銀行が、その鉄の決済を丸ごと保証する。回る道が大陸に広がれば、そのぶん私の荷も速く回る。……よい商いだ。私は、乗った甲斐があった」


 ゼーバルトが、帳面を抱えたまま、また洟をすすっていた。


 「手前は、あの深酒の朝を、思い出しております」老執事は震える声で言った。「ご乱心なさったと、手前は泣いたものでございます。あの日のご乱心が、まさか、大陸を……」


 「あれは、正気だと言ったでしょう」渋沢は笑った。「今も、正気ですよ」


 ニケが、藍の染みの残る指で、荷車を指した。北へ渡っていく麦の荷車だ。


 「見なよ、領主様」ニケは目を細めた。「あたしの村の麦が、北の子の腹を満たしに行く。あんたが最初に、あの藍畑で言った通りになった。……悔しいけど、あんたの言った通りだよ」




 調印の卓の向こう、国境の道では、北と南の荷車が、途切れなくすれ違っていた。


 百年、血を吸ってきた草原に、荷車の轍が幾筋も刻まれていく。剣が引いた国境線が、いつのまにか、荷車の通う道へ変わっていた。


 その道の脇で、角のある子と、角のない子が、鉄くずを的に石を投げ合って遊んでいた。どちらの国の子か、もう見分けもつかない。二人の頭上を、鉄の匂いと焼き立ての麦の匂いが、風に混じって流れていく。


 高みに立つフェンリルが、その子らを見下ろしていた。琥珀の目に、もう飢えの影はなかった。王は渋沢のほうへ、ひとつ深くうなずいた。武の王が、経済の王になった——その一礼だった。


 渋沢は、うなずき返した。


 剣を、一度も持たなかった。魔力も、最後までなかった。この身にできることは、九十一年と二十年余りを通じて、算盤を弾くことだけだった。それでも、世界は変わった。


 北へ、南へ。荷車は、止まらなかった。


 奪うための国境が、分け合うための道に変わったその日から——大陸は、ゆっくりと、回りはじめた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


この一話が、この物語の頂点でした。剣も魔法も持たない渋沢栄一が、とうとう大陸ひとつを、戦争でなく通商で結び直します。誰も殺さず、誰も断罪の高笑いで蹴落とさず、世界の形そのものを作り変える——ずっと、ここを目指して書いてきました。


大事にしたのは、これを理念や奇跡で成立させないことでした。魔王国スヴァルトには貨幣も紙の信用もありません。だからこそ「確かにそこにある鉄」を担保にし、まず貸し借りの生まれない同時交換から始め、約束が守られた実績を一つずつ積み、そのうえで先渡しへ移って荷を大きくする。鉄が食料を呼び、食料が鉄を呼ぶ循環が回り出せば、あとは誰の号令もなく自走する。渋沢栄一が現実の日本でやったこと——合本、銀行、信用——を、制度も文字も共有しない異種族相手にゼロから積み直す。その積み重ねの果てに、この調印があります。


将軍スコルと大神官ヒエロニムスは、断罪でなく「時代に敗れる者」として描きました。スコルの人間不信は的外れではなく、彼は本当に裏切られ、子を失っています。それでも、守りたかった民自身が交易を選んだ。渋沢は勝ち誇らず、ただ頭を下げます。そこにこの作品の芯を込めたつもりです。


「道徳と経済は両立する」。渋沢栄一が生涯かけて証明しようとしたこの一事が、異世界の大陸規模で頷かれた瞬間でした。物語はあと二話、EP57で経済圏の回り始めた大陸の後日を、EP58で二度目の生の結実を描いて、大団円へ向かいます。どうか最後まで、見届けてください。


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