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<第一章 死にたくなくて切る手首>

 梅雨時のじっとりした空気がまとわりついてくると、慎はいつも、空気中で溺れそうな気になる。

 この日は、曇り続きだったここのところには珍しく、太陽が出ていた。


 六月の終わり、高校からの帰り道でのことだった。

 最寄りである千堂台(せんどうだい)駅へ向かう途中の商店街の街路樹が、今までよりもくっきりとした緑色に染まり、相応に濃い影をアスファルトに落としている。


 慎は、咲いた時にはもう散り際を思い起こさせる桜の花よりも、この時期の葉桜のほうが好きだった。力強く生き生きと茂って、葉の下を歩く者に襲いかからんばかりに見える。その威勢が愛おしい。


「僕よりも、桜のほうがよっぽど動物らしいな」と慎は小さく息をついた。


 独耀高校からの帰途は、川沿いの土手を抜けると、この商店街の先で駅に至るようになっていた。駅までの最短経路がほぼ決まっているため、ほとんどの生徒がこの道を通る。


 帰宅部である慎は、まだ日が高いうちにこの通学路を変えるのが日常だった。しかし部活をやっている生徒が一斉に帰る時間の、いわば第二陣は、学生特有の仲間意識が、一見してそれと分かる独耀校生の群れを形成するらしい。

 帰宅部でも似たような集団を形成する一団というのはいるのだが、今のところ慎には縁がなかった。なにしろ、同じクラスでもろくに打ち解けていないのだから、無理もない。


 あと五分も歩けば駅に着くという辺りで、通行人の数が増えてきた。

 慎は神経を集中した。


(人が多いところで訓練してこそ、腕がなまらずに済む)


磨き上げたところでなんの役に立つのかと人から訊かれれば答えられない能力だが、自分が持つこの力を突き詰めたいという思いは、常に慎の心の中心にあった。


 暑さのせいで乱れていた呼吸を整える。目の焦点を合わせず、思い切り遠くを見るような感覚でぼんやりと視界を広げる。いつの間にか汗が引いていた。


 通常ならばそれなりに人目を引くはずの、同い年の中ではやや高い身長も、色の薄い髪も、すうっと存在感を失っていった。

 ヒールを鳴らして隣を歩く女性のすぐ横をしばらく並んで歩いても、不審な顔一つされない。


 前方から向かってきた男性は、まるで慎が見えていないかのように突っ込んできて、危ういところで慎は正面衝突を避けた。ふう、と安堵の息をつく。


 間髪入れず、今度はぱたぱたと小走りで親を追っていた小さな男の子が、これも危うく慎の足元にぶつかりそうになったので、すんでのところでかわす。ぶつかられでもしたら大変だ。


