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5

 慎は昨日の出来事を思い返した。

 慎の記憶には残っていないが、ガラの悪い二人組に絡まれたクラスメイト(慎)を助けるため、膂力に乏しい少女があんなに暗い路地に入ってきて、特別な能力を使って助けてくれた。


 自分がもしすばると同じ状況に置かれたら、どうするだろう。

 秘密の能力を持っている。それを人には明かさずに生きている。

 なのに、友人とも言えないクラスメイトのために、その能力を目の前で使って助けてくれた。どんな能力なのかも教えてくれた。


 人の記憶を消してしまう――正確には「隠す」らしいが――力。そんなものが赤の他人に知られてしまえば、どうなるだろう。厄介事が巻き起こるのは目に見えている。

 なにより。


(座馬さんは、僕の記憶を消さなかった。座馬さんの能力のことを、僕が覚えていることを許した)


 まるで事情が呑み込めていない慎の記憶を、不意を突いて封じることくらい、簡単だっただろう。

 だがそうしなかった三つの理由は、どれも、すばるが能力を周知されて見世物になるリスクと釣り合うほどのものとは思えなかった。


 人柄だよな、と慎は胸中で独り言ちる。

 その続きは、声になって口から出た。


「彼女の苦しみを止めたい。……切りたくて手首を切っているんじゃないのなら、なおさら」


 以前から面識があるのではないかというのはすばるの勘違いだと思うが、彼女の方が仲間意識を持ってくれているというのなら、自傷行為を止めるくらいの義務は、すでに自分にはあるような気がした。


 すばるは死にたくないと言った。

 それを信じて、できるだけのことをしてやりたい。

 慎にとって、初めての感覚だった。


 今まで、自分のせいで人を不幸にしたことはある。

 もう誰にも迷惑をかけずに生きていきたいと、何度も思った。

 だが、自分の力で誰かを救いたいと思ったことは――そんな思い上がりにも似た自意識を持ったことは、なかったはずだ。

 恐らくはこの数年で初めて、慎は、自分が救いようのある人間に思えた。


 部屋のドアを開け、階段を降りて、玄関へ向かう。

 そこへ、ちょうど祖父が起き出してきた。


「ああ、慎。学校か。相変わらず早いな」


 やや細い体に、着古したパジャマをまとった祖父は、穏やかに微笑む。


「うん。お早う、おじいちゃん。行ってきます」


 と返す。そのまま出ていこうとしたのだが。


「慎、昨夜お前のお父さんから連絡が入った。今度の土曜、夕方にこの近くを通るらしい。……会いたいか?」


「ううん、全然」


 強いて簡潔な受け答えに終始しなければ、怒鳴ってしまいそうだった。その衝動を、他人ごとのように無感情な自分の声で、どうにか落ち着かせる。


 そして思い出した。

 コーヒーをストレートで飲むのは、牛乳が好きな父親への嫌悪からだった。

 パンを生でかじるのは、トーストにバターをたっぷり載せるのが好きな母親を見てきたからだった。

 反抗期だからではない。嫌悪感からだ。


「今は栃木のほうに行くことが多いらしい。改めて関東での活動を増やすみたいだ。……彼らからなにかちょっかいを出されたら、わしらにすぐに言いなさい」


「うん。分かってる」


「この家にも時々、新興宗教を咎めるような手紙が届くこともある。……信者本人たちに言わせれば、宗教ではなく思想団体だとは言うが、そんなもの、肉親のわしらにすら区別ができんからな」


 祖父が苦笑した。


 慎は、目の焦点を人に合わせず、どこか遠くを見ながら声高に話す父親の喋り方を思い出す。


――そうだ、我々は選民思想を憎む。能力による優劣はあれど、人間全て、知と権利と機会においては平等でなくてはならないからな。とりわけ、まずは知だ。今のように、知が絶対的に不足していては、人類がこれから迎える総体的な難局を乗り越えることなどできるはずもない――


