穢れと、一挺の鍬
一台目から幾度か車を重ね、幾週かが過ぎた。谷を南へ下り、国境の街へ戻ると、市の広場に人だかりができていた。北の鉄が街の鍛冶を通り、鍬になり、畑を耕しはじめた頃だ。
輪の中心に、白い祭服が立っている。武神アレスの紋を刻んだ大神官の装束だ。剣を模した錫杖が、石畳を突くたびに硬い音を立てた。大神官ヒエロニムス。御前会議で一度、玉座の脇から穢れを説いた人だ。その大神官が都を離れ、この国境まで下りてきていた。
声が、広場の隅まで通っていた。
「——先の大戦を、忘れたか」
ヒエロニムスは錫杖を掲げた。人の波が、水を打ったように静まる。
「三十年前、北の獣がこの国境を越え、南を焼いた。畑は灰になり、井戸には屍が浮いた。喉を裂かれた者の血が、今もこの土に染みておる。……その獣と手を取り、糧を分かとうという者がいるそうな」
人垣の後ろで、誰かが小さく身を震わせた。
「獣の掘った鉄。獣の触れた糧。それを我らの畑に、竈に招き入れれば、どうなるか」大神官の声が低くなった。「穢れは、水のように回る。一度招けば、畑も子も、やがてこの国そのものが穢れましょう。武神の御名にかけて、わたくしは見過ごせませぬ」
恐れが静かに広場を満たしていく。飢えではない。もっと古い、血の記憶から立ちのぼる恐れだった。
渋沢は人垣の外に立って、それを聞いていた。
大神官が突いているのは、算盤の届かぬ場所だった。三十年前、北との国境で肉親を喪ったという、人々の古い傷。言葉でどう説いても、この傷には届かない。どちらが先に村を焼いたのか、渋沢には測れない。両国が、それぞれの言い分で相手を恨んでいる。ただ、傷を負った者の恐れだけは、まぎれもなく本物だった。
(この傷は、算盤では弾けない)
ヒエロニムスの目が人垣の外の渋沢を捉えた。
「ブルーメンタール卿」慇懃な声だった。「あなたが獣に麦を運んでおられる、あの方か」
「はい」渋沢は礼をした。「私が運びました」
「では、お尋ねしましょう。この者たちの父や子を屠った獣の手から鉄を受け取り、それを我らの土地に撒く。……その鉄で耕した畑を武神がお赦しになると、お思いか」
渋沢は、しばらく黙っていた。それから、静かに口を開いた。
「穢れるかどうかは、私には分かりません。神の御心を測る目を、私は持ちませんので」渋沢は言った。「ただ、一つだけ確かなことがあります」
「確かなこと」
「北から来た鉄で、この街の鍛冶が鍬を打ちました。その鍬で耕した畑の麦を、昨日この広場の子が食べました。腹を空かせて泣いていた子が、今朝は泣いていません」渋沢は大神官を見た。「その子が生きたことは、穢れでしょうか」
ヒエロニムスの白い眉が、わずかに寄った。
「……一人の子の腹で、国の穢れを量られるか」
「一人の子の腹より重いものが、この世にありましょうか」
大神官は、答えなかった。錫杖を握る手に、青い筋が浮いた。
この人は、本気だった。武勲こそ尊いと信じ、その信の上に一生を積んできた人だ。その世が終わろうとしている。獣と分かち合う世が来れば、武神の時代は幕を下ろす。この人にとって、それは世界が穢れるのと同じ意味だった。
「わたくしは」ヒエロニムスは、ゆっくりと言った。「この国が武で立ってきたことを、知っております。武神の御加護で、三十年前に我らは獣を押し返した。その御恩を銭の勘定で忘れる世を、わたくしは認めませぬ」
声は、最後まで揺るがなかった。ただ、言い終えた大神官がひとつ息を継いだ。その一拍に、時代に追われる者の疲れがにじんでいた。
大神官は錫杖を返し、供の神官を連れて広場を去っていった。去り際、渋沢へ一言だけ残した。
「その鉄は、いずれこの国に血を呼びます。……穢れは、必ず祟る」
ボルツが、渋沢の斜め後ろで低く唸った。