 駅の間近まで来ると、いよいよ混雑が増してきた。

 しかし、その中の誰一人として、慎のことが見えていない。


 存在感が薄いどころではない。

 他人の意識から、自分の存在を消し、ほとんど透明人間と化してしまう。

 こうなると、慎のほうからぶつかったり声をかけたりしない限り、そうそう人からは見つからない。特技というよりも超能力に近い。


 慎は、子供のころからよくその存在を忘れられる子供だった。小学校の就学旅行では、担任教師が慎だけ点呼をし忘れた。

 デパートに出かければ親にも連れて帰るのを忘れかけられたことがある。

 だから、自分がこんな能力を持っていることにはしばらく気づかなかった。今でも、なぜかはともかく、いつから身につけたものなのかは明確には分かっていない。


 その気になれば窃盗もスリもやりたい放題だろうとは思う。この力で働ける悪事はいくらでも思いつく。

 しかし、そんな風に自分の特性を悪用する気は慎にはまったくなかった。どう使うかと同じくらいに、どう使わないかというのが大事だと、固く信じている。


 ふと、慎の視線が、一本の街路樹の下で止まった。

 五メートルほど先のアスファルトの上に、やや明るい灰色の点が落ちている。

 点の正体は、鳥の雛だった。

 街路樹の枝に作られた巣から落ちてしまったらしい。

 すぐ脇にあるのはハナミズキだった。目を凝らすと、慎の身長よりも少し高い位置にある枝の上に、巣らしきものが見える。

 あれくらいならよじ登ればいいとして、野鳥というのは素手で触っていいものだったか……と思案しながら歩いていると、雛の前に別の人影が立った。


 慎は少々不穏なものを感じた。

 人影は二つ、背格好がよく似ていた。どちらも髪を安っぽい金色に染めた二十代半ばと思しき青年で、身長は慎と変わらないものの、筋肉質でがっしりと横幅がある。

 それだけならどうということもないのだが、雛を見下ろす二人の口元には、にやにやと笑みが浮かんでいた。


 小さな生き物への情愛を込めた表情には見えない。もっとおぞましく、度し難い笑い方をしている。


 一方の金髪が、ごてごてとしたイヤーカフとピアスを右手で弄びながら、つま先で、雛を蹴り転がそうと踵を引いた。

 その瞬間に、超能力を解除して駆け寄った慎が男の肩をつかんだ。Tシャツ越しに硬い筋肉を感じる。


「うお、なんだお前。いつからそこにいた?」


「……あなたは今、なにをしようとしたんだ?」


 慎が、慣れない眼光を鋭く飛ばしながら、そう告げる。

 あえて語尾に敬語を使わなかったのは、この手合いに、下手に出て意味があるとは思えないからだった。


「お前関係ねえだろ。なんだ、でかい顔しやがって」


「関係あるよ。その雛を巣に戻すんだ。そこどいてくれ」


 問答は最初から諦めているので、こちらの意図だけを告げて、慎は雛の前にかがみ込んだ。

 いきなり、後ろから、腰に衝撃を感じた。

 うわっ、と声を上げながらつんのめった慎は、思わず両手を前につく。もう少しで、雛を手のひらで潰してしまうところだった。


「おい、気をつけろよ。鳥さんの命を粗末にしたらいけねえよ」


 笑いながらそう言ってきたのは、イヤーカフのほうとは別のもう一人だった。

 慎が立ち上がって振り向くと、半袖のTシャツの袖口から、髑髏と刀をモチーフにしたタトゥーが見えた。あまりデザイン性が高いとは言えない、人を威圧することだけが目的の意匠は、今まさにその役目を果たさんと腕まくりされて全貌が顕になっている。

 

「……あなたたちは、どうしてこんなことするんだ。自分より弱いものをいたぶって楽しいのか」


 イヤーカフが答える。


「楽しいね。鳥なんか蹴ったトキねえもん。ちっと小さ過ぎてつまんねえけど」


 慎には理解できない。


「……へらへらへらへら、なにがおかしいんだ」


 そこで、金髪二人がすっと笑みを消した。


「なあ、なんでお前そんな調子に乗ってんの? すげえ態度でかくて、イラッとする。ああ、イラッとするわあ」


 そう言って、イヤーカフが一歩前に出る。

 慎は、雛をかばうように、その場に仁王立ちしていた。


 声に出さずに悔やむ。こんなやつら、能力で姿を隠したまま、後ろから飛び蹴りでもしてやればよかった。

 さすがにそこまでやれば、いくら存在感を希薄にしても姿は見つかってしまうだろうが、今これから正面切って殴りあったとして、二対一ではたちまちやられてしまう。


「……でも、逃げるよりは、負けるほうがいいか」


「ああ? なんだって?」


 ついにイヤーカフが踏み込んできて、慎の右頬を殴った。

 慎はよろめきもせずに踏ん張り、こちらも右フックを返す。細い腕の先の、人を殴り慣れていない拳が、かつんとイヤーカフのこめかみを打った。人の顔を殴ったのは、初めてだった。


「……は? つっ……」


 まさか、こんな大人しそうな高校生に反撃されるとは思っていなかったのだろう。

 呆気に取られたような表情をしたあと、イヤーカフのはまった耳の先まで真っ赤にして、男が激昂した。


「てめえ! やったなおい!」


 いよいよ本格的に喧嘩が始まる。

 右腕を振りかぶったイヤーカフに負けじと、慎が覚悟を決めて前へ踏み出したが、その首根っこをタトゥーの男のほうにつかまれてしまった。


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