2
「ほら、キンも、君も、ここじゃ目立つからさ。その路地に入ろうぜ」とタトゥーが言う。
否応なく、慎はビルの間の薄暗い隘路に引きずられていく。
路地の奥側にイヤーカフ――キンというらしいが――、出口側にタトゥーの男が立ちはだかった。
駄目で元々と、慎は呼吸を極端に穏やかにさせ、自分の体が消えていく様子をイメージする。
しかし、さすがに、これから挟み撃ちで暴行しようとしている相手に対して、存在感を消せるはずもなかった。
二人の目は明確に慎をとらえている。逃れられない。慎は胸中で舌打ちした。
声もなく、イヤーカフが拳を振り上げる。
やむなく慎が応戦しようとした、その時だった。
「なにをされているんですか?」
場違いに涼やかな声に、慎は聞き覚えがあった。
慎の前後に立っていた二人と共に、路地の入口のほうを振り返る。
そこには座馬すばるが立っていた。
制服姿で、ごく普通の下校途中という様子で、暗い路地から縦に細長く切り取られた明るい外界を背にしてそこにいる。
慎からは明暗差のために黒色に見えるプリーツスカートが、柔らかいAラインをわずかに風に揺らしていた。
「ざ、……いや、君には関係ない。行きなよ」
慎は、座馬さん、と呼びそうになって、名前を出さないほうがいいだろうと危ういところで言い直した。
こんなところに女子が首を突っ込んでいいことなどなにもない。
だが、そんな慎の思考などお構いなしに、すばるはそろそろと路地の中に入り込んできた。
「クラスメイトに、ずいぶん冷たいではないですか。傷つきますよ、私」
慎は、また胸中で舌打ちした。
慎と関係があると分かれば、この金髪二人が、すばるにもどんな悪意を抱くか分からない。
案の定、タトゥーのほうが、一貫して消えない嘲笑を口元に浮かべながら、すばるに寄って行った。
なにをするつもりなのか、筋肉の筋が浮いた腕を伸ばして、すばるの胸元辺りをつかもうとする。
こうなったら体当たりでもして、すばるだけでも逃がしたほうがいい。その後自分がどんな目に合うかは、とりあえず考えなくていいだろう。
慎は、腰だめの体勢に構え、駆け出そうとしたが。
「失礼します」
すばるもまた、タトゥーの男に歩み寄った。
そして右腕をついと伸ばして、男の顔面にぴたりと手のひらを当てる。
「なにしてるんだ!」
叫んだのは慎だった。
すばるの手が振り払われ、返す刀で、その胸ぐらがつかまれる――
そんな光景を、慎は想像したのだが。
タトゥーの男は、静止したまま動かなかった。
すばるが手を離し、タトゥー男の横を通って、慎の元まで歩いてきても、彼はまだその場に突っ立っている。
イヤーカフの男が、さすがに不審に思ったらしく「おい、ニシムラ?」と声をかけるが、タトゥー男はまだ背を向けたまま沈黙していた。
「今です、相馬くん」
「……え? なにが?」
「始めから見ていました。相馬くん、あの刺青の人に腰を蹴られていたでしょう」
「あ……ああ。そうだね」きまり悪そうに慎が答えた。
「やり返してください。今なら刺青の人に、簡単にキックが入ります。相馬くんがやられたのと同じ、腰の後ろにでも。ほらほら」
「いや、入りますって……どうなったんだ、あの人? 急にマネキンみたいに固まったけど」
タトゥー男の背中は、Tシャツ越しにうっすらと筋肉を浮かしていた。その様子から見て、動きは止まっているが、体は脱力――というより、弛緩しているようだった。
「説明は後からでもできます。でもあの人すぐに意識を取り戻しますから、キックを無防備状態で入れられるのは今だけです。さあ。早く」
「いやそんなこと言われても。人蹴ったことなんてないし、蹴りたくもないし」
正面から殴るのと後ろからけるのとでは、やる側も気の持ちようが違う。
「強い意志による前例の打破こそが、より明るい明日を連れてくると思いませんか」
「そんな選挙ポスターみたいなこと言われても」
すると、すばるはふるふるとかぶりを降った。
「なるほど。無抵抗の相手に後ろから攻撃することは、相馬くんの騎士道精神が許さないようですね」
「え、そんな大袈裟な話ではなくて……ただ、……」
「では、私が相馬くんに代わって仇を取ります。えい」
げし。
すばるの、緊張感のない前蹴りが後ろ腰に入れられると、タトゥーはその場に崩れ落ちた。
蹴り倒されたと言うよりは、糸の切れた人形のようで、反撃に移る気配もない。
「なんだ? お前ら、なにやって……」
困惑した様子のイヤーカフに、またすばるの手がすうっと伸び、その顔面をつかんだ。
慎は男の顔を見た。すばるの細い指の隙間から覗いていた目が、急に焦点を失ってうろんになると、こちらもぐったりと体の力が抜けていく。
「この人には、相馬くん、殴り返していましたよね。ということは、これ以上の加撃は不要ということで、このまま、えい」
無造作に、やや痩せ気味の女子高生が、屈強な男をその場に転がした。
「さあ、長居は無用です。この人たちが復活する前に行きましょう、相馬くん」
「あ、ああ、うん」
二人は路地を出た。
やがて黄昏を生み出すのだろう太陽が、今はまだやや西のほうへ傾いただけで、充分な陽光を地表に投げかけている。
慎は、地中から抜け出た地底人のような気分だった。
先ほどの鳥の雛は、まだ地面の上に力なく這いつくばっていた。日陰になっているおかげで、高熱になったアスファルトには煎られておらず、慎は胸をなで下ろす。
すばるが、雛を紺色のハンカチにすくい取った。
「相馬くん、この子、巣まで帰してあげられますか?」
「ああ、なんとかいけると思う」
慎はハナミズキの幹を傷つけないよう注意しながらよじ登って、右手が巣に届くのを確認し、地上のすばるからハンカチを受け取った。
そうっと雛を巣に下ろすと、着地した慎はハンカチを四つ折りにし、
「洗って返すよ」
「なぜです。私が使ったハンカチですよ」
「でも、僕が発端だから」
これまであまり人と接することのなかった慎には、こういう場合どう立ち回るのが正解なのか分からなかったので、思いつく限り丁寧な提案をしたつもりだったのだが。
反論されると、それが正しいのかどうか、自信が持てなくなる。
まあ、ハンカチ一枚、どう転んだところで構わないものなのかもしれないな……と思った時、慎の視線の先に、なおも言いつのろうとするすばるの背後で、先ほどの二人組が路地から這い出てくるのが見えた。
(しまったな。洗濯の話より先に、この場を離れるべきだった)
こういう状況判断の甘さが世慣れていない表れか、と情けなく思いながら、慎はとりあえずすばると二人組の間に立ちはだかった。
「座馬さん、駅へ行くんだよね? 早く行きな、ここはもういいから」
自分のせいで女子に危害が加えられたらと考えると、ぞっとする。しかし。
「その必要はありません。見ていてください」
イヤーカフとタトゥーの男は、並んでのろのろと表通りに出てくると、二三度頭を振って、歩道を歩き出した。
その際、明らかに慎とすばるが視界に入っていたはずだが、まるで気にしない様子で無視して向こうへ行ってしまった。
「……あれ?」
「あの二人は、もう私たちのことを覚えていません」
「……どうして?」
「私が、あの二人に、私たちのことを忘れさせたからです。副作用で、短時間ながら半ば気絶状態にもなっていましたけど」