「あの坊主、剣も持たずに人を焚きつけるのが仕事か。斬れんのが厄介だな」
「斬ってはいけません」渋沢は苦笑した。「あの方の恐れは、本物ですから」
*
大神官が去っても、市はすぐには元に戻らなかった。
塩の台の前で、女が一人、藍の束を手に立ち尽くしていた。国境の市で山の岩塩と畑の藍を並べて売る、あの塩売りの女だ。女は藍の束を台に置きかけ、また引っ込めた。北の鉄をここへ並べれば、穢れを恐れる客が離れる。そう案じる顔だった。
「並べるのを、やめますか」渋沢は女に尋ねた。
女はしばらく黙り、それから鼻を鳴らした。
「やめないよ」台の板を叩いて、塩の袋をどんと置く。「山の塩と畑の藍がなきゃ、こっちもあっちも暮らしが回らない。神官さまの言うことも分かるさ。でもね、祟りより先にうちの子が腹を空かせる。塩は、生きてる者にしか売れないんだ」
そこへ、荷を背負った男が坂を上ってきた。日に灼けた顔に、マルデンの訛り。穀物商のオトマーだ。婚礼の衣を敵国の藍で染める村の男で、毎年この市へ穀物を積んで越えてくる。
「よう、算盤売り」オトマーは荷を下ろした。「妙な噂を聞いたぞ。北の獣の鉄が、この市に並ぶってな」
「並びます」渋沢は言った。「あなたの穀物の隣に」
「俺の穀物の隣に、獣の鉄が」オトマーは眉を寄せた。「村のやつらは、いい顔をせんぞ。獣の鉄なんぞ」
渋沢は台の上に一本の鍬を置いた。街の鍛冶が北の鉄で打った、まだ真新しい鍬だ。
「この鍬で、マルデンの畑を耕せます」渋沢は言った。「北には鉄が余るほどありますが、麦がない。あなたの村には麦がありますが、鉄が足りない」
渋沢は鍬の刃に指を触れた。
「北の鉄が鍬になり、あなたの畑を耕す。穫れた麦が北へ渡り、飢えが止まれば、南へ下ろうとする剣も握らずに済みます」
オトマーは、鍬をしばらく見ていた。
「奪い合えば、北も南も焼けます。分け合えば、双方の畑が実る」渋沢は鍬の柄に手を置いた。「あなたが弟御を亡くした国境の畑にも、いつかこの鉄の鍬が入る日が来る。その鍬で穫れた麦を、獣の子が食べる。——それは、弔いにこそなれ、穢れにはなりません」
オトマーの手が、止まった。
「……弟は畑を一枚も増やさず、槍で死んだ」荷袋の口を、ゆっくりと解く。「いいだろう。俺の麦を、その台に並べてくれ。獣の鉄の、隣にな」
こうして、一つずつだった。
塩売りの女の岩塩。オトマーの麦。街の鍛冶の鍬になった北の鉄。ヴェルダンの藍。国境の市の台の上で、それらが少しずつ肩を並べはじめた。誰かの欲しいものを、別の誰かが持っている。それを一つずつ結んでいけば、いつか大陸をひと巡りする大きな輪になる。
大神官の穢れの言葉は、人の心を凍らせる。凍った手も、温かい麦の匂いには緩む。渋沢は論では大神官に勝てなかった。勝つ気もなかった。ただ、目の前の一つの実りを、もう一つの飢えに結ぶ。それを積み重ねるだけだった。
*
その日の夕、街の宿に、思いがけぬ客が着いた。
オーレンダール商会の総帥、ガルムだった。合本銀行に一番大きな看板を張った男でもある。でっぷり肥えた体を、旅装がはち切れそうにしている。指の金の指輪は、国境の埃をかぶってなお鈍く光っていた。
「わざわざ、都から」渋沢は迎えた。「ガルム殿が、こんな辺境まで」
「貴公が獣の国と商いを始めたと聞けば、来ぬわけにいくまい」ガルムは椅子を軋ませて腰を下ろした。「鉄の取引に、私の看板を張った合本銀行が決済の保証を立てるなら、この目で市を見ておかねばな。……来る道々、面白くない話を拾ってな」
「面白くない話」
「北の獣の兵が、南の鍛冶の剣を提げているそうだな」ガルムは声を落とした。「貴公の隊長も、それを見たと聞いた」
「ボルツが、谷で」渋沢は頷いた。「継ぎ接ぎの鎧に真新しい剣が混じっていた、と」
