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 通学路の人通りは、相変わらず、この時間はまばらだった。

 人々は適当な間合いをおいて行き交い、高校生二人の話になど耳も貸さない。

 そうでなければ、今の話はどう思われただろう。


「相馬くんは、私の話、信じてくれますか?」


 疑う理由はない。常識さえ度外視すれば。話の筋はそれで通る。通るが。


「それでは、実演してみましょう」


 すばるが慎の顔に右手のひらを当てた。

 慎は身動きができなかった。

 なにか温かいものが顔の皮膚から流れ込み――単にすばるの体温が伝わったというのとは明確に違う――、代わりに、冷たいものが抜き取られていく感覚があった。


 すばるが手を離した。


「相馬くん。今私は、あなたの記憶を一部封印して、忘れさせました。信じますか?」


「今ので? そんなこと、信じるかと言われれば……ノーとしか言えないよ」


「相馬くんは、そこに落ちていた鳥の雛を助けてあげようとして、ガラの悪い二人組に絡まれました。殴られ、殴り返して、そこの路地へ連れ込まれたんです」


 慎は、すばるが順に指さした地面とハナミズキの巣を見やった。次に、まだ明るいというのに黒々としている、陰が深い路地を。


「僕が? ……鳥のために? 殴られた――殴った? そんなばかな。雛がいるの? あの巣に?」


 見上げると、確かにハナミズキの枝に鳥の巣がある。しかし雛がいるかどうかは、下からは見えない。

 試しによじ登って覗き込んでみると、確かに灰色の小さな鳥がそこにいた。

 しかし、こんな小さな鳥のために自分が体を張るようなことをするかと言われると、慎には確信がなかった。


「……本当なの? 全然覚えてないけど、そんなこと」


 慎は記憶を探る。帰り道で、すばると会った。それは覚えている。だがその前後、数分間の出来事は、もやがかかったようで明確には思い出せない。

 その感覚が、すばるの話の真実味を肯定した。今の自分は、なにかが欠落している。目の前の少女の手によって。


「雛についての記憶まで『隠す』必要はなかったのかもしれないですけど。私の能力は記憶を消すのではなくて、正確には隠すだけなので、きっかけがあれば思い出すことができまして。雛のことを覚えていたら、そこから記憶をたどって、殴られたことも思い出してしまいかねませんから……。相馬くんがあんな人たちに傷つけられたこと、覚えておくことはないでしょう」


「それは……どうも。殴られた、って言われてもまるで思い出せないな。でもそういえば、顔が痛い。僕が、殴り合いをね……」


 意識を集中してみるが、隠された記憶とやらがよみがえってくる気配はない。


「いきなり忘れたものだけを聞いても、思い出しにくいみたいです。数学で答えだけ聞いても、式が分からないと理解できていないのと似たようなもので。もちろん、まったくのノーヒントよりは格段に思い出しやすくなりますけど。芋づる式というか、小さなきっかけから順序だてて記憶を引き出していくのがコツのようですが、簡単ではありません。無理することないですよ」


 当たり前のように解説してくれるすばるに、慎は逆にある種の不安を覚えた。


「ずいぶんあけすけに教えてくれるけど……これ、座馬さんにとってかなり大切なことなんじゃないの? 僕に、そんなに簡単に色々教えてくれて大丈夫? たとえば、言いふらされるだけでもだいぶ困るんじゃない?」