 思い出しただけで胃の底が重くなる、あの声。

 その不愉快さを振り払うように、慎が顔を上げて言った。


「おばあちゃんはまだ寝てるよね。休みの日に起こしちゃ悪いから、僕はもう行くよ」


 心配そうにしている祖父を残し、ドアを開ける。


 周囲の建築物に切り取られた空が、最近では珍しく、青く高く晴れ上がっていた。

 祖父のことも、祖母のことも好きだ。妹のことも。ただ、家という空間が、人間が家族という単位で生活している箱の中にいるのが、どうしても苦手なままだ。


 家を出た開放感の中で、登校の時間が始まる。

 すると、両親のことは、いつにない早さで頭の中から追い出されて行った。


 代わりに、思考の中心を占めるのは。

 自分のなにかを、少しだけ、しかし確実に変えてしまった、同級生のことだった。


 早く学校に着きたい。

 そう思ったことなど、今日までなかった。

 特別なことが始まったように思えた。



 その日の昼休み、慎たちの教室に、見慣れない男子生徒がやってきた。

 近ころでは、クラス中の誰もが、座馬すばるへの告白のためにやってくる人間とそうでない人間の区別がつくようになっていた。

 今回は、前者である。


 名前を呼ばれて、当のすばるは、穏やかに席を立った。

 そして、二年生らしいその男子がたたずむドアへと向かう。


 どうやら、期末試験の後の夏休みを、座馬すばると恋人同士となって過ごそうと目論む男が多いらしく、一時期落ち着きを見せかけていたすばるへの告白者は、ここのところペース上がって増えてきていた。


 二年生男子が、すばるに手を上げて応えようとした時。

 慎は、つと立ち上がって、横合いからすばるに声をかけた。


「座馬さん。少しいいかな」


 クラスの中がざわついた。

 一学期の間ここまで、これという友人も作らず、ともすれば教師からも名前を忘れられがちな、あの相馬慎が、すばるになんの用だというのか。

 まさか、告白か? それも、すばるが目の前でほかの男子に呼ばれている、こんなタイミングで。


 すばるもまた、驚いて目を見開いたが、特に考え込む様子もなくすたすたと慎に向かって歩き出す。

 二年生男子が、慌てて


「座馬さん!?」


 と講義の声を上げた。

 しかしすばるは、


「すみません。先約が入ってしまいました」


「せ、先約って……おかしくね?」


「先輩は私に、なんのご用ですか?」


 すでに用件も返事も分かりきっていることが明白な受け答えに、二年生男子は鼻白みながら、


「……いいや」


 と吐き捨てて去っていった。

 すばるはくるりと慎に向き直り、


「お待たせしました。……どうかしましたか、相馬くん」


「……食後でいいから、少しだけ話したいことがあるんだ」


「いいですよ。待っていてください」


 すばるは一度席に戻ると、鞄から小振りな弁当箱の包みを取り出して、やや早足で慎の前に来た。


「よかったら、食べながらお話しましょう」


「……いいの?」


「ええ。私、特に一緒にお昼を取る人もいませんし。スマホの中に学校のお友達の登録件数ゼロですよ」


 それは慎も同じだった。

 それでは、と慎も鞄からパンの包みを取り出して、二人でドアを出る。


 後にした教室から、「なんだあいつら」「え、仲いいのあの二人?」とどよめきが起きる。

 なんだか悪いことをした気がして、慎は能力を使った。意識を集中し、自分は砂粒か塵であると言い聞かせ、体重が、体積が、肉体が消える様子を思い描く。


 すると、それまで連れ立って歩く二人を奇異の目で見ていた人々が、慎にまるで視線を向けずに廊下を行き交うようになった。


「やっぱり凄いですね、相馬くんの力……」


 すばるが小声で、独り言のように呟く。


 慎がすばるを連れていったのは、校舎の隅の部室棟だった。

 引き戸を開けると、教室の三分の一ほどのスペースに、空のロッカーと机が並べられている。


 エアコンはついていないが、部屋が北側に配置されているのと、窓を開けると適当に風が通るので、夏場でもさほど不快な室温ではなかった。


 能力を解いた慎は、すばるをテーブルに促す。

 自分もパイプ椅子を引き寄せて座り、パンの袋をテーブルに置いた。


「使っていいんですか、ここ?」


「うん。表札がなかったよね。どこの部も使ってないみたいだから、たまに忍び込んでる」


 一人きりで落ち着いて昼食を取る場所が、校内になかなかないというのは、慎のような人間にはそれなりに困ることではあった。

 ここを見つけた時は、多少の罪悪感があったが、鍵もかけられていないということはその程度の扱いをされている部屋なのだろうと、勝手に考えて利用している。


 普段は中にいる時は内鍵をかけるのだが、この日はすばるがいるので引き戸を閉めただけで、施錠はしないでおいた。

 すばるは、弁当箱を包んでいたナプキンを解きながら言った。


「相馬くん。なにか、悩み事があるのですか? もしかして、虚空化の能力のことで?」


「……なぜ?」


「相馬くんがわざわざ私を呼び出すからには、能力関連のことだとしか思えませんから。昨日の今日ですし」


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