「その剣を流している手に、心当たりがあってな」ガルムは太い指を組んだ。「シュランゲが潰れたのは、貴公も知っていよう。あの死の商人の下には、剣の目利きも鍛冶の伝手もあった。抱えていた弟子筋がいたのだ」
「親方が消えても、網は残ると」
「そういうことよ。そいつらが今、飢えた北の谷へせっせと刃を売り込んでいる」
渋沢は黙って先を待った。
「その弟子筋がな」ガルムは眉を上げた。「都の、武神の大神殿に出入りしているらしい」
部屋の空気が、ひとつ重くなった。
「……大神殿に」
「私も商人だ、噂の裏くらいは取る。だが、そこから先はまだ霧の中よ」ガルムは肩をすくめた。「弟子筋が神殿に何を売っているのか、神殿が何を買っているのか。剣か、火種か、それとも別の何かか。そこまでは、私にも見えん」
渋沢の脳裏に、二つの壁が並んだ。
北の谷に立つ、スコルの不信の壁。南の広場に立つ、大神官の穢れの壁。動機はまるで違う。かたや、過去に裏切られた民の恐れ。かたや、時代に取り残される信仰の恐れ。その二つが、南の鍛冶の刃という一本の糸で裏から縫い合わされようとしている。
その端が見えただけだった。誰が針を握り、何を縫おうとしているのか。渋沢には、まだ何も掴めていない。ここで憶測に先を委ねれば、足を踏み外す。
「ガルム殿」渋沢は言った。「その弟子筋の名と、大神殿の誰に会っているか。手繰れるだけ、手繰っていただけますか」
「言われずとも」ガルムは腹を揺すった。「私の銀行の金が絡む商いに蛇が巻きついているなら、放ってはおけん。……面白くなってきたな、男爵」
*
翌朝、市の台に、麦と塩と、北の鉄で打った鍬が肩を並べた。
オトマーの麦の隣で、鍬の刃が朝日を弾いている。街の女房がそれを手に取った。刃の重さを確かめ、銅貨を一枚置いて坂を下りていく。大神官の穢れの言葉も、この一挺の鍬を止めるには至らなかった。
渋沢はその台の賑わいを、しばらく眺めていた。
この活気の下で、誰かがひそかに刃を研いでいる。それが牙を剥くより先に、この台の輪を大陸の端まで結べるか。渋沢の勝負は、その一点にあった。
国境の市に、朝の値付けの声が上がりはじめた。北の鉄と、南の麦と、その二つを裏から狙う見えぬ何かと。三つながら、行き着く先はまだ誰の目にも見えていなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、北(魔王国)の壁を一歩動かした渋沢が、今度は南(人間の側)で、もう一つの壁に出会う回でした。大神官ヒエロニムスの掲げる「穢れ」です。
この大神官を書くとき、いちばん気をつけたのは、彼を「ただの悪い坊主」にしないことでした。渋沢の物語では、これまで何度も「商いを卑しむ」壁が立ちました。けれど今回の壁は、それとは質を変えたかった。ヒエロニムスが恐れているのは、儲けの卑しさではありません。三十年前、獣に肉親を殺された人々の生々しい傷であり、獣と分かち合う世が来れば武神の時代そのものが終わってしまう、という切実な恐れです。彼の震えは、本物です。だから渋沢は、彼を言い負かせません。言い負かす気もありません。
渋沢栄一という人は、論より先に、まず「現に人が潤っている事実」を差し出す人でした。今回もそうです。穢れという言葉に、彼はただ一挺の鍬と、一杯の麦で応えます。北の鉄で打った鍬で耕した畑の麦を、子が食べて、今朝は泣いていない——その一つの実りを、もう一つの飢えに結んでいく。地味ですが、これが彼の戦い方です。
そして今回、北と南、二つの壁の裏に、一本の黒い糸が見えはじめました。次回、その糸が最大の窮地を連れてきます。どうか見届けてください。
☆評価・ブックマーク・感想が、完結までの大きな励みになります。