 すばるは目を伏せ、両手の指先で、両頬を押さえた。なにか思案しているらしい。

 やがて、すっと顔を上げた。


「少し、落ち着いてお話ししましょう」



「私、一度喫茶店って入ってみたかったんです」


 そう言うすばるの頬は、こころなしか紅潮している。表情自体は教室にいる時と変わらずあまり豊かではないが、椅子を引いて座るしぐさはどこか楽しげだった。


 通学路からは二つ三つ辻を隔てた、閑静な通りに、純喫茶「イルガチェフェ」はあった。

 ライトブラウンを基調にした店内は、渋みがありながらも重苦しい感覚はなく、こまごまと置かれた人形やオブジェがさらに印象を軽くしている。


 店内は、夕暮れが近いこともあってか客はまばらだった。和紙の切り絵で彩られたメニューを、すばるは素早く端から端まで読み込んでいく。


「では、私はレモネードにします」


 注文を取りに来た、店主らしい壮年の男性に、すばるがやや高い声で告げた。


「僕はブレンドください」


「えっ。ブレンドって、コーヒーですか」


 すばるが表情を変えないまま、眉だけを上げた。


「そうだけど」


「飲めるんですか。おいしいですか?」


「ちゃんと味が分かっているかと言われると難しいけど、いいにおいがするから」


「もしかして相馬くんは、喫茶店に行き慣れているんですか」


「慣れているってほどじゃないよ。高校生のお小遣いで、そう月に何度も行けないし」


「とうことは、アルバイトはしていないんですね」


 慎の手が、個包装のおしぼりをすばるに差し出したところで、ぴたりと止まった。

 ほんの一二秒してから、動きは再開する。


「うん。そうだね。していない。いずれしないとと思ってるけど。座馬さんは、これが初めてなんだ、喫茶店?」


「ええ。店員さんに肉声で注文するのが少し苦手で。……すみません、私、訊かないほうがいいことを訊きましたか」


 言葉の後半が、アルバイトの件だということに、慎は何拍かおいて気づいた。


「いや、個人的なことだから。それはそうと、本題について話そう。どうして僕に、君のその――能力のことを教えてくれたんだ? 見ている限りじゃ、今のところ、周囲には秘密なんだろうに」


 慎は、四月からこっちに至るまで、すばるを取り巻いていた噂のことを思い出していた。

 この女子高生に告白した人間のうち、少なくない人数が、座馬すばるのことを忘れてしまっている(・・・・・・・・・)という、あれ。

 あれは、こういうことだったのか。


 そんな超常的な力をこの女子が持っていることが知られているなら、いくら高校の中にろくに友達がいなかったとしても、慎にも噂くらい届くだろう。

 つまり、これまでは内緒にしてきたことなのだ。人間の記憶を「隠す」という、彼女の能力は。


「座馬さんに告白して、記憶をなくす人間となくさない人間がいるっていうのも、さっきの説明で合点がいった。つまり、学校生活でそうそう会う機会のない人間なら君の記憶を隠したほうが面倒がないわけだ。校舎の棟が違う上級生とか。けど、たとえば中町くんみたいに同じクラスで必然的に会う相手なら、一度忘れさせてもなにかのきっかけで記憶が戻るかもしれない。そうなれば、君の能力のことも広まりかねない。『座馬さんに顔に手置かれたら、記憶が飛んだんだ』とでも言われようものなら、そこから話がどう転ぶか分からないものな」


 すばるは、ゆっくりと一度うなずくと、右手の指を三本立てた。


「相馬くんに能力のことを教えた理由は、三つあります」


「うん」


「まず、相馬くんがどうやら、私と近い存在であるということ」


「……ああ、そうか。始めから見ていたって言っていたっけ」


 ならば、あの男二人ともめる前から見られていたということになる。ちょうどすばるも下校中だったのだろう。

うかつだったな、と慎はひとりごちた。自分の能力を過信してきているのかもしれない。


「びっくりしました。前のほうを歩いている顔見知りの男子が、いきなりふっと路上から消えたように見えて。私の目がおかしくなったのかと思ったら、あの二人の前に今度はいきなり現れたんですからね」


「……そうだ。その時座馬さんが見たものが、僕の能力の全てだよ。本当に透明人間になったり、物質をすり抜けられたりするわけじゃないけど、存在感を消して人から見つからなくなることができる」


「とうことは、相馬くんのほうから声を出したり、暴れたりすれば……」


「見つかる。ただそれだけ。確かに、ほかの人にはない能力だけど、座馬さんのほうがずっと凄いよ。人の記憶を……」


 そこで、レモネードとブレンドが運ばれてきた。

 レモネードにはくし切りのレモンと砂糖が添えられており、背の高い透明なグラスの中の黄金色の液体が調味できるようになっている。


 店主が去ってから、慎が続けた。


「人の記憶を操作できるなんて、尋常じゃない。僕たちは、似ているといっても、ずいぶん違うよ。能力に差があり過ぎる」

 

いくらか自虐を含んだ慎の言葉に、しかし、すばるの返した言葉は、


「……虚空化(こくうか)、というのはどうでしょう」


 だった。


「……なにが?」


 慎は、コーヒーカップの取っ手に添えた指先に、力を入れて持ち上げるより先に、そう訊いた。すばるの言葉の意味が分からず、わずかに力が抜けてしまったからだ。


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