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慎は、赤面してしまった気がして、開けかけたパンの袋を放り出して両手で顔を覆った。
「いや、僕のことではなくて。……そんな風に思ったから、すぐに応じてくれたんだね」
「違うんですか?」
すばるは、あまり深刻な内容ではなさそうだと見当をつけたのか、合掌して会釈すると、弁当に箸をつけ始めた。
木製の弁当箱は背の低い円筒形――慎は、楕円ではなく円の弁当箱を見たのは初めてのような気がした――をしており、その中は、高校生には少し物足りなさそうに見える量の五目飯とおかずがきっちりと詰められている。
「座馬さんて、死にたいわけじゃないんだよね?」
「ええ。」
「僕も、君を死なせたくない」
「どうしてですか?」
どうしてですか。
そう正面切って訊かれると、なんと言えばいいのか。
ぎこちなくではあるが、慎は思考をなんとか言語化した。
「……嬉しかったからだと思う」
「相馬くんがですか?」
「うん。僕は小さいころから、少し色々あって……自分があまり好きじゃなかったんだ。いや、大嫌いだった。そう思ったのは、小学校の後半になってからのことだったんだけど」
「……なにがあったのか、訊いても?」
慎はかぶりを振った。
「聞いて愉快になる話じゃないし、長くなるからね。……僕はそれ以来、自分だけじゃなくて、自分の親も軽蔑するようになった。罪悪感で一杯で、でもなにもできなくて、失くしてしまったものはもう取り返しがつかなくて……。この世から消えたいと何度も思った。それができないならせめてずっと独りで居続けようと思って、友達も作らなかった。どんなに寂しくても、それに耐えなくてはいけないと思った」
すばるは箸を置いた。目礼で、続けて、と言ってくる。
「だから、凄く久し振りだったんだ。誰かに助けられたり、気遣ってもらったりすることが。……そんなことができる人に、死んで欲しくない。僕よりずっと生きる意味のある人だから」
「……私、自分でも本当に分からないんです。なんで全然死にたくないのに、死のうとしてしまうのか」
すばるが、アームカバーの上から左手首を撫でた。
「ならなおさらだ。僕は君を死なせない。不死身になる方法なんて見つけなくていい。君を死にたがらせている原因を解き明かして、取り払う」
「……私は、死にたくはないものの、私が死んだとしてもそんなに困る人間の心当たりがないんです。深い親交のある友達もいませんし」
話が唐突だったので、慎の口からは
「……え?」
と調子外れの声が出た。
「相馬くん、食べないとお昼休みが終わりますよ」
「あ、うん」
すばるは、再び箸を手に取って動かし始めた。
単調ながら素早い動きで、インゲンや五目飯を次々に口に運んでいく。
それをもぐもぐと咀嚼する合間に、告げてきた。
「そんな私ですが、相馬くんには死んで欲しくないと思います。不思議な能力を持つ同士の仲間意識というのもありますが。小鳥のために怖いお兄さんに立ち向かったり、ひどくつらい過去をお持ちのようなのに他人――私のことですが――を助けようと行動できる相馬くんが、今日までに自ら命を失うようなことがなくて、本当によかったと思っています。あなたがこの世から消える必要なんてありませんよ」
「……座馬さん」
慎は、同じ言葉をそっくりそのまま返してやりたかった。
「私はずっと怯えていました」
また話が飛んだ。
「以前、この能力のことを話した相手が一人だけいます。小学校の時の同級生です」
「うん」
「彼女はとても驚いていましたが、私の話が事実だと受け入れてくれました。私は、とても嬉しかったんです。でももう彼女は能力のことは覚えていません。私がその記憶を消したからです」
「……つらいことがあったんだ?」
「打ち明けて数日間は、どちらの時も、とても晴れ晴れとした気持ちでした。彼女はそれまで通りに接してくれた。しばらくはなにも変わらず、むしろ私の能力の実験にまでつき合ってくれて……私はこれから、信用できる友人にだけ秘密を解放して、伸びやかな気持ちで生きていけるのだと思いました。でも、私の能力のことを知らないのと、知っていて黙っているのとは、まるで違うことでした」
いまだに、慎のパンの袋は、口を完全に開いてはいなかった。
真昼時の太陽が作る雲の影が、窓の外に見える。
自分たちも校舎の影の中にいる。
それも、すばると二人で、ほかに誰もいない教室に。
まるで教室ごと世界から切り取られたような感覚を覚えながら、慎は、すばるの声を聞いていた。
「誰かのシャープペンが一本なくなり、どこで失くしたか思い出せないと言う。とても好きだったはずの歌詞が思い出せなくなる。誰かが調理実習で使う道具を忘れてくる。そんな時、私の能力を知る彼女は冗談めかして言ってくるんです。『あなたがやったんじゃないよね?』
……違いますよ。そんなことするわけないじゃないですか。やろうと思えばできるからって、万引きや詐欺をしないのと同じじゃないですか。もちろん今なら分かります、彼女も不安だったのだと――」
すばるの箸は、また止まっている。
「――異常なことができる人間から異常なことを告げられて、怖かったのだと。でもあの時の私は、努めて笑って否定しながら、胸を刃物で突かれるような痛みに襲われていました。そうあり続けることに耐えられなかった。だから、結局は彼女から、私の能力の記憶を隠したんです」
