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慎は、思うということもなく雨幸のことを思った。
――あなたが守ろうとした女の子は、今は、結構楽しそうにしています。つらさに押しつぶされて見えなくなっていた幸福の数が、増えているように見えます。
僕も結構幸せです。
あなたがいてくれてよかった。何度も思う。いなくなってしまったのと、いなかったのは違う。全然違う。それはこんなにも毎日証明されている。
「すばるさん、後で犬くんたちにも会わせてくださいねっ」
「いいですとも。みんな、とってもいい子なんですよ! ……人間には感じ取れないような、かすかな気配も見逃しませんしね」
ちろ、とすばるが慎を見る。空き家での虚空化の件を、彼女はまだ少し怒っている。
その後ですばるは明音に独特の犬小屋を案内してやり、明音が犬たちと戯れているのを眺めながら、リビングに残っていた真の横へ戻った。
すばるがアームカバーを外す。冷房の効いた部屋から外に出たせいで、暑くなったのだろう。
手首の傷跡は消えていない。もうそこに新しい傷が増えてはいないが、傷は古くなっても、それをつけさせた慎の罪悪感は消えていない。この辺りは、理屈ではなかった。
すばるはそれを気にしているのかいないのか、気まぐれにアームカバーをつけたり外したりしている。慎からことさらに傷を隠そうとするのも、見せつけながら過ごすのも、どちらも正解ではないと考えているのだろう。
しかし不正解でもない。だからどちらでもいい。
快さも苦しさも、この二人は互いに与え合うことを恐れない。
「慎くん」
「ん?」
慎は、すばるが入れてくれたアイスティのグラスを傾けながら応えた。
「なんとなくなんですけど。私は慎くんがまた虚空化で、目に見えないくらい存在感を消してしまっても、どこにいるのかが分かってしまうような気がします」
すばるが慎を見つめた。
慎も、グラスを置いて見つめ返しながら答える。
「僕も、記憶封印ですばるのことを忘れても、また出会えばすばるのことが分かる気がする」
隣にいるすばるを見るだけで、慎の胸は高鳴る。
その気持ちを恋だと名づけることは、容易ではあった。実はすでに何度も、慎なりに告白を試みては、落ち着いてもう少し考えろと言い聞かせるのを今日までに繰り返している。
だが恋愛感情とは確かに別に、ごく純粋にすばるを大切に思う気持ちがある。もし慎の恋が破れても、すばるを貴ぶ思いが慎の中で失われることはないだろう。それだけは誤解されたくない。
そうは思うのだが。
「すばる」
「はい?」
「好きだ」
純粋であろうとすればするほど、止められない思いというものもあった。
「私もです、慎くん」
「本当?」
「はい。今ほどの虚空化のくだり、私なりの告白のつもりでしたから。好きです、慎くん」
「……すばるが、僕とつき合ってくれる?」
「はい、喜んで。今までと変わっていってしまうのは、怖くもありますけど。それでも私たち、……ずっと仲良しでいましょうね。なにが起きてどんなにいろんなことが変わってしまっても、私たちは」
慎はうなずいた。
自分より大切なもののために自分をなげうってしまうような二人は、きっとこれからも危うい。
上手に生きられない日々はまだ、長く続くかもしれない。誰もがそうであるように。
だが今は、自分よりも自分を大切にしてくれる人がいると二人は知っている。
だから、……
空はよく晴れていた。
犬の鳴き声と少女の笑い声。夏休みのありふれた一日はあまりにも平和だった。
――人が死ななくなる方法を探していたすばる。
彼女は見つけた。
僕も見つけた。
終




