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「相馬くんの能力の名前です」


「名前」


「今まで、相馬くんが能力のことを打ち明けた人はいますか?」


「いない。家族さえ知らない」


 むしろ、両親には絶対に知られたくなかった。

 どんな形にせよ、間違いなく、慎の意に沿わない形でこの力を使わせられるのが目に見えている。


「それなら、能力に名前をつけるきっかけもなかったでしょう。気に入ったら、使ってください」


「つまり今の虚空化って、僕の能力の名前?」


「そう言いましたよ」


「言ったけども」


 確認が必要な程度には、唐突でもあった。


「私、自分と同類の人と会うのって、初めてなんです。こう見えて、今、かなり気分が高揚しています」


 すばるは、レモンの皮を下にしてグラスの上できゅっと絞った。トパーズ色の香気が見えるようだった。

 戸惑う慎に、すばるは、今度は二本指を立ててピースサインを作った。


「三つのうち、二つ目の理由はですね」


 これもなんの話かと思い、ああそういえば三つあるんだっけ、とようやく慎の理解が追いつく。


「相馬くんの笑い方がいいからです」


「ん。いつか、教室でもそんなこと言ってたね」


「ええ。今日のあの迫力ある男性二人は、まさに私の嫌いな笑い方をしていました」


 慎が思い返してみても、確かに、彼らの笑い方は醜かった。

弱い者を見下す時。勝てると確信していたぶる時。差別する時。優位に立ってあざける時。人間はああいう笑い方をする。


「でも僕は、座馬さんの前で笑ったことなんてないけど」


「あの、私が教室を出る時に、初めて相馬くんに話しかけた日。あの時相馬くん、笑っていましたよ。口元が、こう」


「ええ? 本当?」


 当日のことを思い返してみる。

 すばるが、男子から告白された話と、それにまつわる不可思議な現象の話を聞いていたんだったか。


「……笑っていた、かもしれない」


「あの時、なにがそんなにおかしかったんですか?」


「おかしいというか……。多分、面白いことが起きていると思ったんだろうな。座馬さんには悪いかもしれないけど、……不思議で、意味が分からなくて、僕には理解できないことが起きているって……。そういうの、楽しくない?」


 ふっ、とすばるが小さく息を吹いた。

 慎は、それがため息ではなくすばるの吹き出し方なのだと、この日の夜、一日の出来事を反芻していたと時にようやく思い至ったのだが。


「冒険島の噂を聞いた子供のようですね。道理で、そんな顔をしていたと思いました」


「……冒険島ってなに? そんな顔ってどんな顔?」


「そして三つ目はですね」


 その唐突さにもいくらか慣れて、慎は、はいと背筋を伸ばした。


「相馬くん、私と、以前会ったことがありませんか?」


「座馬さんと? ……ないと思うけど」


 この独特のたたずまいをした少女と、かつて出会っていたのなら、確実に覚えているだろう。


「入学式からずっと思っていました。私、相馬くんが、他人に思えないんです。どこかで会っているような……それも、顔を合わせただけではなくて、もっと親密な関係だったような……気がして」


「さすがにそれだったら、僕も記憶していると思うけど」


「そうですよね。勝手に、すみません。でも、最後のが一番大きな理由かもしれません。相馬くんの顔を見るたびに、以前から……あ」


「え、なに?」


「言いそびれるところでした。一つ訂正させてください。私に告白してきた人の記憶を消しているのは、面倒ごとだと思っているからではないです」


「……そうか。それはごめん、僕が短絡的だった」


「自分の気持ちを誰かから否定されるって、つらいではないですか。それも、意を決して告白したのに断わられるって、どんなに悲しいことか。……私なんかへの告白で、そんな気持ちになって欲しくないんです。だから……」