慎には、分かる気がした。
今まで誰にも能力のことを打ち明けられなかったのは、そうした、いわば架空の濡れ衣を、冗談半分でも口にされることのつらさに耐えられる自信がなかったというのもある。
誰にも見つからないよう、女子をストーキングしてはいないか? テストの点数がいいのは、こっそりカンニングしたからじゃないのか? 無責任に、悪気なく、けれどいくばくかの猜疑心を込めた目をしてそう言われ続けたら、人間不信に陥りかねない。
「今までは、私の能力が悪用されないことを信じられるのは、私だけでした。でも、これからは違います。私が記憶封印を悪用したら、きっと相馬くんにはバレてしまいますからね」
「うん。それは、ぼくも同じだ。虚空化を悪用したら、きっと座馬さんには勘づかれてしまう」
「でも私は、相馬くんはそんなことをしないと信じていますよ」
「もちろん、僕もだよ。そして、能力のことで君をからかったりもしない」
「私もです」
すばるの箸が、三度動き出した。
慎も、ようやくパンを口に運ぶ。中にクリームを挟んだ黒糖味のコッペパンが、舌の上で適度な甘味を伝えてきた。
「私、能力のことを打ち明けたのが、相馬くんでよかったです」
「うん、それも僕も……って、食べるペース早くない? 喉につかえたりとか、大丈夫?」
「はい。はっきり言って私、今、興奮していますので」
それが無事な嚥下をどう保証するのかは分かりかねたが、ひとまず慎も自分の昼食に集中することにした。
昼休みはもう、残り少ない。間もなく予鈴が鳴るだろう。
「ところで相馬くん、私、一つお願いがあるのですが。私のことを、座馬さんと呼ぶのをやめていただけませんか」
「え、どうして。嫌だった?」
「いえ、苗字そのものが嫌なわけではないんですが。……以前、ざまあみろの頭文字みたいだとからかわれたことがあるので」
「それはひどい……。でも、なんと呼べば?」
「もちろん、下の名前でお呼びください。すばる、と」
「え? すばるさん、とか?」
「先輩じゃないんですから」
「では、すばるちゃん?」
「子供じゃないんですから」
「どうすれば」
「呼び捨てで結構です」
「それはさすがにちょっと」
「ある程度仲良くなれば、あだ名と変わらないですよ」
ある程度仲良く。
なった、のか。
慎は少しどきりとした。
この僕が、人と、仲良く。
「そうすると、僕のことも下の名前で呼ぶの?」
「ええ。慎くんと」
「……そこはくんをつけるんだ?」
「さらにもっと仲良くなったら呼び捨てにします」
それが正しいのか間違っているのかは分からなかったが、そもそも正解があるものでもないか、と慎は半ばさじを投げて、受け入れた。
「では、仲良しの証として、連絡先を交換しましょう」
すばるがスマートフォンを取り出し、慎もそれに倣ったが。
「あ、うん。……どうやるの、これ」
「私もよく分かりません」
友達がいない同士の連絡先交換は、たっぷり五分ほどかけて、ようやく成し遂げられた。
その時、予鈴が鳴った。
いつの間に食べ終わったのか、すばるの弁当箱は手早く閉じられ、ナプキンに包まれていく。
「では、教室に帰りましょうか。慎くん」
「……うん。すば、る」
「私、少し浮かれています」
「それはよかった、のかな?」
慎がパイプ椅子から立ち上がると、ドアを開きかけたすばるが振り向いた。
「もし慎くんがその気になったら、先程のご家族とのお話、よければ聞かせてください」
「うん。……すばるもね」
慎は、自分が虚空化を身に着けた理由を思い返して、そう告げた。もしかしたらすばるも同じような思いをしてきたのかもしれない。
「私の家族の話は、そんなに長くありませんよ。私が小学生のころ、ある日突然、怪しい振興宗教の人たちがうちに来たんです。母は、……いろいろあって入信してしまって、巨額の寄付をしました。それがきっかけで両親は大げんかして離婚し、父はどこでどうしているのか、今では没交渉です。学校では私に近づくと入信させられるって噂が立って、みんな私に近づかなくなりました」
「新興、宗教……?」
「はい。その団体の人たち、宗教ではなくて思想団体だとか言っていましたけど、私たちから見れば似たようなものでした。それまではありふれた幸せな家族だったのに、怒鳴り声と鳴き声と悲鳴が飛び交う家になってしまって、最後には殴り合いにもなって……うちなりの将来設計は全部吹き飛んでしまって、ずいぶんその団体を恨みました」
話の後半は、慎の耳にはまともに入って来なかった。
不思議そうにしているすばるに、少し頭が痛いから僕は保健室に行くと言って一人教室に戻らせ、結局空き部室の中の椅子に再び座り直して、慎は呆然としていた。
断片的な情報で、決めつけるな。
同じような団体なんて、きょうびいくらでもある。
いくらそう言い聞かせても、胸中の嵐は収まりそうになかった。
チャイムが鳴った。
午後の授業が始まる。
しかし、慎はどうしても、すばるのいる教室に戻ることができなかった。
この日の夜、座馬すばるが、自宅で手首を切ったという報せがクラスメイト中を回った。
命に別状はないという。
しかしその夜から慎は、眠れなくなった。