 心ここにあらずという様子で、すばるがレモネードに手を伸ばした。

 慎が重ねて謝ろうとした時、すばるの人差し指の爪がうっかりと当たって、グラスが大きく傾く。


「あ、ひゃっ」


「座馬さんっ」


 すんでのところで慎がグラスを押さえたので横倒しにはならなかったが、中身は三分の一ほどこぼれてしまった。


「ありがとうございます、相馬くん。うう、冷たい」


 すばるがスカートのポケットを探って、先ほどハンカチを慎に渡したままだったことに気づく。


 慎は自分のオレンジ色のハンカチを取り出して、おしぼりと合わせてテーブルのレモネードを拭き取った。

 すばるはテーブルに据えつけられていた紙ナプキンを取り、黒いアームカバーをめくって、手や手首を拭いていたが。


「あっ」


 声を出したのはすばるだった。

 慎は、見ていない振りをしようとしたが、遅かった。すばるとぱちりと視線が合ってしまう。


 見つけたのが、見つかった。

 すばるにとっても、慎にとっても、失態だった。


 アームカバーの下の左手首には傷があった。一本ではなく、横に四本、縦に三本。


「見られてしまいましたね。日焼けを理由に、うまくカモフラージュできていたんですけど」


 慎は、どんな態度をとるのが正解なのか分からないまま、それでもすばるに対して、できる限り誠実であろうとした。

 その結果、言葉はなにも出てこなかった。

 気にしないよとも、つらかったんだねとも言えずにいた。


「気にしないでください。でも、そうですね。できることなら――」


 その先は、訊く前に分かった。


「――できることなら、もし知ることがあったら、人が死ななくなる方法を教えてください。私、切りたくもないのに、どうしても手首を切ってしまう時があるんです。でも、まだ死にたくないですから」


■■■


 翌朝、夜が明ける少し前。慎は自宅のキッチンでインスタントコーヒーを入れていた。

 専門店でハンドドリップされたコーヒーとは、味が違うのは分かるが、ではどう違ってどちらが優れているのかと訊かれれば、的確に言語化はできない。

 飲んでいておいしいとは――特にインスタントは――思わないが、コーヒーの独特の香りは、ほかのものでは味わえない明るい覚醒感を与えてくれる。


 棚から食パンを取り出し、生のまま一枚かじった。

 トーストしてジャムでも塗ってテーブルで食べればいいとは自分でも思うのだが、ちゃんとした朝食を取ろうと望めばきりがなくなる気がして、ならできるだけ簡便に済ませようとすると、つい流しの前で食べてしまう。


 木造二階建ての古い家には、祖父母と慎、そして妹の四人で住んでいた。両親は今ここにはいない。どこにいるのかも慎は知らない――恐らくは本州のどこかだろう、というくらいで。

 きっと今も、彼らは「布教」に精を出しているはずだ。だから慎は顔も見たくない。


 慎は早々にパンを食べ終えると、部屋へ戻った。

 料理も洗濯も、最初は祖父母に習いながらの当番制だったが、慎が高校受験に臨むころには、すっかり一人で全て担当するようになった。祖父母はそこまでしなくていいと言うのだが、少しは役に立たないとどうも居心地が悪くなる。この家は両親が建てたものだが、日々の生計は共働きの祖父母に依っているためだ。


 アイロンをかけたシャツと、かけた服の肩が出ないように造形された少し値の張るハンガー――祖父が買ってくれた――の制服を取り、手早く着替える。

 着替えの最中も、考え事は続いていた。そのせいで、危うくブレザーのネクタイを忘れかける。


 すばるが告白を断るときの妙な質問――というより条件は、もともと、交際を断っても納得せずに食い下がってくる相手を煙に巻くためのものだったらしい。だがここのところどうにも頭を悩まされている問題だったせいで、とっさに口から出たものでもあるという。

 それが、何度も告白されるうちに習慣化したのだ。「何度も告白される」という現象が、慎にすれば異質ではあったが。


 ――どうしても手首を切ってしまう

 でも、

 ――まだ死にたくはない。だから、死ななくなる方法を教えて欲しい

 なんだ、それは。慎は一人で首をかしげる。


 なんの理由もなく手首を切る人間なんているわけがない。

 そう思うのは、勝手な決めつけだろうか。


 自傷念慮と、実際の自殺行為が、必ずしも直接結びつくわけではないだろうというのは慎にも見当がつく。死にたいという具体的な願望を抱いていない人でも、衝動的に早まったことをする場合もあるだろう。

だがすばるの場合、あれだけ深く多く傷が残るほど手首を切っているのなら、なにか明確な原因があるものではないのか。

 しかしすばるには、そうした心当たりがないという。


「小学生のころ、いじめられたことはあるんです。でもそこまで深刻なものではないというか、他愛ないというのも変ですけど、死にたいと思うほどでは……」


 そんなことを言っていた。


 少なくとも、傍から見ていて、座馬すばるは自殺を求めるほど追い詰められているようには見えなかった。

 どう見てもあと一歩で死んでしまうような状態になってようやく救いの手が伸ばされる、というのも問題だが、今のすばるは、慎の目から見て度を越えて厭世的にも悲観的にも思われない。


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